【自殺を考察する】:身体が属する物質の世界と決別したいと思うこと? | なべちゃりん的な考え方?? 宜しければ、戴いて下さい♪

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私は常々、身体なんて物質であり、

生きているなどとは現象であって、

『目に見えない精神やココロの世界』 と

この 『物質の世界』 とはそもそも別

ではないかと思っています。


生きているからこそ、まず生計を講ずる

べきで、そして幸福感や貪欲な物質への

執着などがあり、死んでしまえば全て

この 『物質の世界』 に返すものばかり

だと感じています。


自然死であれ、事故死であれ、自殺であれ、

その 『死』 という現象においては

この 『物質の世界』 の一出来事であること

に何ら変わりはない。


人間は自分が 『生きている』 という

『現象』 を維持する中で、この『物質の世界』

とどう関わっていくかを、各々の意思で

決定できる。


しかし、物質である 『身体』 の機能が

老化すること、突然の不可抗力の出来事で

亡くなることは、自分の意思とは関わりがない。



問題は自殺である。


これは自分の意思で 『物質の世界』

と決別する行為だ。


この世の中にどう関わって良いか

分からなくなることで、自らの 『生きている』

という 『現象』 から離脱し、

『目に見えない精神やココロの世界』 に

一人で返り無になりたいという、

これもまた 『欲求』 なのだろうな、

と想像が尽きます。


『目に見えない精神やココロの世界』 が

あるか否かは分らないし、『物質』 として

の身体のどこかに存在しているのかも

しれないと考えたりもしますが、


『物質の世界』 で満たされている部分が

少しでもある人間には、『死にたい』 という

欲求や心境は決して解らないことだ

と思います。


ただ、遺された者には 『哀しみ』 という

心境を置き去りにする行為なので、

自殺は批判したくはないのですが、

独り善がりな行為ということになって

しまいますね。


母親に 『死にたい、死にたい』 と

言われるたびに、

『そうだね。ボクも死にたいけど、

 一緒に死ねないし、哀しみを遺して

 勝手に独りで死なないで。

 死ぬことを考えるほど辛いなら、

 ボクと一緒に生きることを、

 一緒に考えようよ』 と、


励まさず言うことを心掛けています。


効果があったのか、治療のおかげか、

最近はとても落ち着いてきました。


生きているからこそ出来ることって

あると、本当に思います。