トルストイ『戦争と平和』時系列整理④(1812~最後)

あけましておめでとうございます!

気になるなら、読みなはれ~。

 

1812年 老公爵の歯が一本抜ける

5月はじめ アレクサンドルのヴィルナ滞在(3-1-3)

5月        アンドレイが禿山に立ち寄り、老公爵への最初の反抗と最後の対面(3-1-8)  老公爵ブリエンヌを自室に寄せ付けなくなる(3-2-2)  1

週間後:ボルコンスキー家の日常(3-2-2)    

5月29日 ナポレオンがドレスデンを出発(3-1-2)

6月10日 ナポレオン、ニーメン河に到着

6月11日 ナポレオン、渡河地点の視察

6月12日 ナポレオン、ニーメン渡河           

6月13日 深夜2時 アレクサンドル皇帝、ベニグセンの別荘で舞踏会・そのさなかに開戦を知らされる(3-1-3)→急使バラショフ(3-1-4)→バラ

ショフとダヴー(3-1-5)

6月14日 バラショフ、拘留

6月17日 バラショフ、ヴィルナでナポレオンに謁見(3-1-5~7)

6月末   アンドレイ総司令部に到着(バルクライ隊に配属)&派閥紹介(3-1-9)→プフール&会議は回る(3-1-10~11)

夏        ナターシャ(atモスクワ)の病気が快方に向かう&マダム・ショースの薬コレクション(3-1-16)&精進(3-1-17)

7月11日(土) 詔書がモスクワに届く(3-1-18) ピエールがラストプチン訪問(3-1-19)

7月12日(日) ナターシャ礼拝式へ(3-1-18) ピエールがロストフ家を訪ねる(3-1-20)

         パヴログラード連隊の日常→イリインとニコライ(3-1-12)→王様ゲーム(3-1-13)

7月13日 アレクサンドル帝にペーチャがウラーする(3-1-21)

      オストローヴナの戦い(パヴログラード連隊…深夜2時:オストローヴナ村へ進発命令→日の出:イリイン初陣(3-1-14)→ニコライの疑問(3-1-15))

7月15日 モスクワ貴族の動揺(3-1-22)→アレクサンドル帝「立ち上がりましょう!」(3-1-23)      

7月29日 クトゥーゾフ公爵に叙されられる(3-2-6)

7月いっぱい 老公爵元気(3-2-2)   

       バルクライとバグラチオン不和 この時期エレーヌ三人の夫事件に決着

8月1日 アンドレイの謝罪の手紙が届く(3-2-2)  老公爵には戦況を理解できず(3-2-3) 

8月4日 アルパートゥイチ、スモーレンスクへ(3-2-4) 

8月5日 スモーレンスク戦 アルパートゥイチに会ったアンドレイは、10日までに避難するように伝える(3-2-5)  

            ベルグ登場しアンドレイに無視される(3-2-4)

8月6日 スモーレンスク放棄(3-2-5)

8月7日 ボルコンスキー一家、禿山を離れるが、モスクワへ行かず、ボグチャーロヴォへ疎開しただけ。 禿山にはアルパートゥイチだけ残

る。バグラチオン(ミハイロフカ村)の手紙(3-2-5) 

8月8日 敗戦の原因は統帥の混乱のせいであると認める(皇帝は撤退)。クトゥーゾフ総司令官に。

8月9日 アンナ・パーヴロヴナ夜会(ペテルブルグ)(3-2-6)  ラヴルーシカとナポレオン(3-2-7)

8月10日 アンドレイの連隊、禿山への分岐点まで後退(3-2-5) アンドレイ、禿山へ。アルパートゥイチと再会(3-2-5)。

     ボルコンスキー老公爵、やっぱり禿山防衛を決意→卒中で倒れる→ボグチャーロヴォへ移され、3日間意識が戻らないまま(3-2-8)

8月14日深夜 ボルコンスキー老公爵死去(3-2-8)  百姓暴動(3-2-9~11) 

8月17日 ニコライ・ボルコンスキーが死んで、ニコライ・ロストフが助けに来た(3-2-13~14)

      アンドレイ、総司令部でデニーソフとクトゥーゾフに会う。(ツァリョーヴォ・ザイミシチェ(3-2-16)

8月20日 モスクワから、ロストフ家のほとんどの知り合いが退去、ロストフ夫人はペーチャがもどるまで頑として避難しようとしない

8月22日 エカテリーナせかす。ジュリー送別会(3-2-17) ピエール占いで決めようとする(3-2-18)

8月23日 エカテリーナ去る。 ジュリー去る ピエール気球見物(3-2-18)

8月24日 ピエール、モスクワ出発 シュヴァルジノ戦闘 ダヴイドフの第一パルチザン部隊が誕生(4-3-3)

8月25日 ピエール、ボロジノ見物へ(3-2-20~) ボリス、クトゥーゾフ、ドーロホフ、ベニグセン、アンドレイ、ティモーヒンに会う(3-2-25) 

バルクライとバグラチオン、シュヴァルジノは左翼であると確信していたが、ちょうど正面だった。あわてて陣地構築。間に合わず。

ド・ボーセとファブヴィエがナポレオンのもとへ(3-2-26) 

8月26日 ボロジノ会戦 ナポレオン鼻風邪(3-2-29) ピエール寝坊(3-2-30) アンドレイ負傷(3-2-36) アナトール負傷(3-2-37) バグラチオ

ンの死(3-2-38) ドーフトゥロフの活躍(4-2-15) ピエールに離婚手続きの手紙  アンナ・パーヴロヴナ夜会(4-1-1)  ニコライがマリヤと会う(ヴォローネジ)(4-1-6) 

おじいさんVS長しっぽ会議(3-3-4) これ以降1週間ずっと秋晴れ ピエールごった煮を食べる、こんなにおいしいものはない(3-3-8)

8月27日 モジャイスクからモスクワへ向かう途中、ピエールはアナトールの死とアンドレイ公爵の死(こっちは誤報)を知った クトゥーゾフが勝利の報告(4-1-2) 

8月28日 ペーチャ戻って来る ロストフ伯爵のんき・出発準備できず エレーヌの死(4-1-2)  

8月30日 ピエールモスクワに戻り、ラストプチンにマークされる

8月31日 ロストフ家 ようやくてきぱき準備しだす(3-3-14) アンドレイが運ばれてくる(3-3-15) ラストプチン布告・明日全市民は武器を取れ

 (3-3-13) ピエールバズデーエフの家に隠れる(3-3-17) ペテルブルグにモスクワ放棄の知らせが広がる(4-1-2)

9月1日(日)ロストフ家の人たち、この日まで市内にとどまる 荷物騒動(3-3-15) ゴミベルグ降臨(3-3-16) 変装ピエール目撃(3-3-17)

      深夜、モスクワを通過してリャザンまで後退の命令(3-3-19)  アンドレイ、おいしそうに一切れのパンを食べる(3-3-32)

9月2日 朝 モスクワ放棄完了 ナポレオン、モスクワがもぬけの殻だと知ってびっくり(3-3-20) 午後1時 ピエールがランバールと仲良くなる 

             午後にはロシア軍全軍撤退完了 ラストプチンがヴェレシチャーギン私刑(3-3-25)  午後3時ミュラー入城(3-3-26)  モスクワ炎上(3-

             3-30) ナターシャとアンドレイの再会(ヤロスラーヴリ)(3-3-31)

9月3日 ナポレオン入城(3-3-33) ピエール寝坊して、ナポレオン暗殺不可に(3-3-33) ピエール捕虜に(3-3-34) 

9月8日 ピエールがダヴーにびびる&刑場へ(4-1-10) ピエール、カラターエフに会う(4-1-11)  ピエールジャガイモを食べる、こんなにおいし

いものはない(4-1-12)

9月10日 ミショーがペテルブルグへ(4-1-3)

9月半ば ニコライ、ボロジノ敗戦とモスクワ放棄を知る(4-1-8) 

     ニコライ、ソーニャから自由の手紙をもらう(4-1-7) アンドレイの居場所がわかったのでマリヤに伝え、マリヤがヤロスラーヴリへ(4-

            1-14)

    マリヤとの対面の2日前、アンドレイがおだやかになる(4-1-15)

9月25日 ナポレオンモスクワを離れる。(4-2-3)

9月末 マリヤとアンドレイ対面、息子ニコライ(7歳)とも対面(4-1-15)

9月末 ロリストンが講和の使者としてクトゥーゾフのもとへ(4-2-2)

10月はじめ マリヤとの対面の数日後、アンドレイの死(4-1-16) この数日前、マリヤとナターシャの和解1段階目(4-4-3)

10月2日 皇帝からクトゥーゾフへの叱責の手紙&シャポワーロフがミュラー軍に遭遇(4-2-2) 

10月4日 クトゥーゾフ作戦命令にサイン(4-2-4)

10月5日 作戦延期&エルモーロフの悪意(4-2-5)

10月6日 ナポレオンモスクワを出て、モスクワよりと偽の講和の偽の降伏兵事件&オルロフ・デニーソフ伯爵の戦闘開始&バッゴウート憤死

 (4-2-6) エルモーロフの厚顔&タルノーチの戦いの理不尽(4-2-7)  捕虜の日常(4-2-11)&ピエールら出発(4-2-13)

10月8日 フランスの全軍がモスクワを出て、スモーレンスクを目指す(4-2-15)  このころ次々にパルチザン部隊が結成(4-3-3)

10月9日 カラターエフ熱病再発(4-3-12)

10月10日 ドーフトゥロフ礼賛 &ボルホヴィチノフ急使(アリストーヴォ村)(4-2-15)

10月11日深夜 コノヴニーツィン礼賛&シチェルビーニン応対(レタショーフカ村)(4-2-16) クトゥーゾフ、ナポレオン撤退の報告を聞いて「ロシ

アは救われました。」(4-2-17)

10月半ば モスクワの屋敷が無事なので、マリヤはモスクワに戻ることに(実際には出発していない)(4-4-1)

10月21日 ペーチャ使者になる(4-3-7) ピエールがカラターエフと最後の会話(4-3-13)

10月22日 パルチザン隊長となったデニーソフ&ドーロホフ登場(シャムスエヴォ)(4-3-3) ペーチャ登場(4-3-4) 無敵のチホン登場(4-3-5)  

少年ヴィセンニイ(4-3-7) カラターエフの死(4-3-14)

10月23日 ペーチャの最期(4-3-11) ピエール救出(4-3-11)  ピエール、アンドレイの死とエレーヌの死を知る、その後、オリョールへ、そのまま3か月寝付く(4-4-12)

10月28日 酷寒始めました/零下十八度(モスクワ→ヴャージマの退却で、73000のうち3万7000を失う/戦闘での死者は5000ほど)(4-3-16)

11月5日 クラースノエの戦闘&クトゥーゾフ「諸君に感謝する!」(4-4-6)

11月8日 クラースノエの戦闘最終日(4-4-7) 第八中隊(4-4-8) 第五中隊とランバール(4-4-9)

11月29日 クトゥーゾフ解任&ヴィルナ入城&だらける(4-4-10)

12月7日 皇帝ご一行ペテルブルグ出発(4-4-10)

12月11日 ヴィルナ到着&クトゥーゾフ勲一等ゲオルギイ勲章(4-4-10)

12月末 ナターシャ生の向こう側を見つめる(4-4-1) ペーチャの死がロストフ家に伝えられる(4-4-2)

1813年1月 マリヤとナターシャの和解2段階目(4-4-3)  ナターシャの再生と伯爵夫人の絶望(4-4-3)

1月末 マリヤとナターシャ、モスクワへ(4-4-3)  ピエール、モスクワへ、三日後(金曜日)マリヤとナターシャに会う/本来ならペテルブルグへ行

く日(4-4-15) 翌朝3時まで語るよ(4-4-17) 翌日も行くよ、翌々日も行くよ! ナターシャちゃん大好き! boku幸せ!(4-4-18)  そろそろペテルブルグへ行け!byナターシャ(4-4-18) でも、どうしてペテルブルへなんか!byナターシャ(4-4-20)

1813年早春 ナターシャとピエール結婚、ロストフ伯爵の死、ニコライ、パリで父の死を知る(e-1-5)

1813年初冬 ニコライとマリヤが急接近(e-1-6)

1814年秋 ニコライとマリヤ結婚(e-1-7)

1815年 ニコライ鉄拳制裁をやめる(e-1-8)

1817年 ニコライ借金完済(e-1-7)

1820年春 ピエール自分はわるい人間ではないという間違った自覚を得る(e-1-10)

1820年10月 ピエール秘密結社の件で、ペテルブルグへ

1820年12月5日 ベズーホフの家族、デニーソフ、ロストフ家に集まる、ピエール戻って来る(e-1-11)  マリヤ日記を書く、ピエールみたい(e-1-15)