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梨園染 人形町東京日本橋戸田屋商店。日本の文化(手ぬぐい ゆかた)庶民の粋と伝統守り育て...

日本橋 食文化

世界でも稀なグルメ大国、日本。娯楽の一つとして食を愉しむ国民性は、その萌芽を江戸時代の日本橋にみることができます。

江戸の町人たちが外食を愉しむようになったのは、17世紀の後半頃からです。明暦の大火後、その復興と江戸の拡大などのため地方の農村などから単身労働者が集まり、江戸中期には江戸の男女比率が約2:1となりました。労働者だけでなく勤番武士など男性の単身所帯が多かったうえ、当時は燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうがはるかに安上がりで便利だったのです。また残り火が出火原因となることが多かったため、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づく背景にあったといえるでしょう。 


棒手振(ぼてふり)による、おでんや田楽などの煮売り、焼き売りにまじって屋台が出るようになり、天ぷらや寿司などが人気を呼びました。天ぷらは串刺しで供され、寿司もカウンターに既に醤油が置いてあり、ぱっと立ち寄ってはさっとつまんで食べるスタイル。いわゆる立ち売り(立ち食い)の店で、今のファストフード的な存在です。ちょっと食べては次の店へ、といった屋台はしごを愉しむ人々もいました。 

街道・航路が開かれ、諸国から人や産物が大量に流入した江戸は、商業活動が活発化し、どんどん都市化していきます。街に包容力があり、江戸っ子は新しモノ好きだったから、外来の文化も積極的に取り入れる。国際都市ならぬ"藩際都市"として栄え、食文化もとても多様で幅広いものとなっていきました。江戸の前期は上方文化が中心でしたが、田沼時代(1767~86年)あたりから江戸独自の文化が生まれ、文化・文政(1804~30年)に化政文化が花開きます。食においても、握り寿司や二八そばが盛んになり、湯浅醤油などの下(くだ)り物から野田や銚子で作られる濃い口の地廻り醤油が使われるようになるなど、江戸前が主流となりました。 

江戸っ子の「宵越しの金は持たねぇ」という美徳は、それだけ江戸庶民が潤っていたからです。当時は大工職人の日当が500文。家賃がおよそ1,000文の時代ですから、2日働けば家賃は支払えます。ちなみに、二八そばは16文。多くの奉公人を雇い、行事のたびに着物を新調したりする武士に比べ、庶民は可処分所得を娯楽につぎ込めたのですね。江戸後期には多くのグルメガイド本も出版され、現代と同様、庶民は食べ歩きを愉しんでいました。文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」には、大通りに面して露天商や屋台、水茶屋がずらりと並んでいます。高級料亭もありましたが、日本橋界隈は庶民のための街として活況を呈していたのです。


via I Love Nihonbashi
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世界でも稀なグルメ大国、日本。娯楽の一つとして食を愉しむ国民性は、その萌芽を江戸時代の日本橋にみることができます。

江戸の町人たちが外食を愉しむようになったのは、17世紀の後半頃からです。明暦の大火後、その復興と江戸の拡大などのため地方の農村などから単身労働者が集まり、江戸中期には江戸の男女比率が約2:1となりました。労働者だけでなく勤番武士など男性の単身所帯が多かったうえ、当時は燃料費が非常に高かったので、自炊するより外食のほうがはるかに安上がりで便利だったのです。また残り火が出火原因となることが多かったため、自宅での火の取り扱いを控えていたことも外食文化が根づく背景にあったといえるでしょう。 


棒手振(ぼてふり)による、おでんや田楽などの煮売り、焼き売りにまじって屋台が出るようになり、天ぷらや寿司などが人気を呼びました。天ぷらは串刺しで供され、寿司もカウンターに既に醤油が置いてあり、ぱっと立ち寄ってはさっとつまんで食べるスタイル。いわゆる立ち売り(立ち食い)の店で、今のファストフード的な存在です。ちょっと食べては次の店へ、といった屋台はしごを愉しむ人々もいました。 

街道・航路が開かれ、諸国から人や産物が大量に流入した江戸は、商業活動が活発化し、どんどん都市化していきます。街に包容力があり、江戸っ子は新しモノ好きだったから、外来の文化も積極的に取り入れる。国際都市ならぬ"藩際都市"として栄え、食文化もとても多様で幅広いものとなっていきました。江戸の前期は上方文化が中心でしたが、田沼時代(1767~86年)あたりから江戸独自の文化が生まれ、文化・文政(1804~30年)に化政文化が花開きます。食においても、握り寿司や二八そばが盛んになり、湯浅醤油などの下(くだ)り物から野田や銚子で作られる濃い口の地廻り醤油が使われるようになるなど、江戸前が主流となりました。 

江戸っ子の「宵越しの金は持たねぇ」という美徳は、それだけ江戸庶民が潤っていたからです。当時は大工職人の日当が500文。家賃がおよそ1,000文の時代ですから、2日働けば家賃は支払えます。ちなみに、二八そばは16文。多くの奉公人を雇い、行事のたびに着物を新調したりする武士に比べ、庶民は可処分所得を娯楽につぎ込めたのですね。江戸後期には多くのグルメガイド本も出版され、現代と同様、庶民は食べ歩きを愉しんでいました。文化2年(1805年)頃の日本橋通りを描いた「熈代勝覧(きだいしょうらん)」には、大通りに面して露天商や屋台、水茶屋がずらりと並んでいます。高級料亭もありましたが、日本橋界隈は庶民のための街として活況を呈していたのです。


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