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熈代祭江戸時代より賑わい続く日本橋。その魅力は、江戸時代から今もなお続く老舗の味や職人に...

「いつしか、日本橋人形町と呼ばれる」

江戸時代の”粋”を感じさせる

江戸時代には官許の芝居小屋の中村・市村両座があって反映した地域。人形浄瑠璃の芝居小屋もあり、多くの人形師が住んだほか、人形を作って売る店も並んだため。いつしか人形町と呼ばれるようになった。今も江戸の”粋”を色濃く漂わす町内を散策すれば、人形町通りを挟んで、(町火消し)と(江戸落語)の2つの「からくり櫓」時計台がある。また歴史を感じさせる数々の老舗など、多彩な表情を垣間見ることができる。


人形浄瑠璃

「浄瑠璃」とはもともと仏教用語で美しい玉のこと。万物が金、銀、珠玉からなる薬師如来の浄土が浄瑠璃世界で、その薬師如来の申し子とされた美しいお姫様(浄瑠璃姫)と奥州へ下る牛若丸(源義経)との恋物語が十五世紀(室町時代半ば)に大流行し、いつしかこの種の語り物は「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。この頃は、琵琶の伴奏や扇拍子によって語られていたようですが、十六世紀に入ると、琉球から渡来した楽器を改良して「三味線」が考案され、浄瑠璃の伴奏楽器として用いられるようになります。

「人形」の歴史は古く、神の依り付く「依代(よりしろ)」、あるいは埴(はに)輪(わ)に代表されるような人間の代わりをするものとして、古代から人々の信仰と結びつく形で生活の中に入り込んでいました。やがてこの人形を遣ってちょっとした芸を見せて全国を旅する者(傀儡師(くぐつまわし)、人形廻し)が出現し、西宮(兵庫県)の夷(えびす)神社を本拠とする芸人の集団も発生しました。室町時代の屏風絵などには、首から提げた箱の上で人形を舞わせている傀儡師の姿などが描かれています。

この「人形」と「浄瑠璃」とが十六世紀末に出会い、「人形浄瑠璃」が成立します。この頃は「操り浄瑠璃」「操り芝居」とも言われ、十七世紀になると関西から江戸にも伝わり、「浄瑠璃」にも多くの流派が現れます。「人形」には糸操りもありましたが、日本人は農耕民族だからでしょうか、腰が据わって大地をしっかりと踏みしめる形の方が好まれたようで、主流は手で直接人形を操る手操りでした。十七世紀、徳川政権が安定するにともない人形浄瑠璃は大流行し、説経節によるものや、江戸では勇壮な金平(きんぴら)浄瑠璃による操り浄瑠璃が全盛を極めます。


天保十三年(1842)、水野忠邦による「天保の改革」は寺社の境内における興行を禁じたため、人形浄瑠璃のみならず当時の演劇界に壊滅的なダメージを与えます。逆境にもめげず、文楽軒(三代目。後の文楽翁(ぶんらくおう))はこの時期を堪え忍び、11年後には分散した一座を再び呼び集めて稲荷神社への復帰を果たします。明治五年、文楽の芝居は松島に移転し、ここで初めて正式に「文楽座」と名乗り、名実共に「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として認知されることになりました。

人形芝居が江戸時代初期に三味線音楽、浄瑠璃と結びついて生まれたとされる。太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。

その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身の初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の伝統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場は1872年、三世植村文楽軒(文楽翁)の時に松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。明治末期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となった。

大阪で生まれ、大阪の庶民に育まれてきた「人形浄瑠璃文楽」。2003年にはユネスコの「世界無形遺産」にも登録され、日本国内だけでなく世界中からも注目されています。


via I Love Nihonbashi
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「いつしか人形町と呼ばれる」

江戸時代の”粋”を感じさせる

江戸時代には官許の芝居小屋の中村・市村両座があって反映した地域。人形浄瑠璃の芝居小屋もあり、多くの人形師が住んだほか、人形を作って売る店も並んだため。いつしか人形町と呼ばれるようになった。今も江戸の”粋”を色濃く漂わす町内を散策すれば、人形町通りを挟んで、(町火消し)と(江戸落語)の2つの「からくり櫓」時計台がある。また歴史を感じさせる数々の老舗など、多彩な表情を垣間見ることができる。

人形浄瑠璃

「浄瑠璃」とはもともと仏教用語で美しい玉のこと。万物が金、銀、珠玉からなる薬師如来の浄土が浄瑠璃世界で、その薬師如来の申し子とされた美しいお姫様(浄瑠璃姫)と奥州へ下る牛若丸(源義経)との恋物語が十五世紀(室町時代半ば)に大流行し、いつしかこの種の語り物は「浄瑠璃」と呼ばれるようになりました。この頃は、琵琶の伴奏や扇拍子によって語られていたようですが、十六世紀に入ると、琉球から渡来した楽器を改良して「三味線」が考案され、浄瑠璃の伴奏楽器として用いられるようになります。

「人形」の歴史は古く、神の依り付く「依代(よりしろ)」、あるいは埴(はに)輪(わ)に代表されるような人間の代わりをするものとして、古代から人々の信仰と結びつく形で生活の中に入り込んでいました。やがてこの人形を遣ってちょっとした芸を見せて全国を旅する者(傀儡師(くぐつまわし)、人形廻し)が出現し、西宮(兵庫県)の夷(えびす)神社を本拠とする芸人の集団も発生しました。室町時代の屏風絵などには、首から提げた箱の上で人形を舞わせている傀儡師の姿などが描かれています。

この「人形」と「浄瑠璃」とが十六世紀末に出会い、「人形浄瑠璃」が成立します。この頃は「操り浄瑠璃」「操り芝居」とも言われ、十七世紀になると関西から江戸にも伝わり、「浄瑠璃」にも多くの流派が現れます。「人形」には糸操りもありましたが、日本人は農耕民族だからでしょうか、腰が据わって大地をしっかりと踏みしめる形の方が好まれたようで、主流は手で直接人形を操る手操りでした。十七世紀、徳川政権が安定するにともない人形浄瑠璃は大流行し、説経節によるものや、江戸では勇壮な金平(きんぴら)浄瑠璃による操り浄瑠璃が全盛を極めます。

そのような中で竹本義太夫は、旧来の浄瑠璃各派の長所を取り入れてあらたに「義太夫節」を興し、貞享元年(1684)大阪・道頓堀に義太夫節による人形浄瑠璃の劇場「竹本座」を旗揚げします。やがて浄瑠璃作者の近松門左衛門と提携して数々のヒット作を生み出すようになり、大阪の人たちの人気を独占します。その勢いは、義太夫節以前を「古浄瑠璃(こじょうるり)」と呼ぶほどで、これ以降とくに大阪では「浄瑠璃」というのは義太夫節を意味するようになったくらいです。

人形は初めは一体の人形を一人で遣う「一人遣い」でしたが、台本(戯曲)の指定が細かくなって複雑な動きを要求されるようになり、また小さい人形では劇場(舞台や客席)の大きさにも限界があることなどから、一体の人形を三人で遣う「三人遣い」が考案されます。享保十九年の「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」に出てくる与勘平(よかんぺい)、野勘平(やかんぺい)という二人の奴(やっこ)の人形がその始まりとされていますが、徐々に三人遣いに移行し、遅くとも十八世紀半ばまでにはほぼ現在の大きさと構造になったものと思われます。

天保十三年(1842)、水野忠邦による「天保の改革」は寺社の境内における興行を禁じたため、人形浄瑠璃のみならず当時の演劇界に壊滅的なダメージを与えます。逆境にもめげず、文楽軒(三代目。後の文楽翁(ぶんらくおう))はこの時期を堪え忍び、11年後には分散した一座を再び呼び集めて稲荷神社への復帰を果たします。明治五年、文楽の芝居は松島に移転し、ここで初めて正式に「文楽座」と名乗り、名実共に「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として認知されることになりました。

人形芝居が江戸時代初期に三味線音楽、浄瑠璃と結びついて生まれたとされる。太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。

その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身の初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の伝統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場は1872年、三世植村文楽軒(文楽翁)の時に松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。明治末期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となった。

大阪で生まれ、大阪の庶民に育まれてきた「人形浄瑠璃文楽」。2003年にはユネスコの「世界無形遺産」にも登録され、日本国内だけでなく世界中からも注目されています。


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