昨日は、先週新しく開店したばかりの「Public bar Stu.Sutcliff」という本当に素敵なお店で、正式な形としては3年以上ぶりのNAADAライブをさせていただきました。

 

来て下さった方、呼んで下さったオーナー様、来れなくても応援してくれたみなさま、本当にありがとうございました。

大切なことは歌とMCですべて伝えられたので、ここに多くは書きませんが、本当に幸せな夜でした。

心からありがとう。

昨日の時間が、来てくれた方の人生の中でほんの少しでも光になれば嬉しいです。

 

今回のライブで発表した新曲3曲の歌詞を、期間限定で公開させていただきます^^

ただ、私のポリシーでNAADAのオリジナルの歌詞はネットに公開していないので、無断転用はご遠慮下さい。

(悪意の有無にかかわらず禁止とさせていただきます。)

今週の日曜日までの公開に留めますのが、よろしければぜひご一読ください(*´◡`*)

 

演奏を聞いてくださった方は、その記憶と共に、まだ曲をお聴きいただいてない方は、どんな曲なのか想像しながら楽しんでいただけると嬉しいです。

 

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『スクラッチには五線譜を』

 

光を吸い込んだカーテンが

歪な世界の色調を少しだけ和らげ る

 

誰かの正義論は まるでアイスクリーム

誰かの熱で すぐに溶けて形を変える

 

耳朶うつ棘に 心壊されてしまわぬように

流れる音を捕まえるように顔を上げた

ららら

 

 

当たり前のスペクトラムだけが

遠き日々の心を温める想い出になるのなら

 

見慣れぬ景色さえ日常に変えてくれる君に

僕は歌いたい

ららら

 

 

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『まほうのキーライト』

 

ほら口笛 ひとつ吹いて

タララ おまじない唱えよう

「ちちんぷいぷい」

お次はなぁに?

ペラッ 魔法の本開いて

 

涙ひと粒、七色の羽、まぼろしの花の種ふたつ…

...集まらないわ

ニワトリの羽、ひまわりの種でいっか!

 

大事なのはきっと信じることよ

それが最高の魔法

 

やってみたら きっとわかるはずよ

騙されたと思って

 

 

エスキースを重ねて

ずっと完成しないスケッチに

悲しくなって 不安になって

頑張れなくなったら

 

思い出して 

「ちちんぷいぷい」 

ひとまず一緒に歌ってさ!

お茶でも飲んで 本でも読んで

ダラダラしたらいいさ

 

大事なのはきっと夢みることよ

それが最高の力

 

やれる時はやって

たまにサボって

飴と鞭と飴で、どう?

 

 

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『アンフォルメル』

 

What way did I love art?

I lost my heart.

How did i move my heart?

I don’t know that.

 

少し疲れたね

どうしようもなくて

寝ても寝ても休まらないみたいだ

 

 

無理に笑うのも 無理に尖るのも

同じくらい無意味なことなんだろう

 

諦められたら 少しは楽になれるね

それが出来たらいいのにな

 

 

正論に息切れ

だけど”悪”は嫌いで

青臭い希望を まだ捨てられなくて

 

割り切ってみたり

割り切れなくなったり

ゆらゆら揺れる水面

 

 

 

楽しめないのは不思議なことじゃないから

自ら選ばなくてもちゃんといつかは終わるから

掠れてくぐもった煌きを

鼓動を

ただ、見つめていようよ

 

 

 

きっといつか急に風が吹く

どうでもいいやと霧が晴れる

 

心の方から迎えに来るさ

君が、私が、何度目を背けても

 

Art never blame you

 

 

 

 

 

 

 

映画「ミッドナイトスワン」について

前回の投稿では、ネタバレなしでこれから一人でも多くの方におすすめしたい私の気持ちを綴りました。

 

今回は、思いっきりネタバレしながら、私の観賞後の素直な感想を書こうと思います。

 

【ネタバレしまくります:ご注意を】

 

 

まずはなんといっても作中とくに私が心揺さぶられたシーンから語りたいと思います。

 

たくさんあるんだけど、まず一番最初に心が張り裂けそうになったのは、凪沙の働くお店で泥酔したお客が騒ぎを起こした日。

バレエを踊る一果を初めて見たときの、凪沙の表情でした。

 

演者を含めた店のスタッフがみんな騒ぐ酔っ払いのもとへ出払い、空になったステージで、普段着のまま自由に舞う一果。

その姿は、まるでそこだけが異空間かのように美しく時がゆっくりと動いているかのような神々しささえある光景で、騒いでいた客までもが目を奪われるような輝きを放っていて。

それまで「踊る一果」を見たことがなかった凪沙が、初めて一果のバレエを見るという重要なシーンなわけだけど。。

 

ステージを振り返って、一果を見つめる凪沙の目。

かなり長尺で、凪沙の顔のアップが映されるのだけど、ほんっとうにすごい表情をしていて、私は一気に涙が出ました。

セリフは一言もない、涙も流してない、笑いかけることも、何もしてないんだけどね、なにもかもが伝わってくるかのようでした。

 

初めて目にした幸せそうな一果の姿に対する驚きととまどい

圧倒的であり根本的な、神様から贈られたものの違いをつきつけられた絶望

あまりの美しさに対する羨望と純粋な憧れ

一果の未来の可能性に見た一筋の希望

神聖な加護欲にも近い強烈な母性

 

そういった様々な感情が入り乱れ、おそらく凪沙にとって人生で最大の生きがいに出会った瞬間の目、のように見えました。

 

その日を境に、恋愛でも自己愛でも人間愛ですらない、得体の知れない強い愛に飲み込まれながら一果への母性を募らせていく凪沙の、健気で美しい絶望への道。

たまらなかったです。

 

夜に一果の練習に付き合い階段に座っている凪沙の、黙って一果を見守る眼差し

一果のコンクールを客席で見守る凪沙の、楽しみよりも緊張と心配が上回った表情

劇中で見せるさりげない仕草やささやかな表情すべてが、愛する我が子を見る母親のそれでしかありませんでした。

 

 

凪沙という女性は、どういう人なのか。

少ない稼ぎで住んでいる家は、新しくも綺麗でもない殺風景な建物で、だけどそんな中でも可愛らしい小物が置かれ、水槽は綺麗に保たれ、玄関には良い夢だけを通してくれるドリームキャッチャーが飾られていて。

加湿器やパックでお肌をケアしていたり、部屋着やヘアバンドも可愛らしかったり。

一果と打ち解けてからも、ハニージンジャーソテーのお肉が一果の方が大きかったり、野菜を食べるよう促したり。

公園でオデットの話をした男性に、踊りが上手だねお嬢さん方と褒められた時のはにかむような表情と、面識のない男性が近づくことから無意識に一果を守るように自然と身を寄せる仕草。

親友の瑞貴が苦しんでいたら、決して裕福ではないはずの自分のお金を工面したり、信頼関係が築ける前の一果を迎え入れた当初から丸見えのガラス瓶にお金を溜めていたり。

 

決して明るくみんなを牽引していくタイプではないけれど、ささやかな日常の中でかわいいものや綺麗なものに心踊らせる愛らしい女性であり、たくさん傷ついてきたはずなのに人を信じる気持ちが残るピュアな人間性が垣間見れるようでした。

 

だからこそ、そんな優しい凪沙が、一果への母性に狂い溺れていく様と、世間や本来一番の味方でいてほしいはずの家族や地元から、強い拒絶を受け心がボロボロになっていくことが辛かった。

そして、そうなることがわかっているからこそ、長年地元には帰らず自身の悩みをカミングアウトしなかった凪沙が、一果のためにすべてを曝け出し、決死の覚悟で迎えにいったことの重みが伝わってきました。

 

そしてその一世一代の覚悟が実を結ばなかった凪沙が、次に一果が戻るあの日までの間、どのような時間をどのような気持ちで過ごしていたのか、何の説明がなくとも想像するだけで苦しく辛い。

どうして要介護になったのか。

「サボっちゃった」という言葉しか説明はなかったけれど、大きな手術の後、適切なケアを続けなければ深刻な事態になることくらいわかります。

性転換手術の詳細がわからなくても、体の性別を変える大掛かりな手術が、退院したらあとは普段通りの生活に戻れるような手術じゃないことくらい想像出来るわけだから。

一果の母になるために、凪沙はお金も覚悟も人生もすべてを捧げるために地元に帰ったことを考えると、あの日一人で東京へ戻る道中の凪沙の気持ちを考えると本当に哀しい。

 

もちろん早織が実の母親である事実は変えられないし、早織は早織なりに一果を愛し大事にしていることもわかります。

引き離すことが正解なのかは誰にもわからないけれど、少なくとも、早織が凪沙に対してとった言動は人として間違っていると私は思いました。

我が子を盗られる焦燥感がそうさせたのだとしても、なぜ一果が一度自分の手元を離れることになったのか、その間一果を育ててくれていたのは誰なのか。

そして、一果の可能性を見つけてくれたのは、一果の腕に傷に気づいていたのは、誰だったのか。

その人がトランスジェンダーだった、ただそれだけのことで、感謝より反省より攻撃を優先して良い理由などどこにもなく、自分を守るためだけに早織が吐いた「バケモノ」という言葉は、私に一果は凪沙に育ててほしいと思わせるには十分すぎる発言でした。

 

あれだけ綺麗だった凪沙の部屋が、一果が戻る頃にはゴミと血だらけのオムツ、悪臭で埋まっていたこと。

かわいい部屋着を着て、パックをして、水槽にエサをあげていた凪沙が、血の滲んだオムツを数日間履き続け、ボランティアの方の介護を受けなければ生活出来なくなっていたこと。

凪沙がもし、女性の体で生まれてきていたら、そうでないなら、男性の心で生まれてきていたら、こんな景色は無かったのかと思うとやるせない。

 

もし、あれを見て、「ケアさぼるからでしょ」としか思えない人がいるのなら、とても心の寂しい人だと思います。

わからないことは罪ではないけれど、わかろうともしないことは罪だと思うからです。

 

凪沙が前半で泣きながら繰り返す「なんで私だけ?」という言葉。

LGBTQにかかわらず、若くして重い病気やハンデを背負った人や、血の滲むような努力が報われず心をボロボロに傷つけられたことがある人は、必ず頭をよぎったことのある言葉だと思います。

本当に、なんでその人なのだろう。

「だけ」ではなくても、なぜ、彼が彼女がこんな目にあわなければならないのか?と端からみても納得出来ない、魅力的な人達が傷つく姿を見ることがあります。

聖人君子じゃなくたって、天使じゃなくたって、そんなに傷つく必要ない。

ハンデや病気は変えられないけれど、そのせいで生まれる不必要な差別や二次災害はゼロに出来るのではないか。

そこを考えるべきだと思うし、そのきっかけを与えてくれる映画だと思うのです。

 

私は異性が恋愛対象の女性です。

いわゆる、「普通」なんだと思います。

だからもし、女性から恋愛を求められたとしたら同じ気持ちを返すことは出来ない。

だけど、男性から恋愛を求められたとしても、意中の男性以外の方の気持ちには応えられない。

それと同じ気持ちでお断りする、ただそれだけです。

好きになった人の恋愛対象が同性の男性だったとしても同じで、両思いになれなかったから諦めるしかない、ただそれだけ。

同性愛思考の方だから断っているわけではなく、両思いになれる相手ではなかったから断る、という普通のプロセスを踏んでいるだけです。

それは仕方がないことだと思います。

LGの方々が「同性」しか恋愛対象に出来ないのと同じだから。

だけど、気持ち悪いとかおかしいとかそんなことは思いません。

本当に微塵も思わない。

 

そしてさらにトランスジェンダーの方は、恋愛の有無以前に、仕事や生活の段階でどれほどの障害を感じながら過ごしているんだろう。

性格が合うなら普通に友達になれればいいのにな、と思うし、もし自分の友人が実はLGBTQなんだと告白してくれたとしても、今まで通りの友人関係を続ける自信は強くあります。

上記の通り、恋愛を求められてしまうとそれには応えられないけれど、じゃあその告白を受けて、友人から急に拒絶対象になるのかと問われるとそうじゃない。

 

それじゃだめなのかな。

自分が恋愛の相手として求められてもいないような人が、ただその人がLGBTQだという「事実を知った」だけで、差別したり大騒ぎしたりすることの方がずっとずっとおかしいと思うし、逆になにをそんなに意識してるのかわからない。

「ひとりっこなんです」とか「血液型はO型です」くらいの気持ちで聞けばいいのになと思う。

別に結婚してくれとも付き合ってくれとも言ってない段階で、「ひとりっこは無いわ〜」とか「O型っておかしいよね」と性格を知ろうともせず、いきなり入り口でシャットアウトされ、気持ち悪い・近よるな・おかしい・ばけものなどと言われたり、そういう空気を出されたりしたら、そんなのやってる方がおかしいって認識になるよね?

自分では選べない、自分ではどうしようもない、そんなことで人格を否定されるなんておかしいと思います。

 

応えられないのと拒絶するのは絶対に違う。

私は、LGBTQというカテゴリー自体で好きにも嫌いにもなりません。

前回の投稿でも書いたけど、その中にも良い人も嫌な奴もいるだろうよ。

良い人ならマイノリティーでも全然好きだし、嫌な奴ならマイノリティーだろうが好きじゃないです。

そして、「普通」の人でも、たとえば泥酔して人に暴言を吐いたり傷つけたりした上に、翌日そのことを覚えても無いようなことを「よくあるお酒の失敗」で片付けてる人たちは嫌いだし、色んな状況や人の表情を見て優しい配慮が出来る人は好きです。

つまり、好きになるのも嫌いになるのも、性カテゴリーよりももっと見るべきことがあるだろ、と思うのです。

 

ラストの海のシーンで、凪沙が「キレイ」と繰り返しているセリフがアドリブだとどこかで見かけました。

真偽はわからないけれど、もし本当にアドリブだったらすごい。。

凪沙の目は視力をほぼ失っていると思われる表現がありました。

その上で、オデットを踊る一果の後ろ姿を見て、敢えて「キレイ」という言葉を言う。

凪沙だったら言うだろうな、という説得力が凄かった。

本当に見えていて、本当に美しくて、本当に幸せだったんだろうな、と。

 

エンドロールの後にうつる一果と凪沙のワンショット。

まるでエル・グレコの受胎告知のような構図で、凪沙はマリア、つまり純血のまま母になったのだと、それを認め告げにきてくれた天使が一果なのだと、勝手に希望を感じられました。

 

凪沙のヘッドセットをつけてオデットを踊る一果の美しいこと。

白鳥の湖は、ハッピーエンドバージョンもあるけれど元はと言えば願いが敵わなかった王子とオデットが湖へ身を投じる哀しい結幕。

凪沙が長い眠りについた時、一果が海へ入り進めるシーンは、まさに白鳥の湖のようでした。

 

凪沙は死んでしまったのか。

一果の海外でのシーンは現実なのか。

はっきりと断言されているわけではないけれど、素直に読み解くなら、凪沙は海でささやかな願いを叶えて亡くなり、一果は凪沙のくれた希望を胸に自分の人生を生きていく。

その姿を永遠に凪沙に届け続けながら。

ということなのだと思います。

まるで凪沙がのりうつったかのような出立ちと佇まいのラストの一果が、そう思わせてくれたんだな。

 

 

 

敢えて強い言葉になりますが誤解を恐れずに言うならば、この作品を観て説明不足だと感じる人には、自身の「人を思いやる想像力」を、「見えない心の機微を掬いとろうとする洞察力」を、少しだけ疑ってほしいなと思います。 

細かい事情までは理解出来なくても、「こうなってしまうようなこと」にはどんな可能性が考えられるのか、「こう出来ている理由」はもしかしてこういう可能性があるんじゃないのか。 

そういう想像力や洞察力で、十分に納得出来る作品だと私は感じました。 

 

実際の自分の人生に置き換えて考えてみてもね、映画や漫画のように「知らない場所で起きていることを見る」ことなんて出来ない。 

その人が、自分の知らないところでどういった戦いや努力をしているかを相手や誰かが説明してくれるわけじゃない。 

だから、こういう映画を観て、「ちゃんと全部状況を説明してくれないと意味がわからない」と切り捨ててしまう人は、それこそがとても怖い感覚なんだと思ってほしい。 

そういった「想像の放棄」こそが、この映画に出てくる様々な人達を傷つけているものそのものなんだと気づいてほしい。 

何様がどこからモノ言ってんだ?って思われる方もいるかもしれませんが、少なくても私は、死ぬまでずっと見えなくてもわからなくても必死で想像する人間でありたいと思っています。 

 

広島弁が気になるって意見もあるみたいで、それについては私も関西人でドラマや映画のおかしな関西弁のせいでのめり込めないことも少なく無いので、気持ちはよーーーーくわかるのだけどね、でも、それだけ「しか」感じられなかった?とは問いたい。

映画として面白く無かったと思うのは全然自由だけど、面白くなくてもいいから、与えられたきっかけから大事なことを今一度改めて考えるくらいのことはする価値があるんじゃないかな。

 

映画という「大衆娯楽」作品で、こんなにも優しく生々しく残酷に考えるきっかけを与えてくれるのなら、それは本当に素晴らしいことだと思うから。

 

長くなりましたが、本当に良い映画でした。

 

未見の方は是非。

私は、自信をもっておすすめします。

少し前、公開前から観たいなと心に決めていた映画「ミッドナイトスワン」を観ました。 

一度目の観賞時、あまりにも胸を打たれ、二度映画館へ足を運びました。 

そして数日後小説も購入し、完読。

その後何日も、今も尚、この映画が私の心に残した余韻と痛みを分析したり、思い出す表情やセリフに何度も心を揺さぶられたりしながら過ごしています。 

 

あらすじは色んなところに書いてあるし、私個人としては、これから観る方にあらすじや前設定を把握してから観ることを薦める理由もとくにないので割愛します。 

 

 

【ネタバレなし:鑑賞前の方も読んでいただけます】 

※次の投稿で別途改めて、ネタバレありで具体的な私の感動を書かせていただきます。 

 

この映画を観て、「感動」する方は少なくないと思います。

「泣く」人も多いはずです。

私も、魂を揺さぶられ涙が出ました。 

でもね、私の中では、よくある「感動的な映画」ではありませんでした。

 

泣ける映画にも色々あるけれど、この映画は、映画としての作品に泣くというよりも、私は主に凪沙(草彅剛さん)に泣かされました。

凪沙の表情、凪沙の想い、凪沙の覚悟、凪沙の優しさ、凪沙の脆さ、凪沙の痛み

そして一果(服部美咲さん)への凪沙の愛全体にたまらなく涙が出ます。

 

一果にとっての凪沙

凪沙にとっての一果

その出会いの大きさのなんたることか。

孤独を持ち寄るとか、互いの傷に共鳴し合うとか、そういうことですらなく、二人が各々違う角度で「愛」というものに初めて出会い、初めてにしてはあまりにも大きく強く濃度のあるそれをうまく消化出来なくて、絶望と希望が混濁した未来へのドアを開いてゆく様を観た、そんな映画でした。

 

自分で認識している性と、他人がその人をカテゴライズする性が一致しない凪沙。 

彼女のようないわゆる「トランスジェンダー」の方たちへの偏見や差別、無意識下で悪気すらない人々の残酷なまでの理解の無さ。 

そういった問題提起をしている作品は昨今少なくないし、役柄としても今や珍しくもなくなってきたように思います。 

 

この作品についても【トランスジェンダーという"難しい"役を演じる草彅さん】、を注目すべき点の筆頭として挙げている記事も多く見かけました。 

実際、自分の中にはまるでない性感覚を演じる、という意味ではとても難しいことなのだろうと素人目にも思います。 

 

だけど、「トランスジェンダー」というのは、例えば「女性」とか「日本人」とか「大人」とか、そういった大枠のカテゴリーでしかなくて、その中にも当たり前に個人のアイデンティティがある以上、「トランスジェンダーを演じる」という表現だけでは、まだどんな人を演じるのか見当がつかないな、と思っていました。

 

なので、私個人の意見としては、草彅さんが「カテゴリーの特性」を演じていたら、ここまで感動しなかったと思います。 

だけど作品の中で生きる凪沙を観て私は、草彅さんが演じたのは「トランスジェンダー」という肩書きではなく、とても優しくて聡明で可愛らしい凪沙という一人の健気な女性なのだと痛いほど感じられたことで、ものすごく心を掴まれました。 

あくまでも凪沙は「凪沙という魅力的な一人の人間」である、と。 

そんな彼女の人生の映画として表現されていたからこそ、魂に響き心揺さぶられたのだと思います。

「男性」「女性」「トランスジェンダー」などの性カテゴリーはあくまでもただのカテゴリー名称で、それぞれに「多くみられる特徴」はあれど、それと個人個人の魅力とは絶対に別物だと思うからです。

 

トランスジェンダーの方々も、「性認識に関する共通の悩みを抱えている」ということ以外は、一人一人それぞれが、優しかったり明るかったり可愛かったり面白かったり、はたまた、嘘つきだったり意地悪だったり短気だったり自己中だったり、当たり前の当たり前にすると思うんです。 

友達になれる人もなれない人も、それこそ性別に関係なく(男女だけでなくLGBTすべて含んで)そんなの一人一人違う。 

 

そんな本来当然のことをちゃんと大前提にした演技だったことが、本当に本当に素敵で、そして凪沙があまりにも魅力的で、あぁ幸せになってほしいな、人間の魅力を感じるにおいて体の性別なんて本当にどうでもいいことなのにな、と心からそう思いました。

 

 

一人の人間としてこんなにも素敵なのに、どうして自分の怠慢でもなんでもないことで、地獄のように苦しまなければならないのか。

 

その理不尽さが、凪沙に与えられる傷と、凪沙が与える膨大な愛の歪なバランスを見ることで、「差別はいけませんよ」「個性を大事に」なんてスローガンを100万回読むよりもずっと重く生々しく本能に響きました。

 

 

又、そんな凪沙に出会い心が動き始める、日常に熱が灯り始める一果の、まるで「希望」を具現化したような輝きも素晴らしかったです。 

絶望という暗闇の中に、突然凪沙という儚い光が差し込み少しずつ重い瞼を開てゆく一果の心情。 

そして今度は自らの輝きで凪沙を照らす、眩いほどの希望の光となる一果の成長。 

ラストへ向かって哀しいほどに対称的に移ろいでゆく二人の光と闇のグラデーションが息苦しいほどに切なく尊いものでした。 

 

 

この映画は観賞後、幸せになれる映画ではありません。 

でも、不思議なことに不幸せになる映画でもありません。 

「あ〜泣けた〜、感動的〜」という感想で終わらせる作品でもないです。 

 

だけど、観て欲しいな。 

一人でも多くの方に観て欲しいです。

 

次の投稿で、ネタバレありのもう少し踏み込んだ私の感想を書きます。

映画を観賞後には、よろしければそちらも読んでいただけると幸いです。

 

 

先日8日、無事に2018年のNAADAワンマンイベントを終えることが出来ました。

 

本当に今回は、最初に企画していたものとはまったく別のゴールを切ることになり、その間には皆様にたくさんのご心配やお手間、不安な想いを与えてしまったと思います。

本当に申し訳ありませんでした。

そして、それでも温かく力強く優しく応援してくださって、本当に本当にありがとうございました!!

 

裏をあまり語りすぎるのは良くないですが、NAADAにとっても年に一度の一大イベントで、今年は色んな意味で紆余曲折、波乱万丈な時間だったので、ライブからイベントへ変更してからの個人的なことだけを少し振り返ろうと思います(*´◡`*)。

 

 

以前から既に、私の喘息同様COARIの背中も本調子ではなかったので、元々去年よりもギター伴奏曲を増やしたり、ベース参加によるアレンジ変更でピアノの割合がかなり軽減される予定ではありました。

とは言え本来は、セットリストの性質上、そして楽器の性質上(ギターはカポを変えたり、ギターもベースもチューニングを変えたり整えたりするのですぐに演奏に入れる曲ばかりではない)、ピアノの締める割合は伴奏や演出上大きなものでした。

 

それをね、急に全部無くしたわけだ 笑。

 

もちろん誤解がないように再度書きますが、COARIは何も悪くないですよ。

中には「体調管理が出来ていなかった」とCOARIを責めるようなことを言う方もいらっしゃいますが、それは違います。

体調管理が結果として至らなかったことは事実ですが、ケアをしていなかったわけでは断じてありません。

むしろ、本人も周りも、これでもかというほど大事にしておりました。

一点の曇りもなく断言出来ます。

それでもね、ダメな時はダメなんです。

どんなに必死でそこに照準を合わせても、どんなに想いが真剣でも、ダメな時はダメなの。

そんな時もあるんです^^

 

だからこそ、COARIが「痛い」と言ってから”ピアノ全カット案”を私とMATSUBOが口にするまで、5分もありませんでした(笑)。

だって、痛いんだもん、仕方がない。

ならば、言っても仕方がないことを言うよりも、皆様に正直に謝罪をして今から出来ることを全力でやるだけだと決断致しました。

 

 

ライブの最後にしたメンバー紹介でも言いましたが、今回一番頑張ってくれたのはMATSUBOです。

 

もちろんみんな各々全力でやりました。

でも、ピアノ伴奏がなくなるということは、その分真正面から負担が増えるのは圧倒的にギターです。

 

去年はCOARIがたくさんの曲数頑張ったので、もともと今年はMATSUBOの演奏曲を増やそうという流れではあったものの、本番1ヶ月前に、ギターだけで演奏する曲・ギターとベースだけで演奏する曲・そもそも演奏する予定になかった曲が大量に増える…などに加え、すべての音源の準備、バランスを整えたり、中には新たに制作したり。

 

普段から、怪我したCOARIと機会音痴な私の分まで、一生懸命一人で準備をしてくれることも多いのですが、イベント当日も機材のセッティングや音響のチェック、MATSUBOはギタリストであって音響スタッフでもなんでもないのに、自分のことを後回しにしてみんなの環境作りを必死でやってくれました。

ほんとうに大変だったと思います。

でも、イライラせず、毎日睡眠時間を削ってでも夜中まで何時間もギター弾いてました。

 

メンバー同士で言うべきことじゃないのは百も承知ですが、言わせて下さい。

本当によく頑張ったね、やっぱりMATSUBOのギターでなきゃだめだ、ありがとう😊

 

 

そして、COARI。

悔しかったと思います。

そりゃあもう、悔しかったでしょう。

感じなくても良いんだけど責任も感じてただろうし、繊細で感情が揺れやすい彼女には辛かったと思います。

でも、ポジティブに楽しもうとした私とMATSUBOの波に一緒に乗ろうと頑張って気持ちを強く持っていました。

 

そして、ライブに来てくださった方はわかると思いますが、こあらPが誕生(笑)。

「COARIが弾けないのなら、今後こんなことでも無い限りやることはないだろうギターと二人の旧NAADAライブをコーナーとしてやっちゃおう!」という案まではサクっと決まったのだけど、ああいう形になったのは私とCOARIの雑談からで、一時は全員で寸劇を繰り広げる案まで発展してました(笑)。

でも、さすがにそれは違う…!と、なんとか気づき帰ってきたの……危なかった(笑)。

でその後、あの形にしようと思う。という確固たる意思表示がCOARIからあり、発案から脚本・BGMも一人で作ってきて、そりゃ爆笑ですよ、こっちは(笑)。

 

そして、COARIがピアノを奪われたことで「私もやりたい!みんなずるい!」と不機嫌になるので、「じゃ〜あその願いを叶えてやるよ😏」ということでデュエット誕生ドキドキ

注意MATSUBOとMITSURU君完全にとばっちり

 

「ヤダヤダそういうことじゃないーーー><」とだだこねてましたが、やらせました。

はっはー!!だだこねるからだ!笑

 

でもね、やっぱりピアノが弾けようが弾けまいがCOARIもNAADAなので、イベントを同じ温度の想い出となるよう一緒に作りたかったんです。

いや、これは真剣に。

振り返った時、あの年は自分は殆ど何もしてないしなーってなるの寂しいから。

だから、こうして誰がどう見てもCOARIも一緒にステージに存在していたイベントに出来て幸せです!

笑ってもらえて良かったね、COARI😊

次こそはメカCOARIじゃないCOARIと一緒に歌いたいぜ!NAADA自慢のピアノ、聴いてもらおうな😉

 

 

そして私事も少しだけ。

私もね、実は大概すごいことになっておりました(笑)。

喘息は夏頃から荒れ狂うし、秋には救急車で運ばれるし、本番前1ヶ月近くまともにご飯も食べれず、本番2週間前には軽い胃潰瘍にもなり、強烈な点滴のお世話にもなり、車椅子乗りながら吐き、あぁ〜ホント面白かった!笑

でも頑張ってくれましたよ、喉さんが。

あたしゃ感激だよ、喉さん、ありがとうな。。

 

去年最後の曲の前に咳き込んでしまったのが悔しくて悔しくて、全体的に枯れ気味だったのが悔しくて悔しくて。

今年の、なんでもかんでもやれることはやってやるメラメラという取り憑かれたようなケアとしつこい病院通いは自分でも楽しかったです(笑)。

その甲斐あってか、たまたまかわかりませんが、本番は最後まで無事歌い切ることが出来ました。

良かった〜〜〜><

 

COARIが弾けない上に私まで歌えない…となるわけにはどうしてもいかなかったので、プレッシャーはそれなりにモリモリだったのですが、メンタルの強さにだけは池上君並みに定評のある私(笑)。

体にはいろいろ出てましたが(笑、その割には落ち込むことも荒れることもなく、メンバーと楽しくリハを重ね準備を進めてまいりました。

楽しかった^^

 

 

ステージからね、見てました。

皆様のこと。

 

泣いてくれてありがとう。

笑ってくれてありがとう。

目を閉じてくれてありがとう。

見つめてくれてありがとう。

口ずさんでくれてありがとう。

拍手、手拍子をありがとう。

突っ込んでくれてありがとう。

照れてくれてありがとう。

全部、見てたよ。

全部、嬉しかったです。

 

機材トラブルもあったし、思うようにいかなかったこともたくさんありました。

でも、来て下さった皆様が柔らかい空気でいてくれたので、焦らず落ち着いて楽しむことが出来ました。

 

終わってからも。

楽しかったと言ってくれた方

号泣してくれてた方

来年もやってほしいと言ってくれた方

投げ銭を下さった方

差し入れを下さった方

CDやパンフレットを買ってくれた方

握手してもハグしても足りないくらい嬉しかったです。

心の底からありがとう。

 

次こそは、メンバーみんなが健康でありますように(笑)。

 

そして、来てくださる方も、来れなくても応援して下さっている方(届いてますよ、お気持ち!!)も、みんなが笑顔になって力を抜いて安心した時間を過ごしてくれるような場や音楽を作れるように、NAADA頑張ります。

 

 

そして最後になりましたが、今回ベースで参加してくれたMITSURU君。

そして、真心のある優秀なるスタッフ。

彼、彼女らの協力なくしてあのステージは完成しませんでした。

MITSURU君はステージ上で音で存在で仲間として、スタッフはバックヤードで、全力でNAADAをサポートしてくれました。

本当に心強かったよ、ありがとう。

 

またこのメンバーで、また皆様と、また音楽を通じて同じ感動を共有出来ますように。

 

 

本当にありがとうございました。

やっぱりNAADAは幸せです

れぱひわこあらとらラブラブ

 

 

RECO

いつも温かい応援ありがとうございます、NAADAボーカルRECOです。

本日は、2018年のワンマンライブについて皆様に大変重要なお詫びとご説明がございます。

長文になりますが、誠心誠意責任を持って綴らせていただきますので、よろしければ最後までお付き合い下さい。

 

既に動画ではご説明いたしましたが、結論から申し上げますと今年のワンマン「ライブ」は中止とさせていただくこととなりました。(開催自体はございます。本文続きでご確認下さい。)

理由は、ピアノCOARIの首から背中にかけての痛みが急激に悪化したことです。

 

動画内で本人が少しお話しておりますが、彼女は去年の年末頃から背中を痛めており、たくさんの病院や整体などに通い調べたり対処療法を施したりしておりました。

ですが、明確な原因にまで辿り着けずもどかしい思いを抱えながらも、日々の生活や音楽活動の中で背中に負担のかからないよう本人も周りの人間も細心の注意をはらいケアをし続けておりました。

毎週更新しているカバー動画についても決して無理はせず、それぞれが調子の良い日にレコーディングをしたり、急げばすぐに完成させることも可能な作品であっても、メンバー各々のコンディションを最優先して見送った作品や延期した作品なども、水面下では山のようにございます。

 

NAADAはワンマンライブを開催し始めてから、基本的にライブが年に一度のワンマンのみというスタイルになりました。

毎週の動画制作以外にも、メンバー全員がしっかりと仕事も抱え、生活もあり、そして今年はオリジナル曲のレコーディングに向けたリアレンジやプリプロもありましたのでとてつもなく多忙な中、この「年に一度のライブ」に一年分の想い、成長、楽曲のすべてを込めてお届けするべく、時間をしっかりとかけて構成を練ったり準備を進めたりしておりました。

 

NAADAは私も含め、全員が「自分が無理をしていることに気づかない」タイプであり、自らの意思で休んだり手を抜いたりすることが基本的にとても苦手です。

それをお互いわかっているので、誰かが調子の悪い時・忙しすぎる時などは、残る二人が悪役をかって出てでも止めるという形で統制をとっていると言っても過言ではありません。

 

コアリの背中につきましても、ピアノ演奏だけではなく撮影やリハーサルの搬入・設営・片付けはもちろん、普段の生活の中における家事や買い物に至るまで、背中に負担のかかる作業は一切やらせないよう、今振り返っても後悔のないケアをし続けていたと自負しております。

そして彼女自身もその気持ちを無駄にすることのないよう、頑張ってアレコレと良くなる方法を調べては実践し、病院でもしっかりと検査をし、薬の服用、寝具、姿勢、あらゆる方向性で改善をはかり続けていました。

 

ですが、先週あたりから急激に痛みが増したようで、昨朝ついに一曲弾ききれないほどの痛みまで悪化してしまいました。

急激に寒くなったせいなのか、咳喘息も併発していた為の負担なのか、それとも練習のしすぎなのか、たまたまどうすることもできない原因が他にあったのか、それら全部なのか。

明確な原因も、はっきりとした病名も、改善策も、現段階ではわかりません。

もちろん痛みが出てすぐに再度別の病院にも行き、検査もした上でのお話です。

 

とは言え、私個人の気持ちとしては、一番心配していた神経や頚椎の損傷ではないということだけでもハッキリとわかったことが不幸中の幸いだと思っております。

皆様の楽しみにしてくださっていたお気持ちを考えると、「良かった」などとは決して言えず思えずではありますが、ピアニスト・コアリのこれからの人生、活動を考えると、やはりそういった致命的な損傷ではなかったことについてだけは心からの安堵を真っ先に感じました。

 

明け方レコーディングをしていたスタジオから出てきて、真っ先に私に「一曲弾ききれないくらい痛い」と話してくれたことを、本当にありがたいと思っています。

そこで無理をして弾き続けたり、明け方だからと遠慮して黙っていたり、ライブ前だからと怖気づいて隠したり、そういった可能性を考えると恐ろしい。

私やマツボに対し、心から安心と信頼をもって報告してくれたことをメンバーとして誇りに思います。

 

そして、そこからすぐに全員で会議をしました。

本番まで残り一ヶ月あります。

良くなるかもしれない。

でも、今の構成のままお金をいただいて演奏をするのなら、引き続き相応の練習は必須だし「痛いから適当に弾きます」というワケにはいきません。

そうなると、きっと、「良くならなかったらどうしよう」「間に合わなかったらどうしよう」と、本番までの一ヶ月間コアリがずっと不安と戦うことが目に見えていました。

私も喘息の状態が一進一退でライブを迎えたことがある身なので、その不安や焦りは痛いほどわかります。

私自身の喘息も現在はコントロールが出来ていても、去年同様本番でどうなるか不安がないと言えば嘘になります。

 

その精神状態で本番を迎えさせることが果たして正解なのか。

しかも、その上結局良くならず弾けなかったら、それが直前に判断された場合のことを考えたら。

でも、お客様のこと、サポートしてくれる充くんのこと、多角的な意味で準備を進めてきたという事実、何度も重ねてきたリハーサルや打ち合わせ、色々な現実を考えてコアリ自身には下せないであろう『一切演奏しない』という決断を、私とマツボから提案させて頂きました。


そして、元々ギターとボーカルのユニットから始まったNAADAが、ピアノが弾けないだけでなぜ『ライブ中止』という表現になるのか。

この点についてもご説明しようと思います。


正直なところ、今回のイベントは、ピアノ以外の3人は演奏をする気でおります。

ピアノ主体の曲は大幅にアレンジから考える必要があるし、物理的にギターやベースでは弾くことの出来ないフレーズや曲も沢山あります。

だけど、全編トークイベントにする気も、握手会やサイン会のような形をとることも考えていません。

私達には、残念ながらアイドルのような魅力はございませんので(笑、会えるだけで満足してもらえるとは考えておりません。

音楽を演奏してナンボだと思っています。


もちろん、コアリと出逢う前からギターとベースだけで今まで数えきれない場数のライブをしてきましたし、作品としてもギターと歌だけで完成型の楽曲も存在します。

そういった曲については、コアリ加入後の今でも自信も誇りも萎むことなく演奏出来ますし、する予定です。


だとしても、長い時間をかけて何度もリハを積み重ねて練っていた今回のセットリストをピアノ無しでそのまま再現することは出来ない。

コアリのピアノソロや予定していたインスト楽曲を代わりに弾いてあげることは出来ない。

今ある企画としての『ワンマンライブ』は、コアリのピアノもあるというのが前提での構成であり、誰が欠けても無理です。


ほかのピアニストをサポートに迎えて演奏する選択肢も世間的にはあるのかもしれませんが、うちにはありません。

『コアリの』ピアノと『マツボの』ギターがあってのNAADAとして、活動・制作してきましたので、今から新しい方を迎えてライブをしても、それはNAADAのステージにはならない。

それなら、充くんと力を合わせて、残ったメンバーで"NAADAのステージ"をやります。

コアリにも、ステージに立ちいつもと同じく共にNAADAの世界を作ることに全力を注がせます。

彼女自身が一番その想いは熱いと思います。


それでもね、事実、編成は欠け、それによってこれから一カ月弱で組み直した未熟な構成やアレンジも覚悟の上でのライブになります。

なので、そういった意味で、『チケット料金を予定通りいただくライブ』は『中止』としました。


ですが、ステージにはNAADAとして立ちます。

なのでもし、ご来場下さった皆様がその演奏やステージを楽しむことが出来たら、お気持ちに応じた投げ銭で応援していただけると嬉しいです。

最低額も、支払う義務もまったくありません。

本当に、お気持ちに沿ってのご支援で結構です。

払わないのは気まずいから行くのやめようとは思わないで下さい。


もう今回は派手~に赤字です!笑

そんなことはとっくに腹くくってますし、コアリの健康と比べたら屁でもないことです。

だから、そこにがめつい気持ちは誰一人として微塵もありません。


ただ、充くんというプロのベーシストも加え、NAADAも全員ミュージシャンとして本番のステージに立ちます。

なので、そのステージ自体に対しては卑屈になるつもりもありません。

満足してもらえる演奏が出来るよう、残りの時間で全力で企画、練習をします。

だから、もし楽しんでいただけたら投げ銭して下さい☺️


そして、コアリには、本人が気にせず心から安心して休めるよう、逆にピアノ以外の体に負担のない方法でたっぷりお仕事を与えようと思ってます 笑。

必死で頑張るコアリと、これから目を炎にして取り組む残りの3人に、もし少しでも興味を持っていただけるなら、当日ぜひ会場にお越しください。


気負いすぎて共倒れしていては意味がないので、適度に(笑、でも頭をたくさん費やして企画しますので、ぜひ一緒に楽しんでください!

むしろ、この機会です。

やってほしいことがあったら、どんどんアイデア下さい☺️


最後になりましたが、この度の決断につきまして、楽しみにして下さっていた皆様には心からお詫び申し上げます。

そんな中、既に方々の皆様から、コアリに対する温かいご理解やお言葉をいただいており、メンバーとしても感謝しかございません。

本当にありがとうございます。

そのお気持ちに少しでも応えるべく、ワンマンイベントの内容を最高に楽しいものに仕上げられるよう全力で取り組みたいと思います!!


NAADAワンマンイベント

2018.12.08 土曜日

西新宿 ガルバホール

開場 15:00

開演 16:00

出演 NAADA全員、ベース充

料金 無料(お気持ちに沿ってご満足いただけた場合のみ投げ銭をいただければ幸いです)

物販 先行CDは発売中止のため、現在は未定

実演時間 企画中のため未定

その他、ご質問などありましたらメンバーの各種SNSアカウント、及びオフィシャルメールなどをご活用下さい

既にご購入下さったワンマンライブチケットのご返金につきましては、決まり次第追ってご案内させて頂きます。

naada.jp