今日は家庭裁判所に行ってきた。
母親の精神医療上の保護者になるためである。
母親自身の意志が喪失していて、自分で入院する意志を示せないため、法制的な措置をとったわけだ。
私が保護者になり、私の同意の上、医師が医療行為を行えるというわけだ。
しかし、この保護者専任の手続きについて私はずっとココロのどこかで戸惑いがあった。
自分を産んでくれた母親のための保護者として、自分自身を専任してもらいに行くというのは、何だか切なく哀しい想いで、実は連休があけたら行こう行こうと思いつつ、つい先伸ばしにしてしまった。
重なって体調も良くなかった。
世間が連休であるムードに自分の気持ちがのらず、何もしたくなくなってしまったこともある。
私の場合、幼い時から月に一度はこういうことがあった。
むずがりもせず機嫌の良い子供を
『気さんじな』
という形容詞で表現したかと記憶しているが、私はそのタイプで、大概大人の前や公の場で、あまり周囲を困らせたことはない。
しかし、自分が自分であること、それを維持すること自体が嫌になる、人様にはそれを表せない
『自家中毒』
のような症状が出てきて、とにかく部屋を暗くして布団をかぶりじっとしていたい時が続いたりする。
酷いと2・3日風呂に入るのも着替えるのもテレビを見るのも嫌になることがある。
自分でもよくわからない。
始めはその『殻』に被っていることが心地よいのだが、だんだん出るに出られなくなり、そのうちウックツしてしまう。
連休中はステディが知らない間に部屋へ訪れて正気に戻ったカタチになり、連休明けはさすがに病院の方から保護者専任の要求と洗濯物を取りに来て欲しいと連絡があり、正気に戻れた。
本籍地から戸籍謄本を取り寄せ、住民票や診断書を揃えておきながら、2・3日そのままにしたのには、やはり、自分の親の保護者になることが何だか嫌だったに違いない。
家庭裁判所に提出し、参次官の面接を受けるというものだが、これだけの作業になんと3時間以上待たされた。
冗談抜きで、参次官と面接するまでに
3時間かかったわけである。
この紙切れ一枚もらうのにである。
12時に出廷して終わったら3時半。役所だからキッチリ昼休みを取ることは予想がついていたが、それにしても書面の確認と面接だけのために…
もう少し人数増やすなどして何とかならないものかと思う。
さて、場所は桜田門というか、霞ヶ関である。病院は五反田。
国道一号をまっすぐ行けば6キロである。
しかし、直下の地下鉄はみな一様に渋谷や目黒、大手町などへ行き、まっすぐ五反田へは行かない。
バスもしかり。
タクシー載るほど余裕はない。
歩いてみることにした。
たかが6キロである…
されど、6キロであった。
雨の中、途中でモヨオシ喫茶店に入り、用をたしてしばらく休んでから再び歩いたが、虎ノ門、神谷町、飯倉を歩き、
左に東京タワーを見ながら、赤羽橋、三田まで歩いたが、慶応大学の大学生が楽しそうにキャンパスをあとにしているのを見ていたら馬鹿馬鹿しくなった。
国道一号が慶応大学を右に巻いて折れる三田二丁目でタクシーを拾い、病院へ向かった。ちなみに病院までそこから3キロ。
半分まで歩いたということね。
前回 『2度と来るな』 と言われてから10日ぶりに見舞ったが、母親の表情は固さがなくなり、幾分穏やかであった。
看護師の話では、様々な検査を踏まえ病状と投薬のバランスが絞られてきたということで、少し出口が見えてきたようだ。
しかし、まだ、亡くなったはずの祖母を
『お母さんは?』 と呼んだり、
亡くなったことを伝えても
『なんで?』 という具合に
特に落ち込む様子もないということは、ある程度の認知症も覚悟せねばならないかもしれない。
最初にうつ病が発覚して6年。
ずいぶん、通院にも付き添ったが結局自分は何をしてあげられたのだろうか?
最後に家に残った二人きりの家族として共存し、新しく家族を迎え、生きていくことを考えていたが、精神的負担を強いていただけかもしれないと考えたり、独立してしまった方が良かったかもしれないと思ったりもしている。
これは答えがないと思う。
私の考え方は、最後に残ったからこそ、『家』を絶やさず、親子孫と代々共存していくことに意味があると思っていた。
しかし、実は母親はそんなこと望んでなかったのかもしれない、漠然としていても本心は別のところにあったのかもしれないと思ったりして、最近、家に独りでいるとよく考えたりしている。
今日はデイルームという患者さん同士集まる部屋で夕御飯を食べ、むずがることなく、
『気さんじ』とまではいかずとも機嫌よくしてくれた。
連休前の『2度と来るな』は、さすがにコタエタ…
何を言われても言い返すまい、精神的健康を取り戻すためには…
と決めていたので、今日は微笑まずとも穏やかでいてくれて良かった。
少しずつでいい。
何か、良かった。と思えることが一つあるだけで、ボクは幸せ。
『また来るね』
と病院をあとにし、帰ろうとしたら、病室に傘を忘れた…
しかし、面会時間は終わった。もう戻れない。
一度楽を覚えるともう一度楽をしたくなるものだ。
病院からタクシーを使ってしまった。
乗り込む時、とっさに考えた。
地元付近まで世田谷線という昔ながらのチンチン電車が走っている。
帰りはそれに載ることを前提に、地元とは反対の終点、三軒茶屋を目指した。
さらにとっさに思った。
かつて三軒茶屋に住んでいた友人に電話して、美味しいものでもささやかに楽しんで帰ろうと。
ボウリング業界いた時の恩人が快く教えてくれたお店は、コジャれたレストランだった…
が、
間一髪、先に入られたのが絵に描いたような美男美女のカップルで、他もほとんどがカップル。
友人には予め、独りでも楽しめるとは聞いていたが…
夕闇に目映い店先の雰囲気につい入る勇気を失い、結局、ウロウロした挙げ句、世田谷線で帰路についてしまった。
コンビニに入って食料を物色したが、どれもこれも味気なく、通りがかりで『そういえばカレー食べてないな』と思い、ココイチへ。
メニューを見て、野菜がゴロゴロ入っているカレーについ目がいき、それを頼んだ。
見た目から、母親がよく作ってくれた、ニンジン、じゃがいも、玉ねぎのカタチが煮崩れしていない、少年の頃食べたあの、カレーライスを想像したのに。
二口、三口食べても、全然違う。
違うんだよね。
あの頃食べたカレーライス。
家の前で、近所の子と野球やって、はす向かいの医院の看板壊して、謝って、
一日中が平和で、この平和が永遠だって信じていた、あの頃、
家から匂ってきて、嬉しくて、沢山おかわりした、あのカレーライスには、絶対にかなわないんだよね
食べても食べても、味気なくて、
いや、いや、
ココイチさん、悪くないんですよ
ただ、自分が想像してつい注文したカレーライスが、あんまりにも味気なく感じたことが、何だか哀しくて、何で俺が、母親の、保護者なんだ?
って、ずっと問い続けて食べてたら、ちっともお腹一杯にならないんですよ
あのカレーライスはもう食べられないのかなって思ったら、悔しくて、6年も看てきて、なんで母親1人救えなかったのかと思ったら、情けなくて、何て言っていいか判らない淋しさがありましたね。
今夜の雨は格別に冷たかった。
でも、一つ一つ、受け入れて、それに対して愛をもってこたえを出さなきゃいけませんね
何とも言い様のない1日でした