小学校卒業までは算数といい、
【答え】を出すことが目的になる。
九九を知識として暗記し、
知恵を働かせる【基礎】が始まる。
私は九九の覚えは『語呂合わせ』のせいか早かったが、文章問題でつまずいた。
あれは国語だ。
文章の意味を理解できないと、計算式を作れない…。その時点で、算数はからっきしダメだった。
父がなくなった時期で、のち高学年になってから個別に呼び出され、分数の問題の解き方を教わった覚えがあるが、何でも暗記が迫られたような気がして、自分から関心を持てなかった、というか、意味がわからなかったのだろうか、何のためにこんなことをやっているのか、チンプンカンプンで身に付かなかったようだ。
当時の自分が今のオッサンのなべちゃりんを見たら、ブログで理屈をこねていることに驚くだろう。
中学生からは【数学】となり数式に過程を求めるXが登場する。
この欠落したXを求めることに、それまで得た【知識】と【知恵】をさらに深める。
式が成立する全体像から、何が欠落しているか?
【知識】という【基礎】があってこそ、
【知恵】で【応用】ができるわけだ。
頭を働かせなければいけない教育だと思うが、働かせるためにはどうしても知識として暗記する基礎力は欠かせない。
国語なら五十音や、読み書き、実際の生活で、自然とある程度の知識はつく。使っているから実感も伴う。
これは、人間が言語中枢でものを考え、捉えて、判断し、発言し、行動しているからだろう。
使い方や知識の間違いを正すのが、基礎教育には欠かせないが、それを元に応用させる教育に暗記が伴っている。
私は文系だったが、理系でも数学や理科系科目でも暗記が受験で求められていると、友人から聞いたことがある。
文系は言うまでもない。文系だった私には、特に英語、日本史の暗記は実用的でなく、その暗記を基礎に知恵を求められる教育がなされていたかどうかは、今考えてみても疑問だ。
英語は、単語の暗記、文法もだが、センター受験に取り入れられた発音も、あまり意味がないと思う。
語学はコミュニケーションが基本だ。
片言でも話せるように勇気をもって話してみる教育、その上で間違いを正すようにすればさらに良い。
日本史に至っては、まず日教組の捏造は後述に送るが、年号や出来事の暗記に終止していて、時代背景から政治史、経済史、宗教史、文化史、など、他分野との横の繋がりがまったく見えなかった印象がある。
そこで心配なのが、日本人の良い点である勤勉で実直な点が仇にならないかである。
知識があり、基礎力があるのに、それを応用し、考え方、生き方に反映させる気概のある人間が欠乏していないか、心配である。
誰も国語辞典を丸暗記してなくても日本語は話せる。
英語が出来るという方も辞書や文法が完璧に頭に入っているわけではない。
多国語を話せる人は、それぞれを頭の中でパラレルに比較できて、多分、暗記をそれほど頑張らなくても自然と言語中枢が働き感覚で蓄積して、あとから理論的に結びついて身に付いていったという方が多いかもしれない。
必要に迫られて、という要因も大きいかもしれない。
基礎は知識として大切。
なので、暗記も必要だと思う。
知らなければいけない基礎がなければ関心は持てないし、関心がなければ手につかず身につかない。ゆえに暗記への根気も情熱も必要だとは思う。
しかし、知識を暗記に寄って詰め込むのではなく、経験として身に付けられるような初頭教育を、私はもっともっと必要である気がしてならない。
語学は特に早く日本語と英語に限らず他国語をパラレルに教えた方が良いと思う。
問題は、それをベースに各々がどう使うか、活かしていくかでしょう。
頭でっかちで何もしない人は、知識過多で無責任な印象がある。
逆に、何も知らないのにものを言い突き付けたり、大人げない行動をする人は、もっと関心をもって知識と造詣を深めるべきだと思う。
日本の教育は、英語でも単語や文法はよく知っているのに、話せない、実用できない知識過多だし、歴史も単なる暗記で、人間の行動様式の変遷や時代背景の横の繋がり、そして今がなぜあるのかを伝え、未来にどう活かすべきかを考えさせる教育が欠乏してはいないか、と思う。
結局は高学歴を得るための各々の生存競争的な教育で、考え方、感じ方、その上で正しいのか間違えなのか、主観として良く、伸ばすべき点なのかを認め会うような教育ではない現実がある。
お金がなければ大学に行けない現実もある。
日本は、大学に入るまでが大変で、入ってからバイトや恋愛や趣味に明け暮れ、肝心の勉学が厳しくない。
私もそうだった。
しかし、性格はご存知凝り性で、第二外国語に中国語を選んだにもちゃんと理由があった。
最初の授業で、中国人の先生がなぜ選んだかを生徒全員に聞いたが、みなほとんど一様に『漢字が含まれるから』だった。一様だったその現場に驚いた。
英単語暗記の後遺症かもしれないが、あまりにも理由が同じという現実にガッカリした記憶がある。
私も漢字が含まれる点は理由ではあるが、同じ意見を言っても烏合の衆である。
『動詞に時制がないから』と、文法的に英語ほど時制が複雑ではない理由を述べた…。予備知識として知っていたし、事実英語で時制は苦労したことが選択の一因だったのだが…。
語学はそう簡単なものではない。
実用的な発音で本当に苦労した。
ま~、だけでも4声といって4つの意味がある。
これを使い分け日常で話して通じ合っているのだから、中国人の耳と言語中枢の繋がりは凄いと思う。
と言うわけで、
大学に入ってみて初めて知識教育の影を感じたのは、皮肉にも我が国が政策として敵視されている中国語を学んだことで、身に沁みて分かることとなった。。。
しかし、一方日本語は、漢字、ひらがな、カタカナと3つの表記を巧みに使い分け、文字による表現力も多彩だと思える。助詞、助動詞の発達も特筆すべき素晴らしい点ではなかろうか?
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知識過多の頭でっかち、経験としての知恵を活かせない。
日本人は『より多くを知っている』が、『実際にその知識を活かせていない』ような気がする。
それは、受験戦争による『明と暗』ではなかろうか?
頭は決して悪くなくても、知識がなくて勉学や関心への意欲を失っていたり、劣等感で頭が悪いと思い込んでいる人も多いのではなかろうか?
そう、思えば、…。
知識過多で教え込まれることほど、誤解を招きやすいことはない。何の疑問もなく植えつけられているからこそ、日本人は歴史教育の上では日教組の被害者だし、受験戦争が何より重要である韓国の子供たちも反日教育で教え込まれているので、同様に政策的に教え込まれた被害者であるとも考えられる。
そう考えたら、どの国も自国の国策や利益になるような教育がなされていて、事実としての歴史認識は不統一ではないかと思われる。
語学では、話して使いこなして気付いた日本人が多くとも、歴史は関心を持って各国でどう教育されているか検証したり、各自が史実としての情報を得ようとしなければ知り得ないことが多いような気がする。。。
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日本人が『融合』と『折衷』が得意である特徴をもっと活かすには、行動力に繋がる知恵や問題意識を持てるような教育にするよう、見直さなければいけないような気がする。
自発的に知り得ようとする意欲を育てる教育。
日教組が有る限り無理ですね。
これは、日本人への罠だと感じてしまう。。。
私自身の過去を省みた記事でした。