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「歌舞伎源流の地・日本橋人形町」

江戸文化の伝統美「歌舞伎源流の地・人形町」

江戸時代、芝居小屋やこれらを取り巻く茶屋などが多数集まる(芝居町)として大変な賑わいを見せた。芝居小屋の中には「江戸三座」と呼ばれた官許の芝居の内、歌舞伎を興行した中村座と市村座があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数あった。これらの芝居小屋は、天保の改革で浅草へと移転するまで200年ほどこの地(人形町)にあった。


「江戸三座」

江戸三座は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。

三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した

歌舞伎の元祖と考えられている出雲阿国や名古屋山三郎が、寺院の境内などで歌舞伎踊りを披露して大評判をとったといわれる。

歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめる。芝居小屋は次第に整理されてゆき、中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められるようになった。これを江戸四座(えど よんざ)という。

江戸の芝居小屋は、寛永元年に山城の狂言師で京で猿若舞を創始した猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座(さるわかざ)である。寛永9年には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の名字である中村に合せて中村座(なかむらざ)と改称している。

天保12年10月7日、中村座が失火にて全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼した。浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。

幕府では、老中首座の水野忠邦を中心に天保の改革が推進されていた。改革は逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。


新富座の座元・十二代目守田勘彌には先見の明があり、明治9年9月に新富座が類焼により全焼すると、その場は仮小屋でしのぎ、その間に巨額の借金をして、明治11年6月には西洋式の大劇場・新富座を開場した。杮落としの来賓に政府高官や各国公使を招いて盛大な開場式を挙行するというのも前代未聞だったが、なによりも新富座は当時最大の興行施設で、しかもガス灯による照明器具を備えてそれまでできなかった夜間上演を可能した、画期的な近代劇場だった。以後この新富座で専属役者の九代目團十郎・五代目菊五郎・初代左團次の三名優が芸を競いあい、ここに「團菊左時代」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代が幕を開けた。

大正12年、関東大震災で新富座と市村座はともに焼失。新富座はその後再建されずに廃座となった。市村座は仮小屋を再建したが、それも昭和7年には失火で焼失、以後再建されずに廃座となる。中村座はすでに明治26年に失火で焼失、廃座になって久しかった。ここに300年の伝統を誇る江戸三座はその歴史に幕を下ろした。



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