東日本大震災をはさんで、約半年間母親は人事不承に陥りました。
わかりやすく言えば、二日酔いだったその間の記憶が断片的で気が付けば1日が過ぎていたという経験が、半年の永きに渡っておきました。
原因は、体質的な『高脂血症』。
血中の脂肪分が多かったために脳の欠陥の一部が閉塞して血流を阻んだため、意識障害が少しずつ進行したというのが原因。
それは、うつであったため寝かせて置きあまり構わないでそっとしておくことが心療内科的な治療の原則で、それを守って寝ていたら上記の内科的な問題があって、実は治療方針としては矛盾があって、結果的に『意識障害』『数年後の認知症』『寝たきり』に繋がる危ない状態と共に、今回の地震が起きました。
掛かりつけ医は計画停電の範囲で通院は無理。
在宅医療でつないで、いよいよこれは在宅では無理という判断がされたのが4月初旬。
紹介状を頂くも紹介先の病院はベッドがいつ空くか分らないと言う。。。
ネットや電話で調べてに調べて受け入れ先に適した科を当たりまくり、ついに探し当てた病院が現在の入院先。
『必ず治ります』と言い切った先生は、後で分かったことだが私と同学年で誕生日もそう違わないという巡り合わせ。そして、精神医療だけではなく老人医療にも明るく漢方や新薬にも詳しく、投薬のみ3ヶ月で本当に治してしまった、患者の話をよく聞き気持ちに寄り添う素晴らしい先生でした。
このように、命に関わる様々な経験を通じ、また東日本大震災のことも含め親兄弟や地域など【ゆかり】のある人間の出来ることで引き寄せられるパワーを身を持って実践できた自分と、嫌がらずリハビリをして年齢並の身体能力を取り戻した母親に逆に生きる意味を教えられた思いでいます。
とある親戚に、昨年の秋ですのでまだ穏やかであった日々に、【親孝行もいいけど、あんたマザコンに見えるよ】と言われ、心中『は?何様?親戚ですから載っている船、違うのに押し付けがましいこと言うな。うちに来て現状を理解しているならまだしも、想像でモノを言うあんたの知性を疑うよ』と毒を吐いていました。
母親は要するに、伴侶がいない人生でした。
先の大戦で3歳にして父をビルマで亡くしているので、男親や男性に対する依存心はあったと想います。兄である伯父の大学合格とともに上京して、職場結婚したのが当時としては晩婚の20代後半。
しかし、41にして(私は9歳)癌により伴侶(私の父上)を亡くしたことも大きいと思います。遺族年金と大戦で亡くなった祖父様の恩給で、祖母と兄と共に働かずとも食べてこれたことは良かったが、兄が就職し結婚して家を出るのと前後して、祖母が要介護になりヘルパー2級まで取得して懸命に介護し、亡くなったのが10年前。
ここで母親のココロの翼は1本折られたようなもの。60代は風のように過ぎた。
孫の面倒を見るも、兄夫婦とは性格的な折り合いがつかず近くにいて疎遠。向こうも暮らすのに必死で働いていたので、孫である甥の面倒は想像以上に精神的に疲れたと思う。
こういう場合、預ける方は預けっぱなしで、現実を理解していない、いや、飯だけ与えてあとは放っといて良いということが、如何に看る立場にも教育の面でも無責任か。。。それを責められない兄の家庭の事情もあったであろうが。。。これからの彼の行動を見たいと思う。
60代半ばで竹馬の友を癌で亡くしてから、本格的なうつであった。あれから6年。。。
今回のてん末で私は自分が奔走する内に学んだことがあった。それは人のことは勿論だが、いわんや親のことをカッとなって一面を持って悪意を抱くことは良くない。必ず根本の問題が尾を引いて相容れない感情の壁があるものだと。
一緒に棲み近い関係だからこそ気付かなかったココロを閉ざして相容れなかったことは深く反省し、母親が楽しいシルバー・ライフを送れるようにサポートしたいと思う。
それを【マザコン】という人は言いたければ言わせておいてやる。私は『ゆかり』を大切にする。一度真を得た人には、必ず応える。どういうカタチであれ。
それが大和魂であり、日本愛であって欲しい。
今日は、入院中最後の週末になるかもしれないので。。。
爪を切ってあげ、こういう雑誌を置いてきた。
掲載されている写真が日本からは産経がほとんどであり、あとは共同関係だったので、ま、母親はあまり文書を読まない(これで多々痛い目に合っているが)ので写真絵本的に日本を見ておいていただこうと思いました。
どういうことであれ、自分の存在は親なしには有り得ない。老いる親を見捨てることは私には出来ない。
そう、私は、ステディに対しても母親に対しても伴侶であろうと、バランスを取って世代交代と子孫繁栄に務めていこうと思う。
そんな私を信じてくれるステディの明るいサポート。ルカの存在。だから頑張れる。本当に【ゆかり】に感謝したい。
また明日から生きていけるガソリンを得られたようです。