ノンデュアリティ、について。
過去のブログで書いたかな。
書いたことがあるような気がするんだけど見つけられなかった。まあ、いいか。
おそらく一通りスピリチュアルというものに触れてきた末に私の心が今落ち着いている「ノンデュアリティ」というものについて書いてみる。
ちなみに、ノンデュアリティという考えに触れたのは、私の場合はスピリチュアル系の色々な情報を得る中での出来事だったけれど、別にスピリチュアル的に次元上昇とか、悟りに近づくための新しいメソッド、というわけでは全くない。
そして、ここに書くことは今の私の理解であって、正解はこれですよ、というものではない。
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ノンデュアリティって日本語にすると「非二元」。
言葉のとおり、「二元でない」。
ただただ、真実は二元でないんですよ、という事実を表している言葉に過ぎない。
ので、何かを期待して読むとがっかりするかも。
●二元って何?
この物質世界、私たちが現実だと思って生きている世界は、基本的に「二元」の世界。
私がいて、他人がいて。
光があって、闇があって。
恋人がいるという状態もあれば、恋人がいないという状態もあって。
・・・とにかく、「A」があったら、「Aでない」ものもある。
白黒つける、なんて言葉は、白と黒があると思ってるから出てきた言葉。
でも、実は、二元に見えているのは幻想。
非二元が真実なんですよというお話。
●非二元って?
「私がいて、他人がいて」という二元の認識(区別・分離)がないわけだから、
非二元の世界では(というかこれが真実)、私と他人の区別はない。
この世界はすべて1つのエネルギーで、ただただそのエネルギーが「私」という表現をしたり「他人」という表現をするだけ。
ただのエネルギーの表現であって、本当に「私」というものが存在するわけではない。
・・・ここで、そうか、そうなのか、と理解する人はいないと思う。
もうこの時点で混乱。私も文章にしていると混乱。
「二元」の世界の言葉で「非二元」を表すことはできないのが前提。
言葉で理解できるような世界ではない。
とは言え、自分の理解のためにも、もうちょっと頑張って文章にしてみる。(そもそも「理解する」も「理解しない」もないのだけど。)
●すべて幻想で、すべてがある。
非二元の世界では、「白黒がない」というわけではなく、「白黒の判断は幻想で、実際はすべてがある」という言葉が近いかなと思う。
もし「白黒はない」と言っちゃうと、途端に「白黒がある」世界も生まれちゃうから。
何かを否定する=何かの存在を「すべて」から切り離して、その存在を認めてしまうことになっちゃう。
うまく伝えられてるかな?
この世界はすべて1つのエネルギー。
ただただそのエネルギーが「私」という表現をしたり「机」という表現をするだけ。
私が「これが私」だと思って、外の世界から「私」だけを切り取って、「私」にエネルギーを収縮させて生きているのが、この二元の世界。
エネルギーが収縮して、「私」という表現が起こっているだけに過ぎない。
繰り返すけど、この世界はすべて1つのエネルギー。
その中の一点にエネルギーを集中・収縮して、「これが私だー!」と主張しているに過ぎない。
でもすべては本来1つのエネルギーだから、そのエネルギーの収縮(すべてからの分離・区別)はすぐに消える(幻想)。
すべてのエネルギーの収縮は単なるエネルギーの表現であって、起こったり消えたりするから、そもそも実際に本当に存在するものは何もない。
だけど、すべての表現が翻って見れば1つのエネルギーであるこの世界には、すでにすべてが内包されていて、完璧に調和している。
すべて幻想で、そこにはすべてがある。
●何の役にたつの?
・・・「すべてはない」=「私」も存在しない、なんて言われて、このことを知って一体何の役にたつのだろう?
役に立つも何も、そういうもんですよ、というだけ。このブログは日本語で書かれていますよ、と言うのと同じくらいの軽さ。
そもそも「何かの役にたつ」という考え自体、役にたつorたたないという二元の世界の問いなわけで。
と、言ってしまえばそれで話が終わってしまうので、私が個人的に「ノンデュアリティ」を知っていかに生活に生かしているか書いてみる。
事例1:苦しいとき。
まず、その苦しみは幻想だと思ってみる。「苦しみ」というエネルギーの表現がただあるだけ。
単なるエネルギーの表現の一つである「苦しみ」は、別に「私」に起こっているわけじゃなく、ただ、起こっているだけ。
それを掴んで、「私」に対して苦しみが起こっていると勝手に決めつけているのは「私」なので、ちょっと冷静になる。
いや、それで苦しみがなくなったら苦労しない、と思うことが大半なので、
次に「私」という幻想にエネルギーを収縮しすぎている(執着しすぎてるとも言えるかも)、と認識する。
「私」は単なるゲームのアバターみたいなもので、そもそも「私」は本当には存在しないのに、ゲームの主人公を本当に私だと思っているようなものだと思い出す。
苦しいと感じる時、私は「私という存在がまぎれもなくここにいる」と信じていて、「この苦しんでいる私をどうにかしたい」と焦っている時なので、一旦、「私」を手放してみる、という言い方もできるかも。
これでわかると思うけど、「私」が存在していると信じている限り、苦しみはあるのだ(笑)
ということで、ノンデュアリティは苦しみを完全になくすメソッドでないということはここに記しておこうと思う。
事例2:感謝するとき。
すべて現実に起こってくる事柄は、エネルギーの表現の一つであり、すべてが完璧に調和しているということがわかると、
私という存在もこの世界に調和した完璧な存在であると認識できる。
そうすると今生きていること、今日遭遇したすべてのことが何だか温かくて、守られている感覚になる。
もちろん、苦しみやイライラ、悲しみという感情は当たり前に起こるし、怪我もしたりするけど、ただ、そういうことは起こるだけ。
あとはちゃんと対処すれば良いだけ(対処する、ということがあるかもしれないし、ないかもしれない。これもエネルギーの表現の一つ。)。
何だかとても冷たく聞こえるかもしれないけれど、苦しんで泣き叫ぶことを否定するわけじゃない。
だって、「泣き叫ぶ」という表現が起こるだけで、良いも悪いもないし、そもそもそれも幻想だから。
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ものすごく長くなってしまったのでこのへんでやめよう。
というか言葉に尽くせば尽くすほど、混乱を招くかも。
とにかく、ノンデュアリティということを知って、何か変わるわけではないし、別に苦しみがなくなるわけではない。
ただ、ちょっと物事に対する視野が広がったかなというくらい。
ちょっとでも生きやすくなればそれで良いのだ。「私」は幻想だけど、地球にはこの幻想を遊びに来たんだしね。
もしももしも、ここまで読んでくださった方がいらっしゃったら、ありがとうございます♡
