トルストイ『戦争と平和』人物事典11(77人目)

 

 ★★★・エレーヌ(1-1-1)

 

 

 ワシーリー公爵の娘。ゆるぎない美貌の持ち主。「自分を見て魅了されない人間がいるなどとは夢にも思わないといった雰囲気」を漂わせて、主人公たちを誘惑へといざなう。誘惑者として、ボルコンスキー家のマドモワゼル・ブリエンヌと一対になっている。作者はエレーヌを悪女として位置づけたいのだが、この人のことを悪く言っているのは、ピエールの心の声だけである。

 アナトールとエレーヌは、いずれも世間のタブーにとらわれず、自分の欲望のままに生きており、どちらも一度はピエールに殺されそうになるが、最後は戦死と病死という予期せぬ形で死んだ。天罰によってではなく、だれかの意図によってでもない。生きているときは世間を騒がせ、関係する人間の心を騒がせたが、最後は、「死んだらしい」という噂が間接的に記述されているだけだった。

 

 

冒頭

 

結婚

 1805年のアンナ・パーヴロブナ夜会に登場。絶世の美女として描かれる。兄のアナトールとの間にスキャンダルがあったことが示唆されている。

 結婚前夜、ピエールには、「そう、私は女で、だれのものにもなることができるのよ、あなたのものにでも!」と、エレーヌの目が告げていたように見えたそうだ。父のワシーリー公爵が、煮え切らないピエールを押し切って、二人は結婚することになった。

 

もしあなたがもっと賢くて素敵な人だったら

 結婚後、兄のアナトールに裸の肩にキスをさせたり、ドーロホフとの関係が噂になったり……。神経の細いピエールはそれに耐えきれず、ドーロホフに決闘を申し込む。ピエールには主人公補正のラッキー属性が付与されているので、思いがけない偶然によって、決闘に勝利してしまう。

 帰宅したピエールに、「あの人に言われたことを何でも信じるのよ。ドーロホフが私の情夫だって」「きっとみんなが言うわ――あいつは酔った勢いで、血迷って決闘を申し込んだんだ、根拠もなしに嫉妬に狂って」「どこから見ても自分より優れた男を相手に」「もしあなたがもっと賢くて素敵な人だったら、私だって喜んであなたのそばにいたわ」と、ピエールの痛いところを突いている。

 ピエールが別れようと言うと、「別れるっていうなら、かまわないわ、ただ私に財産をよこすならね」と答える。ピエールは「貴様を殺してやる!」と叫んで妻にとびかかり、思いがけない怪力でテーブルの上にあった大理石盤を持ち上げ、頭上に振りかざした。これは、「ピエールの父親の血があらわになった瞬間」であり、ピエールは「狂乱の歓びと快感を味わっていた」のだそうだ。

 この件で、エレーヌには世間の同情が集まることになった。

 

 

中盤

 

親ナポレオンサロン

 1808年、フリーメイソンとなった夫にゆるされて、ペテルブルグに戻る。そして、上流社会の親ナポレオン派のグループの最も輝かしい地位占めるようになった。ナポレオン派と太い人脈を作り、ナポレオンにも美しさを称賛されている。

 この2年で、「美貌に劣らぬ知性を備えた女性」という世評を勝ち取った。そして、エレーヌのサロンに受け入れられることが知性の証明とみなされることになった。出世欲の権化であるボリスが、足しげくこのサロンに通うようになり、ピエールの心は穏やかでなくなった。

 ピエールだけは、「妻のエレーヌは、自分の肉体を愛する以外一度として何ひとつ愛したことのない、この世で一番愚かな女の一人だ」と評している。夫婦がお互いに相手を愚かだと信じ切っているのは、ベルグ・ヴェーラ夫妻も同じだが、根底に愛があるかどうかが決定的に異なっている。

 

 

ナターシャ

 エレーヌは、ナターシャと既婚者の兄アナトールを結び付けようとする。世間のタブーと自分、どちらが正しいのか。私に決まっている。エレーヌには何の後ろめたさもないので、息をするように人を堕落させることのできるのだった。「兄はあなたに夢中、本当にメロメロなの」「ほらほら赤くなった」。婚約者があると知りつつ、ナターシャを誘っている。互いが惹かれあっているなら、約束などに縛られる必要はない。ナターシャ誘拐が未然に防がれたあと、エレーヌは夫のピエールに軽く怒られている。

 

終盤

 

二重・三重の結婚

 1812年になっても、5年前と同じくペテルブルグサロンの二大巨頭の一角を担っている。ワシーリー公爵が両サロンを結ぶ鎖だった。エレーヌのサロンでは、フランスとの決裂が遺憾の目で見られていた。エレーヌは、ヴィルナで外国の若い王子と親密になり、ペテルブルグで高官の特別なひいきを受けた。二人と親密な関係を保つなどということは、彼女にとっては簡単なことだった。「真の偉大な人間らしく、たちまち自分を正しい立場におき、またその正しさを心底から信じ、そして他のすべての人々がわるいことにしてしまった」。若い王子がエレーヌに不満を言うと、「それは男のエゴイズムの過酷さというものです!」と、エレーヌは自分との結婚を迫る。相手が無理だと言うと、「ご身分がちがうから、わたしと結婚してくださいませんのね」と責める。王子が宗教や法律を盾にして、結婚できない理由を説明しようとすると、「法律、宗教……これが許せないくらいだったら、何のためにそんなものが作られたのでしょう!」と言って、イエズス会の牧師の助言を求め、カトリックに改宗する。そして、「嘘の宗教」による束縛をなかったことにしようともくろんだ。そのうえで、老高官にも同じように結婚を持ちかけ、同じ理屈で、結婚を可能な状態に持ち込んだ。そして、少しの恥じらいの色も見せずに、「王子からも高官からも結婚を申し込まれ、どちらも愛しているので、どちらかを悲しませることは胸が痛い」と語った。

 この話はペテルブルグに瞬く間に広がったが、夫が生きているのに他の男と結婚することが、悪いことかどうか話題にのぼらなかった。その点については、すでにおえらい方が解決したものとされていたからだった。ただひとり、雷竜アフローシモフだけが、「こちらでは、生きてる夫をうっちゃって嫁に行くなんてことがはやりだしたようだね。あんたはこの新手をあみだしたのは自分だなんて、うぬぼれてんじゃないのかい? お気の毒に、出がらしでしたよ。とうの昔に考え出されたことさ。」と言った。しかし、だれもが彼女を恐れてはいるが道化あつかいしていたので、その意見が問題になることはなかった。ビリービンの助言もあって、老高官に嫁ぐことを決めたようだ。

 

 戦争中であろうとも、関係ない。ナポレオンに戦争の才があり、アレクサンドルに統治の才があったように、エレーヌもまた、ただ生まれ持った才のままに生きたのだろう。エレーヌは、病気になって、イタリア人の医師にかかる。「この妖艶な伯爵夫人の病気は、同時に二人の夫と結婚することの不都合から生まれたもの」だと、噂された。そして、狭心症で亡くなったとあっさりと記されている。

 何かにつけ「理由」を書くが、その理由への小説としての説得力には無頓着、そんなトルストイらしい描き方だった。夫ピエールも、特に何の感想ももらさない。ひとつの戦争が終わったのと同じようなあっけなさ。おそらくまだ30歳くらいだったのだろう。