【報道の自由】というのは、
「書く方の都合でどうとでも報じて良い」という『自由』ではない。
「事実を包み隠さず報じて良い」という『自由』ですね。
そもそもの『自由』が前者は「好き勝手」「手前勝手」ということになっている。『自由』を履き違えているから肝心の事実が蔑ろにされている。
事実までも『自由』な解釈で曲げられたり、創作によって演出されてしまったら真実はどこにいってしまう? という例が、NHKの《クローズアップ現代》ですね。これは問題外。
テロ朝の《報道ステーション》の場合は、古賀氏が安倍批判を繰り広げていたのは紛れも無い事実ですが、「官邸からの圧力があって…」云々というのは個人的感情からきた捉え方の問題で、そもそも番組に自民党に対して批判的な論客しか呼ばない向きがある事実が大問題ですね。
「報道」ですから公平中立であるべきで、番組名からして「報道」を冠しているにも関わらず一方の考え方しか伝えないことは、テレビという公共の立場を考えたら『自由』で済まされないはず。
そういう指摘を「圧力」と捉えて、またそういう見解だけを世間にばら撒いている。それも『自由』というわけだ。
視聴者の「真実を知る権利」はまったく無視していると思う。
◆参考◆
《産経新聞阿比留記者のFacebookより》
阿比留 瑠比
毎日、毎日、仕事柄、朝刊各紙に一通り目を通すのですが、そのたびに憂鬱になります。政治家が報道機関に圧力をかけるとか、報道が萎縮するとか書いている社は、実際はそんなことありえないと知りつつわざと書いています。新聞社は、スポンサーには多少弱い部分はあっても、政治家に脅える理由なんて何もないのですから。
むしろ、本当に何か圧力めいたことがあれば、それを記事にできるのだからかえって有り難いぐらいです。「こんなことがありましたよ」と騒げば、駅売りも少しは増えるかもしれません。
以前もちょっと触れましたが、小泉内閣当時、福田康夫官房長官は私が知っているだけで4度、弊紙のトップに「阿比留を官邸担当から外せ」と言ってきましたが、私は異動することはありませんでしたし、それを特に圧力だなんて感じませんでした。
小沢一郎氏なんて、自治相時代の答弁(靖国参拝は当然という趣旨)を弊紙が書いたところ、事実関係は何も間違っていないにもかかわらず、子分を引き連れて会社にやってきて、役員に抗議させろと騒ぎました。私が新聞で初めて「小沢不動産」問題を記事にした際には、文書で「意図をうかがいたい」と面倒な質問状を送ってきて、当時の政治部長が事務所に呼び出されました。
民主党政権時代の輿石幹事長が、しょっちゅう各社の幹部を国会に呼びつけては暴言を吐いていたことなど有名ですね。だけど、そんなの、われわれが気にするわけないではないですか。むしろ、そっちがその気なら、こっちも…と闘志がわくぐらいの話です。
やたらと政治の圧力とか萎縮とか書くメディアは、自分たちは弱くて無力でへたれの根性なしだと言っているようで、同一視されて巻き添えをくうこっちが迷惑なのでした。