しかし、荘園制から封建制に向かう歴史の過程で中国に接近しようとした政権もあった。
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平安時代の「平安」を破ったのは「保元・平治の乱」だったが、内乱の平定に活躍した平清盛は、平安朝を乗っ取ったかたちで自前の武家政権をつくった。だが、天下を取ったあとに清盛は気を大きくしたせいか、とてつもない大事業に着手した。
彼は音戸(おんど)の瀬戸や大輪田泊などの都を整備し、中国・南宋との日宋貿易を盛んにした。清盛の手によって、遣唐使の廃止以来、中断していた中国への通航ルートが再開され、日本は再び中国に近づいた。
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しかし、この「親中派」の平家政権は、たちまちにして東国の田舎武士たちに滅ぼされ、以後、140年以上、中国とは疎遠な鎌倉幕府が続く。しかし、その鎌倉幕府は、元寇への防戦という形で、中国と関与せざるをえなくなり、それが原因となって崩壊する。
鎌倉幕府を継いだ室町幕府はまた「親中派」であった。
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この室町幕府の統治体制を完成させた足利義満は、中国との「勘合貿易」を確立したことで有名である。勘合貿易とは、中国の王朝(当時は明王朝)に貢物を差し出す「朝貢貿易」のかたちをとっているから、そのために義満は進んで明王朝の冊封体制に入り、明の皇帝の臣下としての「日本国王」の立場に甘んじた。
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室町幕府は形の上では15代、240年近くも続いたが、その冒頭から約60年間「南北朝争乱」が続き、それが3代将軍義満の時にようやく終わったと思いきや、60数年後には応仁の乱から戦国の世に突入していく。
その後の戦国の世を、信長、秀吉が統一するが、秀吉は明の征服に乗り出して失敗。その後を家康が継いで、江戸幕府を開き、中国とはほとんど無縁の形で太平の世を築く。
(文責:伊勢雅臣)