はたりえこ

日常のあれこれをブログで発信しておりますが、

本来は瞑想講座講師やアカシックリーダーとして活動しております。






何故瞑想をするのか、また瞑想とはどんなものであるのか、ということをお伝えするのが、本来私が一番やりたいことでもあります。


『私とは何か』瞑想を始めた訳


子どもの頃から感じていた、この世界に対する違和感は、私が知っているものと、現実がリンクしないことでした。心の内側にはまだ宇宙の中心と繋がっている世界があるのに、現実においては、この小さな身体で不器用に生きている自分がいて、そのギャップが何故起こるのか分かりませんでした。

自分1人になると、その中心から気持ちいい感じが溢れ出し、とっても幸せになる。私のカラダの中には無限に広がる宇宙があって、誰かに話しかけられても直ぐに戻れない事もあって、ボーっとしてる子だと思われていました。
赤ちゃんや小さな子の持っているその様な状態を割と長いこと、感じられていたのだと思います。

人間の世界はほっておいてはくれず、そんな状態の私から突然に人間界の法則に入る様になります。それは、小学校2年生の掃除の時間のときでした。
突然、『私、人間に生まれてた』と気付いたのです。
どういう意味がよく分からないと思いますが、フェーズが変わって、第二幕になったのです。

人間としての所作、コミュニケーションが分からず、とにかく周りの真似をして、努力しました。
それでも、やはり周りの子たちのような感覚が掴めず、とても悲しかったのを覚えています。
人のよく分からない言葉や気持ちに振り回されて、振り回して、、今にして思えば、必死に人間になろうと、集合意識に入ろうと頑張っていました。そして、大事にしていた心の宇宙と決別する事にしました。あまりにもギャップが大きく苦しかったのです。

流行りのアイドル、ドラマ、などなど、大して興味が無いのに、話しを合わせるために見たり聞いたり。それは本当にどうでもいい日々でした。
その甲斐あって、友人もでき、何も疑わず高校生になりました。

高校生になると、突然また違うフェーズがやってきました。私は何の心配のない生活を送らせてもらいながらも、日常が本当にただ辛く、いや、何に辛いのか、全く分からなかったのです。この頃は本当に小さな頃の事をすっかり忘れていました。
何故?私は何故ここに居るんだろう?
人間は何で生きているの?何のために?何かあったはずなのに。
ただ毎日を過ごすため?分からない、何で苦しいのか。表向きは何も問題があるようには見えなかったと思います。
ですが私は生きている感覚を失い、考えても何も掴めないことに、絶望していました。死んだ様に生きる、そういう感覚でした。

16才の、9月の満月の日、私の通う高校の文化祭があり、その打ち上げを近くの海岸でしていたときのことでした。みんなひとしきり盛り上がり、少し落ち着いたころ、1人の友人が言いました。『宇宙の話しをしようか』と。
私はびっくりしたのです。当時はそんな事だれも口にしなかったから。(35年以上前)
もしかしたら?この人は私が知りたいことを知っているのかもしれないと、雷に撃たれたような衝撃を受けました。



宇宙って?あなたは宇宙を知っているの?
満月と海を前にして、涙が出ました。

その日からその友人とたくさんの話しをするようになりました。私が恋焦がれる、あの感覚、でもわからない、知りたい、教えて欲しい、と。

1人部屋にいると、その事がどうしても頭から離れず、極まったある日、天に問いました。
『私とは何か?』


すると突然、自宅の部屋中に大きな光に包まれました。私はその光の中で瞬時に私が求めた何かになり、膨大な知識を得ました。
言葉にはすることのできない、到底形容するものがない。

何時間たったのか、分からない間、

確かにそのとき、慈悲という感覚の中にいました。

私は私でよかったんだ、他の何かになることは出来ない、私は許された、、嗚咽するほど泣きました。

私以外になる事などできない、宇宙そのものが私だった。そして、全ての人の内側も、広大な宇宙そのもの。


この体験が何であったのか、
しばらくするともう印象しか残りません。そのものはだんだんと遠のいてしまいました。 

ただそれを理解したいと思うようになりました。
導かれるように、心理学や物理学、哲学、宗教などの本を読みましたがどれも一つに繋がるようで、まだ点と点のままで、モヤモヤしたまま時間がすぎました。また、スピリチュアルという言葉も、一般的ではありませんでしたし、
残念ながら、私には現実にそれを理解するための導き手、マスターがいなかったのでした。


ただ、現実的に進学を心理学の道に進むか、服飾の道に進むか選ぶ段階で、今しか出来ない事と考えて服飾の道を選びます。今ある流行を追うのは好きではなく、創造する方に興味がありました。気質的には今でもそれは変わらず、自分の純粋な欲求なのだろうと思います。ただ、当時からファッション業界はもの凄く環境負荷をかける産業となっていましたので、そこにエッジを感じるようになります。
それままた、何かを生み出していくきっかけになったと思います。今でこそ、オーガニックコットンやヘンプ製品が一般化しましたが、30年前は業界のおじさんたちにECOの理解を得るのが大変でした。が、いわゆる一般企業よりかは企画が通りやすかったと思います。そんな仕事も幾つかしていました。自分が描く環境も情熱を費やせる場所へといく事ができました。

もし、あのとき心理学の道に向かっていたら、作り出せない息苦しさを覚えたかも知れません。若い頃の願いは純粋で本質的ですから、知って表現しておいて良かったです。(そしてファッション業界は大変過ぎてもう戻る気はしません。)気質的なものは、おそらくそれは生涯を通して変わらないと思いますが、年齢を重ねた表現はまたさらに大きなものを含んだ表現となるのだと思います。

出産や子育てを経て、また違うフェーズに入りますが、そこで16才の霊的体験がまた開いていきます。女性にとって、主婦業はまさに修行そのものですからね。子育てや人生の大変さから、精神世界、霊的世界に本格的に導かれ、やっと師と出会い、身体と心と魂を学び、そこでも瞑想によって宇宙と出会います。

今は、霊的、精神的な活動を促す個人セッションや、WSを企画したり、講座をする方にシフトしました。それは私の純粋な願いであり、本質なので変わらないものです。

自己成長と瞑想は切り離せないものだと思いますが、宗教観はあまり関係ないと思います。私自身、何かの宗教に入ったこともありません。ただイマジネーションの中に開かれるという素直さが瞑想するには向いています。

私が瞑想講座をするのは、その世界に開かれやすくなる身体と心の準備のところが大きいです。
身体といっても、硬くても瞑想できます。ヨガが出来なくても瞑想出来ます。一般的に教えている方法ではないかもしれません。ズボラでも、瞑想できます。むしろ、その方がいいかもです。私もそうですから。ルールや概念は、後から付いてくるもの、自分が世界に飛び込んでいくという意図の方が大切です。



伝統的形式はあった方がやりやすい方もいます。でも、それだけがやり方でなくてもいいのです。もっと自由に、もっと柔軟な心で、瞑想して、開かれていきましょう。さっきよりも少しだけ、自由になりましょう。自分という枠を毎日越えて、それがまた違う景色を見せてくれるはずです。



長くなりましたが、改めて自己紹介と瞑想についてを書かせていただきました。お読みくださりありがとうございます。


瞑想講座は6回コースになります。月に1回2時間の講座で、半年間のサポートがあります。

鎌倉での対面講座です。ご希望でしたらzoomも可能です。ご興味ある方は内容お送りしますので、こちらにお問い合わせください。


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