ボリビア1

劣等感が作り上げた自分への過信から、

子どもはなかなか勉強が進みません。

まあ、いいやん、いいやん、そう言うけど、

これでもいけるもん、という感じです。

それで行ってしまう子は、要するにその程度の子だということです。
自分のリズムに持ち込んだつもりで、自分が勝手に離れているのです。
それを許す周囲も、その程度のなあなあな感じだったということです。
何も早稲田大学だけではありません。

たとえ積極的にがんばっていても、そのがんばりは間違っている。

見せるがんばりと、その場を乗り切るがんばりです。


ダメなところを指摘させないように取り繕って「見せて」も、
それは意味のないこと。


自分をほめる言動が多い子は、
何かが見つかってしまいはしないかという不安の裏返しなので、
そういう駆け引きがズレてると伝えてやらないといけないのですが、
それはとても難しいことです。

自分は気付かないことを指摘され、
あるいは、たいていの場合は気付いていて隠したいことを指摘されると、
反論会見でも開きたくなります。


そこに「うちの子はがんばってるのに!」という親が乗っかってくると、
本人の後ろめたさも、浄化されないままくすぶってしまいます。


そういう立場は、件の科学者も頭が下がる努力家であることを擁護するのと同じです。

たしかに、組織のためにも言わんとすることを汲んでよく働いていたと思います。

しかし、話の論点がズレているのです。

ただ、科学者に科学者の倫理があるように、

受験生にも受験生の倫理があります。

受験生の目先を乗り切るだけの努力も受験生失格です。

自分の研究者としての立場を守るための論文と同じです。

公開テスト後しばらくして失われる勉強は、
論文発表後うやむやになった信ぴょう性のようなもの。

親孝行な野球選手も、上達するように練習しなければ、
それがたとえ親にとって自慢の息子であっても、解雇されます。

受験生なら不合格になります。

監督の前だけでいいかっこするスポーツマンと一緒です。

周囲の人間からは感心な努力に「見える」としても。


それを指摘することは、とても難しい。


なにせ、きらっきらして、何一つ落ち度はない(?)のですから。

油断すると、親は全部持って行かれます。

いや、私は信じると言ってみたところで、
見る人が見れば、見る傍から、いやになるほどでたらめなのです。
そんな小学生的な勉強をどこで断ち切るか?

小学生のうちでも、容認するのが悪いと思う人は、中学受験で。
まだええやろと思う人は、高校受験で。

いろいろな道があります。