トルストイ『戦争と平和』人物事典1(1~6人目)

 

・アーシ男爵(3-2-4)…スモーレンスクの県知事。バルクライから、スモーレンスクに戦火は及ばないと言われていたが、その言葉に反して、8月5日には、完全に戦場となった。ボルコンスキー老公爵に派遣されて、戦況を確かめに来たアルパートゥイチ(老公爵の所領の支配人)に、安全を保証すると書かれたバルクライの指令書を見せて、「わしは上からの命令によって行動したのだ……」と、激しくなる銃声の中で気ぜわしそうに言い、「老公爵のご健康がすぐれぬとしたら、モスクワへ行かれるようわしはすすめる。わしもすぐに発つのだが」と伝えた。アルパートゥイチは、スモーレンスク放棄の切羽詰まった瞬間を目撃することになる。

・アーリンカ(2-4-7)…ミハイル伯父の使用人のひとり。ナターシャを見て、「アーリンカ、ほら見てごらんよ、横座りで乗っている!」。

・アウエルスペルク公爵 (1-2-10)…オーストリアの中将。ウィーン陥落後、河のこちら側に陣取って、ブルノを防衛していた。アンドレイが使者として到着した段階では、タボール橋頭堡には地雷が仕掛けられており、敵に奪われていなかったが、アンドレイが皇帝謁見している間に、三元帥の策によって橋を奪われてしまった。

・赤毛…クラースノエの戦いの最後の日に第八中隊に集まった兵士。腕力の強い兵士で、自分より弱い連中にいばりちらしているのだった。「おい、からすおめえでもいいや、薪をもってこい」。(4-4-8)

・アキンフィー神父(2-3-26)…マリヤが巡礼に出たいと打ち明けた相手。神父はこれを支持した。

・アグラフェーナ・イワーノヴナ・ベーロワ(3-1-17)…オトラードノエのロストフ家の近所に住む女地主。ナターシャ(アナトール事件後)に一緒に精進しようとすすめた。朝三時にナターシャを起こしに来たが、すでにナターシャは起きていた。

・アダム・チャルトリシスキー⇒チャルトリシスキー

 

 

★★・アナトール・クラーギン(1-1-6)

 

 

 ワシーリー公爵の長男(弟はイッポリート・妹はエレーヌ)。背の高い美男子。虚栄心も名誉心もなく、愛するのは遊興と女性のみ。ドーロホフが精神的支配を快楽とするが、アナトールは肉体的支配を快楽とする。アナトールという人物は、人間性も知性も欠如しており、美しい肉体と欲望だけが存在するので、内面描写が存在しない。したがって、作者に都合のよい人形のように動く。冒頭では、「無個性なただの若者」としての属性だけを宿した主人公たちに、さまざまな陰影を宿すために用意された劇薬としての役割を果たしている。

 また、アナトールとエレーヌ兄妹は、男女の相違のみが設定された鏡のような存在である(兄妹が互いに惹かれて恋愛関係になったというエピソード・このスキャンダルによって、アナトールはペテルブルグから追放された)。

 ピエールとナターシャの結婚物語において、エレーヌがピエールを誘惑し、アナトールがナターシャを誘惑する役回りを演じる。一方、アンドレイを中心として見るなら、弟イッポリートが先妻リーザを誘惑し、兄アナトールが婚約者ナターシャを誘惑している。アンドレイがナターシャを奪ったアナトールを赦すために、外的・内的な試練が与えられた一方で、ピエールがナターシャと結婚するために、作者の手によって、障害となる人間が物語から次々に排除された。関係性をもたらすのは、内的で主体的な変化か、外的で受動的な変化かという対比になっている。

 

 

冒頭

 

道楽者たちの遊興

 道楽者のアナトールの身を固めさせるため、ボルコンスキー公爵の娘マリヤとの縁談を、アンナ・パーヴロヴナが仲立ちすることになった。大人たちの心配をよそに、若者たちは徒党を組んで、夜な夜な遊んでいる。どこからか用意した三頭の子熊を鎖につなぎ、この熊を連れて女芸人の館に連れ込んだり、警察署長を捕まえて熊と背中合わせに縛り付け、そのまま熊を川に放したりした。この一件は、父のワシーリー公爵がもみ消してくれたので、お咎めなしだった。

 その後、軍に入って地方へ行く。このときにした「あること」が、あとでナターシャとの場面で、クローズアップされることになる。

 

 

マリヤとの縁談

 「彼は自分の生涯を、なぜか誰かがわざわざ彼のためにこしらえてくれることになっている、ひとつながりのエンターテイメントとみなしていた」。マリヤとの結婚は、「結婚して悪いはずがないだろう、もしも相手が大金持ちだと言うのなら。決して邪魔にはならんからな」と考えている。「でもさ、冗談抜きにして、お父さん、その娘は本当にひどく不器量なの?」「相手が乱暴な口を利くようだったら、僕は出て行きますよ」。アナトールの流儀は、女性たちに「優越感から来る侮蔑を見せつける」こと。

 

 

 出産をひかえたアンドレイの妻リーザに、「イッポリートがこのかわいい公爵夫人に恋い焦がれて、この人の家から追い出された」と話したり、マドモワゼル・ブリエンヌを見て、「なかなかの美人だよ、この侍女は。娘が俺と結婚することになったら、この侍女も一緒に連れてきてほしいものだ」と思ったりしている(ブリエンヌの方も、同じ考えをもっている)。三女性(マリヤ・リーザ・ブリエンヌ)は、「アナトールが現れるとみな一様に、これまでの生活(老公爵との田舎暮らし)はとても生活と言えなかったのだと、しみじみと感じた」。アナトールも、三女性への影響力の強さを自覚し、優越感にひたりつつ、ブリエンヌに「激しい、獣のような欲情」を覚え、中庭で密会するが、それをマリヤに目撃されてしまい、結婚は破談になった。

 

 

中盤

 

ジュリーもダメだった

 軍隊からペテルブルグに戻り、美男の近衛重騎兵として、ご婦人方の人気を集める。女優マドモワゼル・ジョジュと親密になったり、ペテルブルグのすべてのパーティー・舞踏会に参加したり、精力的に社交界で活動している。しかし、浪費がひどいので、父親に再度ペテルブルグを追い出され、モスクワに移る。そして、ピエールの家に住み着いた。次の結婚相手としてジュリーを狙っていたが、同じく金目当てで結婚相手を探しているボリスも、マリヤとジュリーを天秤にかけていた。ジュリーをボリスに取られてしまったことで、アナトールがナターシャへと食指をのばす下準備が、消去法的に整っていく。

 

追加された設定

 「実はアナトールは二年前に結婚していた」。アナトールは妻を捨て、舅に仕送りする代わりに、独身者を名乗る権利を認めさせている。この設定は、ナターシャを傷つける試練として、作者が用意したもの。ちなみに独身者を名乗るのは、ボリスも同じである。ボリスはナターシャが最初に恋をした相手である。

 

悪人として

 「これまでの生涯に何一つ間違ったことはしてこなかったと、本能的に、全身全霊で確信していたのだ」「熟慮するだけの能力を彼は持たなかった」「自分は神の手によって、年収三万ルーブリを得て常に最上流の社会で暮らすべく作られているのだと、信じ切っているのだ」「胸の内では自分を完璧な人間だとみなしていて、卑劣感や悪人を心から憎み、自らは安らかな良心を持って、こうべをたかく掲げていたのである」。この物語の悪人は、現実の悪人と同じく、自分が悪人であると気づくことがない。だから、変わることもない。この点は、とてもリアルに描かれている。しかし、物語に登場する生まれながらの卑劣感は、死ぬために用意された存在である。

 

アナトールとドーロホフ

 アナトールは、ドーロホフを心から慕っているとされているが、彼には「心=情」が欠如しているため、「心=快」にすぎない。アナトールは、だれとも心を通わせることができなかったが、それを気にすることもなかった。また、アナトールには、いつでも居場所がないのだが、人生、どこかにとどまって、根を張るという発想がない人なので、不幸を感じることもない。一方、ドーロホフは、「金持ちの青年たちを自分の博打仲間に引っ張り込むためのエサとしてアナトールの名前と家柄とコネを必要としていたにすぎなかった」。ドーロホフは、しっかりと自分の地歩を固めている。アナトールとドーロホフがいつでも一緒にいられたのは、アナトールに精神が欠如していたため、ドーロホフの嗜好である精神的支配の対象にならなかったからでもある。

 

終盤

 

ナターシャ誘拐

 ナターシャを観劇中に見かけて夢中になる。美しい相手に惹かれることに、他人の用意したタブーは存在しない。妹エレーヌの協力で、ナターシャを家に招くことに成功し、キスをして心を奪う。ナターシャには、自分の最も近くにいて自分のことを評価してくれる人に惹かれる性質がある。ナターシャは、アナトールと結婚するために、アンドレイとの婚約を破棄している。

 アナトールはドーロホフのところへ居を移し、ナターシャ誘拐計画を立てる。ドーロホフは「少し待ったらいいだろう」と忠告するが、「いいかい、僕は生娘が好みなんだよ。早くしないと間に合わない。」「生娘にはもう、一度ひっかかっているじゃないか」「なに、二度しちゃいけないっていうのか!ええ?」ということになった。

 しかし、すでに計画が漏れていたため、失敗に終わった。そして、アナトールのくせに、「死に物狂いで庭番を突き飛ばす」というご都合主義的な行為に成功して、うまく逃げおおせた。作者がリアリティーを求めないのは、この小説が近代と現代のはざまに書かれたものだからである。

 

アナトールとアンドレイ

 その後、狂気のピエールに文鎮を振り上げられ、ペテルブルグへ戻っていった。ちなみに妹のエレーヌは、ドーロホフとの浮気を疑われた際に、ピエールに花瓶を投げつけられている。

 アナトールは、この一件でアンドレイから恨まれることになる。アンドレイは決闘を申し込むため、アナトールを追ってペテルブルグに来たが、アナトールは、陸軍大臣の任命を受けてモルダヴィアへ去っていた。同じ時期、アンドレイもかつて世話になったクトゥーゾフに会い、クトゥーゾフが総司令となったモルダヴィア(トルコ戦線)への同行を勧められた。しかし、到着したときには、アナトールはロシアへ戻っていた。

 

最期

 アナトールとアンドレイは、ボロジノの包帯所に現れる。片足を切断されたアナトールは、失った自分の片足を見せろと言って絶叫する。一方、アンドレイは隣人愛に目覚めていく。肉体のアナトールと、精神のアンドレイが対比されている。アンドレイは心の中でこの男を赦して、しばらくしてから死んだ。アナトールとエレーヌ兄妹は、それぞれアンドレイとピエールに赦されたことを理解できぬまま死んでいった。その最期は、ピエールの視点で、「妻の兄の死とアンドレイ公爵の死を知った」と、間接的に書かれているだけだった。