人の内側のその奥に
自分の知らない秘密の場所があります。
知らないというのは、通常の意識では見ることがかなわないものだからです。
その秘密の場所は自分が小さくなればなるほど、
この世で消えてしまいそうになるほど、
そして、その争いを手放さなくてはならないほどの心地になるとき、
死を選ぶか、初めて訪れる扉と出会います。
もちろん、そういう方法だけではないのだと思いますが、
昔の修行法はきっとこんな感じだったのだろうな、と思います。
私は今世で修行したわけではないのですが、
現実社会が修行になっていたわけで、
必死に何かを内側に求めたのでした。
おそらく、その体験をしたならば、その慈愛に触れ、人は傲慢さを恥じるだろうと思います。
自分の些細な事に縛られていたことや、
許せなかったいろいろなことが
本当にどうでもいいことで、
存在を活かせない、ということ。
つまり、死のイニシエーションを生きながら通過して初めて、あらゆる人としての体験を、生きる事が出来、
自分自身と出会う事になります。
それがアカシャに触れる体験です。
本当にアカシャに触れたなら、その前と後では感覚そのものが変わってしまいます。
大好きだったものが、何の意味も無さなくなったり、やった事がないことが、すごく得意になったり、と
ミューテーションを起こします。
今の時代、全ての人にそのタイミングが来たとも言えます。
内側に入る作業を意図的にしてこなくていなくても、悩みが全くないという人は稀だと思います。
悩みというのは、内側に入ることですから、大切なものです。自分に触れ、何を思い、考え、あらゆる感覚を味わっているこのご時世を
ギフトと捉えられるか、要らんことと捉えるかでは、
全く意味が違ってくるはずです。
根性論ではなく、精神的な処世術の方にシフトする。
この後にくる精神の時代には、必要な処世術とは、、
私たちの未発達な感覚に触れることで、可能性を大きく開きます。
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