【謎の外人・エディソン(36)】:独り善がりな人々…。母親を救い出せて(3) | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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おもしろ楽しく、でも真剣に
なべちゃりんブログは、ここにあります♪


__________前号から、抜粋______

◆もし、愛読して下さっている方が
 いらっしゃいましたら、次の
◆まで、すっ飛ばして下さい…。




2009年9月1日。

近所の外国人妻の知り合いで勤続していた会社が
倒産し、ファミレスを渡り歩いていたエディソン
というチリ人が、当家下宿に流れ着いて来ます。


長年、そううつ病に苦しんでいた母親はこの時
『そう状態』にあり、この素性の分らない外人に
私の忠告を押し切って、大金まで都合してしまった…。



金額は、実に分かっているだけで限りなく
桁を超えそうな数百万円…。


彼の企ては、その借金を元本に飲食店を経営して
日系ハーフの奥さんと子供2人をチリから呼び寄せ
いずれは日本人として暮らしていきたいというもの。


2010年2月に数十万の返済はあったものの、予定して
いた開店計画は一向に進まず、借金だけは必ず第一に
我が家に返したいと言います。

その返済計画は、故郷であるチリの自分の土地を
売って金に換えて母親の口座に返済するという…



2010年8月…

約束の期日に振込みがなく
エディソン氏への真を失っていた頃、


事件が起こります。…


2010年8月28日。



エ:『ワタシ、な~んにも悪いことシテナイ』
  『なのに、警察署に送られるんです!!!』


は? は? は? は? は?



$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-2011_06_19 (11)

プライベートの出先で急行出来なかったため、
後日エディソン氏に確認して発覚した事件。


『エディソン氏、〇〇弁当つり銭詐欺疑惑事件』

である。



2010年8月18日に事件は起こっており、
10日後の8月28日、エディソン氏は
〇〇弁当最寄り駅の店長に交番へと
連行された上、





         覚

〇〇弁当と貴方との間に存在する民事上の争い
の一切を和解するものとする・…


という和解文書にサインしてしまった
のである!!!



※アルファベットで署名:A・Edison


$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-〇〇弁当

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エディソン氏は事実無根だとあとで私に主張するが、
日本語の読み書きも出来ずに自分の無実の罪を認め
そしてなし崩しに和解してしまった…。

彼への心象は失墜した。



私は警察にも〇〇弁当側の店長及びお客様相談室にも
事実関係を問合わせたが、警察は民事不介入を理由に、
また弁当チェーン側はマニュアル通りの対応であり
【法的措置】にでない限り証拠は示せないと言う。


証拠も示さず、人を疑い、交番に通報する?


全く意味不明です…


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お客様相談室のタカセ氏は


『私、及び、当社を脅すのですか?』
『あなたの発言は録音されていますよ』
『彼はつり銭詐欺を繰り返すと報告されています』


とまで言ってのけたが、後で私の携帯に


『先ほど申し上げました商店街で噂が出ている
 という件に関しましては状況証拠でして
 取り上げた件、謝罪申し上げます』

と、噂については謝罪の弁を遺してきた。



噂などを取上げるのなら証拠の開示を再三求めても

『申し上げられません』の一点張りで

『現場の証拠(店長の責任?)は追求せず、
 相談室に一括して対応させて欲しい』

と約束させようとします。



私は何かを隠蔽し当事者ではないことをもって
私を遠ざけようとしてはいないだろうか?

と直感します。

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まずは、エディソン氏が詐欺を繰り返すという
状況証拠に根拠があるかの聞き込み調査を
地元商店街で開始。



当該の〇〇弁当の向かいにあるコンビニの店長から
開店前から内装工事を優先し、自転車との人身事故
を起こしていながら無視しようとした件は、
商店街では知られていることで、



『あの弁当チェーンの経営陣はChina系だから
 相手にしない方がいいですよ。』

とまで聞き及ぶに至る。


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相手は全国展開するチェーン店なので当然、
【顧問弁護士】 もいることだろうから、
論破するには、法的な専門家に客観的な目で
判断してもらうことは必要不可欠である。


私は無料で相談できる法テラスや区民法律相談室
へ電話して予約を取り、弁護士さんに一部始終を
お話したり、元マスコミ業界出身の伯父
(母親の兄)に相談したりするが…



答えは同じ。

本人が冤罪を晴らす気がなければ意味がない。


私もそれは同じ思いであり、当事者でない自分の
限界に気付き始めた。


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そして…


2010年暮れ。

エディソン氏の下宿を最初にお願いに着た元コロンビア人妻が
玄関先へ現れ、エディソン氏は実は彼女からも200万円の
借金をしていると伝え聞くことになる。

『私はエディソンさんの妻と友人だから大ジョブ♪』と言う。



何の根拠で言ってんの???



私は呆れた。


これはもう諦めることも考えなければいけない
と思った。


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病状に障るといけないので、本当に貸し出した金額を
聞いていなかったが、母親の方から本当のことを言った…。



2009年9月1日にエディソン氏が転がり込んですぐ
数百万を現金化し、必要に応じて数十万円ずつ貸出し
最終的にこの金額の倍額がエディソン氏に渡していた。


さらに、10月某日に証券会社から数百万(外車1台分)
解約した分は…。





全額、エディソン氏に貸出し、それについては
2人で秘密にしていることを白状した…。





しかし、エディソン氏に事実関係に確認すると
母親とシークレットにしている手前か白状しません。

彼は明らかに動揺をしていました。



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そして、年が開けて2011年。。。


母親は週一度の通院のための身支度までも出来なくなり
段々と日常生活に支障が出て、介護が必要になった時、



2011年3月11日を東日本大震災が発生した。。。




【計画停電】 によって通院先を失った母親のためには、
在宅医療が必至となり、どうにか橋渡しをして下さる
NPO法人を知ることが出来て、医療の目処はたてられたが
4月になって母親は異常な頻尿に見舞われ、
大きな病院で入院させなければならない事態になる…。


紹介状を頂いたが、先方の病院からはまず外来で診察し
その上で待機リストに入って2~3ヶ月待ちだという。


再び袋小路に入ってしまったが、私は高齢者のうつから
入院治療を積極的にやっている病院を検索しまくり、
当たって砕けること数回、


ついに五反田にある●●(旧電信系公社由来)病院に
繋がって、外来で看てみてその場で必要に応じて
善後策を講じましょうという回答を得るに至る。。。



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『私は死にたいんです』

と朦朧と言ってしまった母親は【医療保護検査入院】 
が決まって、私が医療上の保護者になり、
同居家族以外に保証人としては母親を扶養家族とする
兄が認定されることを必要とした。


兄は差額ベッド代1日2万円という高い入院費に怯えたのか、

『どうにかしてエディソンからお金を返してもらおう』


と言い出し、知らないうちに友人の知り合いの弁護士さんに
連絡を付けて、横浜まで訪ねることになった。


しかし、どこにも証拠が残っていないことだし、
第一エディソン氏の身分証明も分らないので、
これは徒労に終わってしまう。



エディソン氏は震災のだいぶ前に、我が家に断りもなく
八王子の自分の友人宅へ居候となり、 『プー太郎』
となってしまったようだが、とりあえず母親の回復を待ち、
もう一度しっかり私も含めて話し合いを持つことと、
状況が変わることがあったらすぐに私に連絡するように
と約束させた上、2階に残された彼の荷物は
そのまま置いておくことを許可した。



一方、母親は精神科での入院とあって自他共に害を及ぼす
危険性があるという観点から、【拘束ベッド】 によって
身体をベルトで固定されることになったが、

入院前からの瀕尿は 【膀胱炎】 によるものであったため、
2・3分で尿意のため意識朦朧のままナースコールしている。

『なんでこんなところに閉じ込めるのよ!』
『あんたの顔なんか2度と見たくない!!!』

という母親の 【被害妄想】 に私は苦しめられた。




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5月の連休後、各科連携した様々な総合鑑別診断の後
初めて担当医のS田先生から報告を受けることになります。


先生は私と同い年であり、母親と同じ関西出身で、そのご実家に
うつを発症した時の我が母と同い年のお母様がいらっして、

『私の母親を看るつもりで、お母様を必ず治しますよ』


という一言を頂けた。救われたような感がしました。



しかし、また一方で回復したとして
何年後かに認知症になっていく可能性や、
予防的に発症を遅らせる治療の継続が欠かせず、
家族の負担を考えたらいずれは施設に入れた方が
良いかもしれないともお話いただきます。


母親がどの程度の回復をするか、その時期や
それまで入院治療費がどのくらい掛かっているか

種々考えると、私の気持ちは荒んできて
極力出費を抑えようと外出を控え、
次第に引きこもりに太っていきます。



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そんな頃…

『私のトモダチが解体のシゴトを紹介してくれました。

 おシゴト先がつくばなのですが、八王子からの
 コウツウヒを貸してモライタイのですが?』

という連絡がエディソン氏から入ります。


家賃と電気代を滞納したまま勝手に当家からいなくなって
目先のバイトをしに外国人の友人宅へと転居して、
今度は、現在地の八王子からの交通費を要求する…。


私は、この辺りで彼と関わりを持つことに
気持ちが悪くなりました。

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一方、母親は6月の初旬になって、リハビリを受け入れ
身体機能が回復し意識障害も無くなり、顔に表情が戻ります。

6月の中旬には、夕方までの一時帰宅を
6月の下旬には、外泊訓練として2泊3日自宅に帰り、
着々と退院までの行程を歩んでいきます。


しかし、2010年の暮れ以来、震災を挟んで約半年間の
記憶が母親には断片的でしかなく、
衰えてしまった身体能力と、そんな自分と今後どのように
付き合って行くか、悩んでいるようでもあった…。



病院では、看護師と行っていたリハビリを自宅に帰ったら
自分でやらなければならない…。

そして、母親の回復したいという焦りや衰えに対する闘いと、
悩みから来る苦しみに対処すべく物忘れしてしまう機能を


私がコントロールしていかなければいけない。。。



根本的に 『ココロの病』 があったのだから
母親本人にどう受け入れてもらうか。。。


この点が最大の苦心になっていった…。




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7月になって、担当医の先生から呼びだしがあり




【パーキンソン症候群】

という正式な病名について
特定が出来たと説明を受けた。



そして、今回の症例で言えることとして

入院させるのが早すぎても遅すぎても
同様の治療を施してここまで回復させることは
非常に困難であったということだった。




つまり、絶好のタイミングで入院させることが出来て



【必ず治します】


と言い切る私と同い年の先生に巡り合えたことは、
本当に良かったと思いました。










◆ここまでワープ◆









退院の準備として 【要介護認定】 の調査を済ませ、
ケアマネージャーさんと受け入れ態勢について打ち合わせ、

2011年8月12日、めでたく母親は退院することが出来た。


$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-退院08_12(1)




2010年の暮れ以来、ほとんど人事不承、意識朦朧であり
あの震災の混乱を知らないほどにこの半年間の記憶が
無くなっていたことを考えれば、信じられないこと。


あのまま放置していれば、間違いなく痴呆老人になって
これからのシルバーライフは無くなっていたのだ。



私もよく奮闘し振舞ったと思うが、
母親本人がよくリハビリを続け頑張った。



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しかし、今年も夏は暑すぎて
昼間に身動きが取れず、
家の中では機能訓練など
リハビリが出来ないでいる…。

そのために次第に、母親の気分が沈んでしまい
全てのモチベーションが刈り取られて、
顔付きに現れてしまった…。


また寝たきりになってしまう。


再び高脂血症によって身体のどこかで血栓が出来て
梗塞を起こしたり、それによって機能障害がでたり
しかねない状況になっていく…。


私はケアマネージャーさんや主治医の先生と相談した
【通所介護】 を利用するべく準備をすすめ、

8月の終わりからは、毎週月曜日が病院への通院、
木曜日が通所リハビリという日々が続いた。



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でも、これで解決はしなかった…。


生真面目なゆえ、欠席はしなかったが
リハビリ施設先で相当無理して元気にしたり
気を遣って振舞ったために、
通院とリハビリの以外の日々は、
全て寝たきりになってしまった…。



さすがに打つ手がないのか。。。と絶望したが、

ケアマネージャーさんの勧めで、
ヨガやゲーム、お化粧などを取り入れた脳を刺激する
新しいタイプの施設に通う手はずを整えた。


そちらの施設でお化粧のレクチャーを受けた10月半ばに
母親は気持ちの上で完全に覚醒したのである。






_____以上、前号から編集・抜粋______






2011年10月14日、金曜日の夕飯の膳を前にして、
母親が急に明るい表情で言い出した。



『私、美容院に行ってカットしたい』




聞けば、新しく火曜日と金曜日にも通うことになった
通所介護施設で、お化粧をしてもらった時の自分の髪型が
気に入らなかったらしいのである。




『70歳には70歳なりのお化粧があります♪』



と、その日の介護施設ではお化粧のレクチャーが行われ、
どういうわけか母親がモデルとして前へ呼び出されたらしい。



その時に鏡に映った自分の髪型を見て、率直に思ったのであろう。




そう転する時のポイントとして、



【思い立ったら吉日】



的に、聞き分けなく実行に移したがる傾向がある。





夕食を摂り終わると同時に、昨年来通っていなかった
行き着けの美容院に、閉店間際の時間帯でありながら
予約の電話をしてしまっていたのである。



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10月16日の日曜日、

たまたま車検でマイカーが工場だったため、
美容院には電車で向かうことになった。




退院後、初めての電車での外出…。

当然、危険極まりないので私は同行した。


【外出訓練】 である。




それまで、通院も介護施設へも
クルマでドアtoドアだったために、

最寄り駅まで歩くのに
富士山へ登ったようにヘトヘトだった。



バリアフリーの交通事情を有り難く感じ利用しながら
20分予約より遅刻して美容院に着いた。




それから3時間半、

仕上がるまでの時間は、私にとって実に感慨深かった…。



$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-2011_11_01 (3)


多摩川まで歩いて、母親とのこれまでを思い起こしていた…。





母親のうつという病を勉強し、理解し、看病し、

そして同時に転職時期と重なって自分まで同じ病が襲い

お互いの交差するココロの浮き沈みと闘いながら、

あのエディソン氏が現れて家族関係がズタズタになった…。




再び母親がうつになって、次第に意識障害まで起こし

そこで大震災に見舞われ、通院先を失い、

奔走して運好く母親を入院させることが出来て、

退院してまた寝たきりになっていく母親に茫然とし、




そして、再び運好く絶好な介護施設のプランで救い出せた…。






$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-2011_11_01 (1)



川面を眺めながら、
これまでの長い長い6年以上に渡る
時間を振り返っていると、



なぜか、嬉しくも哀しい言いようのない
気持ちがココロを襲ってきたのである...。





嬉しかったことは、言うまでもなく
今日、美容院に電車で来られるまで
母親を回復させることに成功したからだろう。




しかし、一方で自分のこれまでの半生が






【独り善がり】




であった至らない面が大きくて、
母親に迷惑を掛けた結果としての
苦しみではなかったか?




バブルが崩壊し、急に就職事情が変化して
私はバイトの延長で自分の好きな世界に
残るカタチで社会人になった。




$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-ボウリング(3)-5


職人的な仕事で自分には向いていたとは思うが
その道で食っていける自信がなく、
また身体を壊した関係で
その世界を諦めることになった。



$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-TDS広場抽選所断面図

$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-TDS広場抽選所天窓


のちに図面描きになるが、
現場を知らないことに一抹の不安や
不完全な職人気質が出て、


自分の適正と生きる糧を追求するあまり
転職を何度か繰り返し、


同時に母親がうつ病になっていった…。



看病しながら働かなければと、
それなりに大きい会社でのサラリーマンを目指し、


同時に、サービス業での経験と2級建築士の知識と
これまでの設計業での様々な経験をも活かせると、


某住宅メーカーの設計兼アフター・サービスの職に
就けたが、不良物件と苦情の処理で走り回りながら
母親を看病していたら、自分まで壊れてしまった…。



自分まで同時に同じ病に倒れ、
私の30代後半は、まさに…




【しどろもどろ】  であった。




$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-ステディとルカ




『ルカをよろしく頼む…』



と、ステディに別れを迫ったこともあった。




自分の不甲斐なさに、
やはりステディとルカの気持ちも考えずに 
【独り善がり】 なことを言ったのである。





そういう自分の全てがイヤな気がしてきて、




実はエディソン氏のことを言えるほど、
自分は自立していない




とも思えてきてしまって、多摩川で独り反省し、

そして母親の待つ美容院に向かった。





・・・・・・・・・・・・・・・・・




母親は美容院の奥さんの震災について話を聞いて





『あんたが言うこと、ホンマやったんやね~』





と、ようやく震災について理解したようだった。




人が変わったような母親の屈託のない笑顔に


私は帰ってから独り部屋でポロポロ涙を流した。







震災を挟んだ半年間、意識障害であった母親は


【キツネにつままれた】


ように覚えていない。




私がここまで回復に導いたことは、ウソのように
思っていたのでしょう。




私を疑ってもかまわない。




本当のシルバー・ライフを楽しでくれるようになるなら
私は嘘つきと言われようが、ペテン師と言われようが構わない。





そう、私は母親が今後、認知症になっていくことも含めて
面倒を見て行こうと決心しているのだから…。




戦争で3歳にして父親を亡くしている母親と、
ガンで9歳にして父親を亡くしている私は、


父性の欠落としては 【同志】 のようなものだから、


男である私が母親を護っていかなければとも思っている。



$なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪-お爺サマ(1)


祖父様には、母親のことをお願いされているように
感じているので、これは冥利と感じて励まねばなりません。



祖父様の恩給を祖母と母親が上手く蓄財して
運用できた幸運が、今の生活を入院費を
救けてくれたのである…。






エディソンのためになど

回してはいけないのである。








続く…