ボウリング人生(3)のブログで
なべちゃりんが恩返しさせて
いただいた、元職場である
ボウリング場のプロボウラー
Rプロが、本日お誕生日
ということで、
ここに経歴をのせちゃいます。。。
少年時代
小学生の時に野球をやっていた
兄の影響でプロ野球選手を志すようになり、
その兄からカーブを教えてもらってから
頭角を現し、中学の時に4番で投手
を務める程に活躍をしていた。
三池高校に進学後は、甲子園出場こそ
無かったが、決め球のカーブで強打者を
手玉に取り、1試合平均で15奪三振、
最高では23奪三振を記録した。
大学時代
その後、スカウトからの誘いもあって
法政大学に入学。
大学時代もサウスポーから繰り出す
決め球の大きく曲がるカーブと
緻密なコントロールにより、
法政大の1962、1963年の連続優勝
に大きく貢献した。
1962年の大学3年時は
年間32試合中18試合に登板、
防御率0.84という驚異的な成績を挙げた。
同年、大学選手権でも優勝を果たし、
第一回日米大学選手権に出場し、
ミシガン大学と対戦している(戦績は2勝3敗)。
法政大時代に2年後輩だった長池徳士は
「Rさんが居なければ連続優勝は
できていなかった」と語っている。
大学3年時には、中退で読売ジャイアンツ入り
と新聞報道されたこともあったが、
卒業後、多数の球団がオファーがある中、
1964年に東京オリオンズ(現ロッテ!)
に入団した。
プロ野球選手時代
東京オリオンズでは一年目の1964年から
先発ローテーション入りし、初先発は
西鉄ライオンズを相手に7回を投げ、
初勝利を上げた。
その後も主に左腕の中継ぎ投手として
活躍したが、球団との確執もあって
1968年に打撃投手への転向を
進められたが、これを拒否し退団した。
プロボウラー時代
オリオンズを退団後、
グローバルリーグ(南米ベネズエラで
1969年だけ開催の5ヶ国6チームが
参加した海外リーグ)の
東京ドラゴンズに投手兼コーチとして参加。
しかしリーグは破産し、宿賃はおろか
帰国する費用も無くなってしまう。
当時リーグに参加していた26名は
路頭に迷う事になるが、日本大使館の
援助により事なきを得る。
そこで与えられた仕事の余暇で
初めてボウリングを目にした。
日本では折りからのボウリングブーム・・・
「野球ではなくボウリングで
生計を立てられる」と思い
プロボウラーになろうと決意。
その日からボウリング場で働きながら
毎日6時間30ゲームの猛練習を続けた。
1970年にボウリングを始め、わずか
半年で応募数約7000人の中から
プロボウラーのテストに合格し転身、
6試合目に初優勝を飾った。
1992年から日本シニアチャンピオン大会
で2連覇を達成。
1994年の第5回大会で準優勝。
1998年での同大会優勝の褒賞で
手にした『アメリカPBAシニアツアー』
のスポット参戦に、なべちゃりん同行!!
※いずれブログ掲載予定!!!
現在もプロボウラーとして活躍中。
通算タイトルは17回で歴代6位。
日本ボウリング史上
ナンバーワンのサウスポー。
氏曰く、
野球とボウリングと似ている所は
「マウンドとレーンの長さ
(18m)が一緒」である事である。
笑ってコラえて(日本テレビ)
の1コーナー『日本列島ちょっと昔の旅』
(2009年5月20日放送)での
インタビューで
「引退は?」と聞かれた際、
「ボールが前に進む限り続けたい」
と答えている。
実父亡きなべちゃりんの
偉大なるココロの父
であります!!