*以下は私感であり、何者にも何事も強制しないし、決めつけもしない。全人類嫌悪のあたいの私感である。痴漢ではないし、股間でもない。私感である。視姦ではないのでよろぴく。ここに事実はなにひとつない。これまで記録されてきた歴史は、みな都合のいい虚構ばかりである。

 日本の右翼の系譜は、明治14年の玄洋社あたりに求めることができるが、実際には、さらにさかのぼって、幕末の反幕府勤王集団もテロを先導した右翼とみることができるだろう...いや、さらにさかのぼれば、水戸藩水戸学の源流...水戸光圀の「大日本史」編纂作業こそ右翼のハシリ...とみることができるだろう。右翼の源流は水戸藩である。右翼=水戸である。徳川御三家のひとつでありながら勤王を推し進め、幕末の桜田門外の変など数多くのテロに関わっている。暴力で力を封じようとする姿勢...水戸藩は過激な右翼思想を育み、継承させていった馬鹿な藩なのである。しかし、彼らは徳川ありきの勤王なのである。勤王佐幕である。それがわずか数年で薩長土肥の勤王倒幕思想に変化した。勤王倒幕=右翼である。単純なのである。この時点で水戸はその後、一切出る幕がなくなった。やっと将軍となった水戸=徳川(一橋)慶喜は、将軍となったら、右翼=水戸でなくなり、さらに初めから終わりまで弱腰政策であり、長州討伐も今のアメリカの対テロ戦争のように失敗し、せっかく慶喜サポートを名乗り出た水戸天狗党のことも慶喜は知らんぷり...見殺しにしてしまうのだ。そのまま薩長土肥に押され...大政奉還になっちまうのだ。その後はもうてんで謀略=薩長土肥に負けちゃうのである。

 ところが右翼=薩長土肥は政権を取りたいだけの権力思想であり、たまたま勤王のふりして、まだ幼かった明治天皇を持ち上げて官軍となった。つまりこの時点で右翼=官軍である。政権奪取の後は天皇なんかどうでもよかったくせに、自分たちが賎しい身分の奴らであったからシンボルが欲しかった...ほんで、体裁つくりのためにたまたま子供で何でも言うこと聞きそうだった明治天皇=現人神としたら...もうどうしようもない。今の北朝鮮と同じ井の中の蛙的武力主義を振りかざして、太平洋戦争終了まで延々と近隣諸国を脅かし続けた。日本人=単一民族=人種差別=戦争侵略=右翼となったのである。
 
 その右翼の系譜でも、北一輝は、珍しい右翼である。はじめ...彼は社会主義者だった。右翼の真逆が左翼であるはず。北は明治末に幸徳秋水らの社会主義を批判し、「国体論及び純正社会主義」を著した。大体、このタイトルが変でしょ? その後、一輝は、中国に渡って革命運動に参加して活躍した。その後、大正8年には「国家改造案原理大綱(のちに日本改造法案大綱と改称)」を書き上げ、この書は以降、西田悦(みつぎ)など軍部のファシスト将校たちのバイブルとなったのである。そして北の影響を受けた信者?らは世界大恐慌の影響を受けた日本国内の不況、農村の衰退は、一部の政治家と財閥が私腹を肥やしている反動であると決めつけ...脆い正義感から2.26事件を起こしちゃったのだな。きっと...知らないけど。

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 大勝(たいしょう)8年、北勃起(きたぼっき)は、小国の下海(げはい)で小国革命のお手伝いをしていたが、当時の日の本国右翼の大物、大川臭明(おおかわしゅうめい)に呼び戻されて、右翼結社:下品社(げひんしゃ)を結成した。下品社には石原完治(いしはらかんち)や東城不出来(とうじょうふでき)らの正義感に燃える陸軍将校も続々と参加し、北指導のもと...そろそろ右翼運動の再決算をしようと目論んでいた。しかし、北はあっと言う間に大川と袂を分かち、独自の道を進むことになる。
 
 笑話(しょうわ)5年5月...日の本国西京(ひのもとくにさいきょう)都下、金田町(きんたまち)にある北宅。この日、北を訪ねてきたふたりの男がいた。阿部珍蔵と小泉谷純一郎その人その者であった。