ジブリ映画で
高畑勲監督の映画かぐや姫の物語は、何度見ても自分の中で発見があります。



月から来た異邦人

 

ここからは、今の私の主観なので、かぐや姫や竹取物語がそのように出来ているというものではありませんので、一考えとして読んでくださいね。



かぐや姫(天女)はかつて、地球の生物を進化させた罪で、天界から罰を受けた、二人の女神のモデルがいます。



私たち人類の産みの親、創造の女神です。



何故進化させた事が罪なのか、



それは、今現在もなお争いの中にいる私たち人類が如実に現しています。



そのような種族(地球人類)は、宇宙においても破壊の種。叡智を注いでは何度も破滅してしまうので、




それでも産みの親である、天女は人類を見捨てることも出来ず、天から梯子を降ろして(天に背く罪)来て、更なる進化か、自ら破滅を選ぶことを選択しなくてはならなかったのです。



人類は本来創造の女神であるこの神を、世界を破滅させる両面としても描きました。



天女は『月へ帰りたい』と願うだけで、



それは、人類を忘れる事(かぐや姫の罰)になります。 



月に帰りたくなる世界であれば、今行くべき進化ではないよ、と。



そして、天女が地球を忘れる(地球を去る)ということは、



次のポールシフトのタイミングなのです。



この世界をただ続けることではなく、



私たちは本当の精神の進化を見据えなければならないと、竹取物語として描いたのでしょう。



では、かぐや姫の望みとは、一体なんだったのでしょう。



アゴの長い天皇の妃になることではなかったのは、確かですね。



鳥、虫、けもの、草木、花


人の情けを育みて


待つとし聞かば 今帰り来む



本当は、地球に帰って来たかった、と。





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