http://sankei.jp.msn.com/life/news/110626/bdy11062607010001-n1.htm
以上サイトから転記致します。
俳優の西田敏行さんの素晴らしい
コメントとお考えです。
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◆舞台こそ天職
ほとんど公にしてこなかったことがある。育ての親と生みの親がいたこと。それを会見の場で明かしたのは1年前の冬。主演ドラマのお披露目の場だった。戦災孤児だった主人公を演じたことで、自身の過去が重なったという。
実は5歳のときに養子に出された。父が亡くなり、同じ福島県郡山市内に住む母方の伯母夫婦に引き取られたのだ。「母は再婚してしまったからね…」。幼い身に突然降りかかった悲劇。しかし、養父母について語る表情は幸福そうだ。
「大きな愛情を注いでくれて、僕の骨格を作ってくれた」。夫婦そろって大の映画好きで、よく劇場に連れて行ってもらった。小学5、6年生の頃には早くも役者を夢見たという。
そして、「役者になるには標準語を話せなければ」と、東京の高校に進学。卒業後の昭和41年からは俳優養成学校に通った。
45年には名門・劇団青年座に入団。山岡久(ひさ)乃(の)さん、初井言(こと)栄(え)さんら大女優をはじめ多くのベテランが在籍していたが、1年後には名作「写楽考」の主演に抜擢(ばってき)された。「舞台こそ自分の場所」。天職だと思った。
◆まさかの「紅白」
「源さんでしょ?」。48年、青年座の公演で岡山県に出向いたときのこと。バスで移動中に見知らぬおばあさんに声をかけられた。
当時はテレビにも進出。NHKの連続テレビ小説「北の家族」で大工の源太郎役として出演中だった。
「あ、はい」と答えると、女性はにこやかな表情でこう言った。「うちの物干し台の足場が壊れたの。今度直してね」
舞台俳優が役名で呼びかけられることは、まずないことだ。「テレビってすごいと思った。僕の演じた役が、彼女の日常にしみこんで生きている。それがうれしかった」
けれども、舞台の世界がテレビドラマに注ぐ視線は冷ややかだ。「芝居の“脚力”が落ちる」「楽をしている」といった中傷も俳優仲間から受けた。ただ、こうした視聴者とのふれあいが重なり、「舞台俳優という枠へのこだわりが消えていった」という。
人気に火がついたのは55年のテレビドラマ「池中玄太80キロ」。56年には、自ら歌った主題歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に出演を果たした。
当時の紅白は視聴率70%を超える“お化け番組”。「ルビーの指環」を歌う寺尾聰さんに続き、白いタキシードにシルクハット、銀色のマントというど派手な衣装で登場し、スポットライトを浴びて熱唱した。
「絶頂」という言葉は決して言いすぎではないだろう。しかし、「人気」は魔物だ。これまでに何人もの優秀な俳優や歌手が、人気の絶頂で己を見失い、消えていった。この晴れ舞台が、あるいは「俳優・西田敏行」の一番の転機だったのかもしれない。
「紅白」の余勢をかって仕事の比重を歌手に移すこともできた。全国に浸透した人気にあやかって、マルチな活動に向かう選択もあったはずだ。しかし、俳優という軸足がぶれることは決してなかった。
「人気と役者の実力は別だと分かっていた。『増長するな、ひとさまあっての商売だぞ』って養父母に言い聞かされていたからね。慣れが一番怖いんだよ。何でも常に舞台と同じ緊張感を持って臨んでいれば、大丈夫だって思っていた」
◆体力を過信し…
その日は朝から細かい雨が降っていた。平成15年3月の夕暮れ、意識が遠のき、気がつくと病院のストレッチャーの上。医者の「心筋梗塞だね」という声が遠くで聞こえたという。
映画「植村直己物語」(61年)の撮影やドキュメンタリー番組で、エベレストやアラスカを探訪するなど、身体は頑強そのもの。63年には「釣りバカ日誌」シリーズがスタート。青年座の公演とドラマ、映画もこなす過密日程も持ち前の体力で乗り切っていたが、そこに過信があった。俳優という仕事は身体が資本にもかかわらず、昔から健康には無頓着だったからだ。
幸いにも症状はそれほど重くなく、2カ月後には仕事に復帰。「よく食べたし、飲んだからね…。おれもちゃんと寿命があって死ぬんだなって思い知らされたね。最後ぐらい笑ってさよならを言う余裕を持ちたい。もう無理はしないよ」
《増長するな》。
自分を育て、戒めてきた養父母の教えは、今も胸中に息づいている。
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舞台俳優を天職だと思えた時、
TV出演によって視聴者の日常に役柄で
あっても自分が投影されて生きている…。
舞台俳優がTV俳優へのそれまでの
冷ややかな中傷も、柔軟に捉えて払拭し
囚われることなく枠を超えて活躍の場を
広げられた。
しかも、以後に爆発的人気を得ても
養父母様のお言葉があり、慢心することなく
実力を求めて芸能活動を探求された姿勢。
走り過ぎた末の病もカラダに対する慢心が
あったと戒められ、復帰しご活躍されている。
人生の先輩として見習わなければならない
点が沢山あると思いました。
福島ご出身で今回の震災でも積極的に
風評被害を抑えようと振る舞っておられた
西田さん。
私は応援していきたいと思いましたし、
中年入学式を間近に控えた私には
目指したいカッコイイ中年の目標かも
しれないと思いました。