お久しぶりです、RECOです。

本日は、今月22日に開催を予定しておりましたNAADAのライブ中止のお知らせと、その判断にいたった基本的な私のコロナに対する考え方を綴ろうと思います。

 

まずは何よりも、今回のライブ中止について、快く応じてくださった会場スチュ・サトクリフの店長、そして決断を受け入れてくださったお客様に心から感謝申し上げます。

また皆さんに、全力で音楽に集中することの出来る環境でのステージをご覧いただける日を、私共も切望しております。

 

コロナでライブができなくなったのは今回で2回目ですが、この度も残念なお知らせとなってしまい、私自身大変心苦しく寂しい気持ちでいっぱいです。

前回のライブで初出しした新曲も、前よりももっと自分たちの解釈が深まり体に馴染み、楽曲と時間を共に過ごすことでしか得られない類の親密性が深まっていたし、懐かしいあの曲を新鮮な形で聴いていただこうか、などなど色んなアイデアに心躍らせて、楽しみにしていました。

やりたかったです。

 

ライブ中止を決定せざるを得ないと判断した後すぐに、公表よりも先にまずは既にご予約下さっていた方全員にメールをお送りいたしました。

温かいご返答をいただくことが多く、次に開催できた時にはきっと待ってて良かったと感じていただけるライブにしようとより強く感じたものです。

 

ただそれと同時に、当然と言えば当然なのですが、この判断に多少の不満を感じる返事もいただきました。

そこで今まではっきりとコロナに対する私の考え方を発信したことがなかったのですが(明確な意思の下、発信せずにおりました)、一度きちんと文章にまとめてみようという考えに至り、こうしてしたためております。

 

コロナについて、本当に様々な捉え方・向き合い方があり、どう付き合うか途中までは各々の自由だと私は考えています。

「途中まで」は。

 

先に私自身の考え方を書きますと、私は「コロナは風邪ではない」「非常に怖い」「かかりたくないし、自身が媒介して誰かを危険な目に遭わせたく無い」です。

私は喘息も持っている上、パートはボーカルです。

ボーカリストは、ノーマスクで長時間閉鎖的な空間の中で大きく息を吸ったり吐いたりを繰り返します。

マイクガードをしていても、直前の抗原検査で陰性でも、危険性がゼロになることはない以上、最も配慮しなければならないパートであり、同時に、最も命がけのパートでもあります。

 

ドームやアリーナで開催される、ステージと客席が到底空気の混じることのない距離が保たれているライブならいざ知らず、一般的なライブハウスのキャパシティー以下の空間でボーカルライブをやることについて、どういう判断を下すのが正解なのか、ライブ中止に不満を感じた方に私は逆に問いたいです。

残念に感じていただけることは光栄ですし嬉しいです。

私だって残念ですから。

でも、「不満」や「納得いかない」という種類の感情を向けられることには、こちらこそ違和感しかありません。

 

今感染し重症化しても、高い確率で受け入れてもらえる病床がないかもしれません。

それを知らない方はいないのではないでしょうか。

その上で、狭い空間で長時間ノーマスクで息を吸えと言われることは、大袈裟ではなく「死ぬ覚悟で歌え」と言われているのと同じだと考えております。

 

「コロナはただの風邪だ、大袈裟に騒ぎ過ぎだ」

そう思うのは自由です。

だけど自由なのは、「そう思う」ことまでだと思うのです。

 

自分はコロナを気にしてないから周りがうるさいからマスクはするけど付け方なんか適当でいいし、内容問わずイベントにもどんどん行くし、外で気軽に酔っぱらうぜ!って方は、世界に「同じ考え方の方々」と「コロナ」しか存在しないところへ行っていただきたい。

少なくても今この世界には、コロナにかかったら死んでしまうかもしれない人も存在しています。

その人がどれだけ頑張って自衛していても、どこでどんな形で感染させられてしまうかわからない。

お互い全力で対策をした上で感染してしまったのなら加害者はいませんが、「自分は気にしなーい」と言ってゆるゆるの感染対策で出歩いていた人に、もし自分の大切な人が感染させられたら、私はそいつを許しません。

 

さらに、「気にしない」「ただの風邪」と言っている(そういう行動をしている)人に対し、声を大にして言いたいのは、もしかかって呼吸困難になっても、入院も酸素マスクも求めるなよ?ということ。

昼夜を問わず必死で命を救ってくれてる医療従事者の方の「お願いだから避けられる不特定多数の集まりなら避けて」という声も、「コロナは風邪じゃないんです」という声も無視して、自分が信じたい都合の良い説や話だけを信じ好き放題していた結果感染したのなら、それはもう足りない酸素マスクや病床を割いてもらう権利はないと思います。

 

強すぎる言い方かもしれないし、攻撃的な思考だと感じられてしまうかもしれないけれど、逆に私にとっては、今の状況でライブをやらないことを不満だと言われることは、もの凄い攻撃的な言葉を受けていることになります。

「君は死ぬかもしれないけど、楽しみにしてた人もいるんだし、そんなこと気にしてたらこの先いつライブ出来るようになるかもわからないし、お店や業界が死んでしまうかもしれないのに自分勝手だね」と言われている気分になるからです。

というか、実際そう言われていることになります。

 

楽しみにしていた人もいる・・・そんなことは誰よりもわかってます。

その方達にどんだけ聴いてほしかったか、逆にわかりますか?

 

いつライブ出来るようになるかわからない・・・そうですね、わからないけど、少なくても今は絶対に違うと思ったのです。

 

お店や業界のため・・・何も考えず自分の身だけを守ってこの判断をしているわけじゃありません。

正直な話、お店やプレイヤーの活動存続に必要なのは、スタッフやプレイヤー自身の身の安全と、生活や経営を継続してくためのお金と、通常営業を再開した際に応援してくれるお客様の存在だと思っています。

私はお客様から見ればプレイヤー側、お店から見れば客側の立場ですが、お客様の「聴ける日を心待ちにしてます」という言葉に支えられ、お店には必要ならクラウドファンディング等もしたいと申し出ました。

オーナーの男気で断られてしまいましたが、私は心からお店を応援しているし、営業を存続していくために困るくらいなら喜んで協力したいと思っています。

でもそれは「今出演して大声を出すこと」ではない。

ただそれだけです。

 

 

前回のライブの時は、既にコロナではありましたが、あの時より今はさらに感染者数も変異株も大きな問題になってしまいました。

 

私は、私自身も、メンバーも、お店のスタッフさんも、そして来てくださるお客様にも、私たちのライブで危険な目に合わせるきっかけを増やしたくない。

今ライブをしないと金銭的に生活できないのなら、私は違う仕事で繋ぎます。

選り好みしなければ求人だってあります。

そのやり方を、ミュージシャンとしてプライドがないと捉える人もいるかもしれないけど、音楽以外の仕事をすることでしか得られない体験や価値観、センスや発見を音楽に活かせない人の方が、ミュージシャンとして浅はかだなとすら思っています(これはコロナに関係なく常に思ってます)。

誤解しないでいただきたいのは、音楽だけで生きている人を否定してるのではなく、音楽以外の仕事をすることがミュージシャンの威信に関わることでは無いと考えているという話です。

 

少なくても私は、今回のライブ中止に対して「申し訳ない」という気持ちはありません。

何ひとつ後ろめたい気持ちは無い。

残念だし、悔しいし、寂しいし、聴いてほしかったし、お店を盛り上げたい気持ちも、お客様の笑顔を見たい気持ちも、ライブの感想を聴いたり、久しぶりに少しお話したりしたかった気持ちも全部全部本音だけど、「中止したことは私たちだけのための自分勝手な判断だ」とだけは思ってないです。

 

ワクチンを打った方も、待っている方も、打たないつもりの方もいると思います。

これについては、私は完全に個人の自由だと考えていますし、打つ・打たないどちらがハイリスクなのかもわからないと認識しています。

 

マスクをできない基礎疾患を持っている方や、どうしてもマスクを日常的に付けられない方もいるでしょう。

その方々を責める気持ちも一切ありません。

 

消毒したら手が荒れてしまう方、こまめに手を洗うことが難しい職業、本当に色々な事情や立場があります。

 

そういった方々と、「全部別に可能だけどやりたくないだけ」の人たちは一緒じゃない。

やりたくないの理由も、「別に気にしてない」や、もっと言うなら「自分はいつ死んでもかまわないから好きにやりたい」という方も見かけますが、その人がいつ死ぬかは確かに自由ですし止めませんが、死にたくない方に媒介してしまうことを自由の中に含めないでほしい、それだけです。

 

どこまで考えて自由を主張してるのか。

 

本当にちゃんと飲食している間はしゃべらず、食べ終わったらすぐにマスクをつけてから小さな声で会話をする。

こまめに手を洗い、体調に違和感がある人は外出を控え、飲酒などの自制心が緩むことは外では慎む、飛沫が飛ぶような大声や近距離での接触は出来るだけ避ける。

こういった基本的なことを全員が徹底していれば、ここまで悪化することはなかったかもしれません。

 

個人の価値観で「自分は気にしない」人たちが、このうざったいコロナ渦を長引かせて、応援したい店や業界を追い込んでいるのではないの?と思うのです。

 

私は早く終わらせたい。

早く元どおり、「演奏に集中出来るライブ」がやりたい。

コーラスも入れて、全力の大声を出して歌えるライブがやりたいです。

だから、今は我慢してるんです。

 

どういう考え方をするのかは自由だけど、邪魔と攻撃的な否定だけはしないでほしい。

それはあなたの自由ではない、と言いたい。

あなたの自由に邪魔されて、どんどん元の生活が遠のいている、その間に潰れてしまう店や業界や店員や演者や色んな業種立場の人たちがいる。

応援しているようで、遠回しに追い込んでいないか、一度考えてほしい。

 

こんなことを書くと、店に人が行かなくなる現象を助長する懸念もあります。

そうではなくて、上に書いたような対策をしっかりとして、自分も周りも守りながら行ってほしいというだけです。

そして私の中で、「ボーカルライブ」はその対策の輪を逸脱していると判断したので、中止にしました。

 

ライブハウス界隈での感染の話も、日増しに耳にします。

でも必ずしも感染してしまった方が、ゆるゆる対策しかしていなかったわけではないと思うんです。

むしろ人一倍気をつけてた方もいるかもしれない。

だけど、誰がどんな形で媒介してしまうかわからないのがウイルスです。

人を集めるということには、そのリスクと責任がつきまとう。

その中で、特にボーカルは別格にハイリスクだと思うのです。

 

私は、今ライブで歌うのが怖い。

自分の感染も、誰かに感染させてしまうことも、NAADAのために集まってくれた場で感染が起こってしまう可能性も、怖いんです。

それは「今」歌えないことよりも、ずっと重要で、どうしても軽視できない感情なんです。

 

 

長くなりましたが、これが私個人の率直な気持ちです。

NAADAとしては概ね全員この方向ではありますが、細かい価値観や感情の温度は、3人それぞれ違います。

あくまでもこの文章は「私の」思いであるということを断言させてください。

 

また、思いのすべてを書き切ることはできないので、言葉足らずや表現不足のせいで意図せず誰かを傷つけてしまっていたらごめんなさい。

これは自分と違う意見を否定したいという文章ではなくて、「否定されたくない」という側の思いが主旨となっています。

万人に共感されたいわけではありませんが、共感は出来なくてもこういう思いで下した判断だということ、そして、こうして頑張って我慢しながら過ごしている人間もいること、そういう人間が今ライブをやっている人たちと比べて音楽への想いが弱いわけでは決してないということはご理解いただきたい。

 

私は医療関係者でも学者でもないので、この先また新たな情報や移り変わる状況次第で、違った考え方や意見になっていく可能性もあると思います。

 

ただ、今の素直な気持ちはこれです。

 

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

(長かったでしょうに・・・・。)

 

「配信ライブしてほしい」「残念だけど待ってる」などのご意見、きちんとすべて胸の真ん中に受け止めています^^

ありがとう。

本当に嬉しいです。

中止の決断をして、しょんぼりしていた心に優しく響きました。

 

こう見えて毎日活動してるんです、NAADA。

ちょっとまだ伝わりづらい時期ですが、ちゃんと動いてますからね^^

いつかまた全力のライブを楽しんでいただける日のために、精進してまいります!

 

みなさまもどうかどうか気をつけてくださいね。

 

 

RECO

昨日は、先週新しく開店したばかりの「Public bar Stu.Sutcliff」という本当に素敵なお店で、正式な形としては3年以上ぶりのNAADAライブをさせていただきました。

 

来て下さった方、呼んで下さったオーナー様、来れなくても応援してくれたみなさま、本当にありがとうございました。

大切なことは歌とMCですべて伝えられたので、ここに多くは書きませんが、本当に幸せな夜でした。

心からありがとう。

昨日の時間が、来てくれた方の人生の中でほんの少しでも光になれば嬉しいです。

 

今回のライブで発表した新曲3曲の歌詞を、期間限定で公開させていただきます^^

ただ、私のポリシーでNAADAのオリジナルの歌詞はネットに公開していないので、無断転用はご遠慮下さい。

(悪意の有無にかかわらず禁止とさせていただきます。)

今週の日曜日までの公開に留めますのが、よろしければぜひご一読ください(*´◡`*)

 

演奏を聞いてくださった方は、その記憶と共に、まだ曲をお聴きいただいてない方は、どんな曲なのか想像しながら楽しんでいただけると嬉しいです。

 

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『スクラッチには五線譜を』

 

光を吸い込んだカーテンが

歪な世界の色調を少しだけ和らげ る

 

誰かの正義論は まるでアイスクリーム

誰かの熱で すぐに溶けて形を変える

 

耳朶うつ棘に 心壊されてしまわぬように

流れる音を捕まえるように顔を上げた

ららら

 

 

当たり前のスペクトラムだけが

遠き日々の心を温める想い出になるのなら

 

見慣れぬ景色さえ日常に変えてくれる君に

僕は歌いたい

ららら

 

 

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『まほうのキーライト』

 

ほら口笛 ひとつ吹いて

タララ おまじない唱えよう

「ちちんぷいぷい」

お次はなぁに?

ペラッ 魔法の本開いて

 

涙ひと粒、七色の羽、まぼろしの花の種ふたつ…

...集まらないわ

ニワトリの羽、ひまわりの種でいっか!

 

大事なのはきっと信じることよ

それが最高の魔法

 

やってみたら きっとわかるはずよ

騙されたと思って

 

 

エスキースを重ねて

ずっと完成しないスケッチに

悲しくなって 不安になって

頑張れなくなったら

 

思い出して 

「ちちんぷいぷい」 

ひとまず一緒に歌ってさ!

お茶でも飲んで 本でも読んで

ダラダラしたらいいさ

 

大事なのはきっと夢みることよ

それが最高の力

 

やれる時はやって

たまにサボって

飴と鞭と飴で、どう?

 

 

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『アンフォルメル』

 

What way did I love art?

I lost my heart.

How did i move my heart?

I don’t know that.

 

少し疲れたね

どうしようもなくて

寝ても寝ても休まらないみたいだ

 

 

無理に笑うのも 無理に尖るのも

同じくらい無意味なことなんだろう

 

諦められたら 少しは楽になれるね

それが出来たらいいのにな

 

 

正論に息切れ

だけど”悪”は嫌いで

青臭い希望を まだ捨てられなくて

 

割り切ってみたり

割り切れなくなったり

ゆらゆら揺れる水面

 

 

 

楽しめないのは不思議なことじゃないから

自ら選ばなくてもちゃんといつかは終わるから

掠れてくぐもった煌きを

鼓動を

ただ、見つめていようよ

 

 

 

きっといつか急に風が吹く

どうでもいいやと霧が晴れる

 

心の方から迎えに来るさ

君が、私が、何度目を背けても

 

Art never blame you

 

 

 

 

 

 

 

映画「ミッドナイトスワン」について

前回の投稿では、ネタバレなしでこれから一人でも多くの方におすすめしたい私の気持ちを綴りました。

 

今回は、思いっきりネタバレしながら、私の観賞後の素直な感想を書こうと思います。

 

【ネタバレしまくります:ご注意を】

 

 

まずはなんといっても作中とくに私が心揺さぶられたシーンから語りたいと思います。

 

たくさんあるんだけど、まず一番最初に心が張り裂けそうになったのは、凪沙の働くお店で泥酔したお客が騒ぎを起こした日。

バレエを踊る一果を初めて見たときの、凪沙の表情でした。

 

演者を含めた店のスタッフがみんな騒ぐ酔っ払いのもとへ出払い、空になったステージで、普段着のまま自由に舞う一果。

その姿は、まるでそこだけが異空間かのように美しく時がゆっくりと動いているかのような神々しささえある光景で、騒いでいた客までもが目を奪われるような輝きを放っていて。

それまで「踊る一果」を見たことがなかった凪沙が、初めて一果のバレエを見るという重要なシーンなわけだけど。。

 

ステージを振り返って、一果を見つめる凪沙の目。

かなり長尺で、凪沙の顔のアップが映されるのだけど、ほんっとうにすごい表情をしていて、私は一気に涙が出ました。

セリフは一言もない、涙も流してない、笑いかけることも、何もしてないんだけどね、なにもかもが伝わってくるかのようでした。

 

初めて目にした幸せそうな一果の姿に対する驚きととまどい

圧倒的であり根本的な、神様から贈られたものの違いをつきつけられた絶望

あまりの美しさに対する羨望と純粋な憧れ

一果の未来の可能性に見た一筋の希望

神聖な加護欲にも近い強烈な母性

 

そういった様々な感情が入り乱れ、おそらく凪沙にとって人生で最大の生きがいに出会った瞬間の目、のように見えました。

 

その日を境に、恋愛でも自己愛でも人間愛ですらない、得体の知れない強い愛に飲み込まれながら一果への母性を募らせていく凪沙の、健気で美しい絶望への道。

たまらなかったです。

 

夜に一果の練習に付き合い階段に座っている凪沙の、黙って一果を見守る眼差し

一果のコンクールを客席で見守る凪沙の、楽しみよりも緊張と心配が上回った表情

劇中で見せるさりげない仕草やささやかな表情すべてが、愛する我が子を見る母親のそれでしかありませんでした。

 

 

凪沙という女性は、どういう人なのか。

少ない稼ぎで住んでいる家は、新しくも綺麗でもない殺風景な建物で、だけどそんな中でも可愛らしい小物が置かれ、水槽は綺麗に保たれ、玄関には良い夢だけを通してくれるドリームキャッチャーが飾られていて。

加湿器やパックでお肌をケアしていたり、部屋着やヘアバンドも可愛らしかったり。

一果と打ち解けてからも、ハニージンジャーソテーのお肉が一果の方が大きかったり、野菜を食べるよう促したり。

公園でオデットの話をした男性に、踊りが上手だねお嬢さん方と褒められた時のはにかむような表情と、面識のない男性が近づくことから無意識に一果を守るように自然と身を寄せる仕草。

親友の瑞貴が苦しんでいたら、決して裕福ではないはずの自分のお金を工面したり、信頼関係が築ける前の一果を迎え入れた当初から丸見えのガラス瓶にお金を溜めていたり。

 

決して明るくみんなを牽引していくタイプではないけれど、ささやかな日常の中でかわいいものや綺麗なものに心踊らせる愛らしい女性であり、たくさん傷ついてきたはずなのに人を信じる気持ちが残るピュアな人間性が垣間見れるようでした。

 

だからこそ、そんな優しい凪沙が、一果への母性に狂い溺れていく様と、世間や本来一番の味方でいてほしいはずの家族や地元から、強い拒絶を受け心がボロボロになっていくことが辛かった。

そして、そうなることがわかっているからこそ、長年地元には帰らず自身の悩みをカミングアウトしなかった凪沙が、一果のためにすべてを曝け出し、決死の覚悟で迎えにいったことの重みが伝わってきました。

 

そしてその一世一代の覚悟が実を結ばなかった凪沙が、次に一果が戻るあの日までの間、どのような時間をどのような気持ちで過ごしていたのか、何の説明がなくとも想像するだけで苦しく辛い。

どうして要介護になったのか。

「サボっちゃった」という言葉しか説明はなかったけれど、大きな手術の後、適切なケアを続けなければ深刻な事態になることくらいわかります。

性転換手術の詳細がわからなくても、体の性別を変える大掛かりな手術が、退院したらあとは普段通りの生活に戻れるような手術じゃないことくらい想像出来るわけだから。

一果の母になるために、凪沙はお金も覚悟も人生もすべてを捧げるために地元に帰ったことを考えると、あの日一人で東京へ戻る道中の凪沙の気持ちを考えると本当に哀しい。

 

もちろん早織が実の母親である事実は変えられないし、早織は早織なりに一果を愛し大事にしていることもわかります。

引き離すことが正解なのかは誰にもわからないけれど、少なくとも、早織が凪沙に対してとった言動は人として間違っていると私は思いました。

我が子を盗られる焦燥感がそうさせたのだとしても、なぜ一果が一度自分の手元を離れることになったのか、その間一果を育ててくれていたのは誰なのか。

そして、一果の可能性を見つけてくれたのは、一果の腕に傷に気づいていたのは、誰だったのか。

その人がトランスジェンダーだった、ただそれだけのことで、感謝より反省より攻撃を優先して良い理由などどこにもなく、自分を守るためだけに早織が吐いた「バケモノ」という言葉は、私に一果は凪沙に育ててほしいと思わせるには十分すぎる発言でした。

 

あれだけ綺麗だった凪沙の部屋が、一果が戻る頃にはゴミと血だらけのオムツ、悪臭で埋まっていたこと。

かわいい部屋着を着て、パックをして、水槽にエサをあげていた凪沙が、血の滲んだオムツを数日間履き続け、ボランティアの方の介護を受けなければ生活出来なくなっていたこと。

凪沙がもし、女性の体で生まれてきていたら、そうでないなら、男性の心で生まれてきていたら、こんな景色は無かったのかと思うとやるせない。

 

もし、あれを見て、「ケアさぼるからでしょ」としか思えない人がいるのなら、とても心の寂しい人だと思います。

わからないことは罪ではないけれど、わかろうともしないことは罪だと思うからです。

 

凪沙が前半で泣きながら繰り返す「なんで私だけ?」という言葉。

LGBTQにかかわらず、若くして重い病気やハンデを背負った人や、血の滲むような努力が報われず心をボロボロに傷つけられたことがある人は、必ず頭をよぎったことのある言葉だと思います。

本当に、なんでその人なのだろう。

「だけ」ではなくても、なぜ、彼が彼女がこんな目にあわなければならないのか?と端からみても納得出来ない、魅力的な人達が傷つく姿を見ることがあります。

聖人君子じゃなくたって、天使じゃなくたって、そんなに傷つく必要ない。

ハンデや病気は変えられないけれど、そのせいで生まれる不必要な差別や二次災害はゼロに出来るのではないか。

そこを考えるべきだと思うし、そのきっかけを与えてくれる映画だと思うのです。

 

私は異性が恋愛対象の女性です。

いわゆる、「普通」なんだと思います。

だからもし、女性から恋愛を求められたとしたら同じ気持ちを返すことは出来ない。

だけど、男性から恋愛を求められたとしても、意中の男性以外の方の気持ちには応えられない。

それと同じ気持ちでお断りする、ただそれだけです。

好きになった人の恋愛対象が同性の男性だったとしても同じで、両思いになれなかったから諦めるしかない、ただそれだけ。

同性愛思考の方だから断っているわけではなく、両思いになれる相手ではなかったから断る、という普通のプロセスを踏んでいるだけです。

それは仕方がないことだと思います。

LGの方々が「同性」しか恋愛対象に出来ないのと同じだから。

だけど、気持ち悪いとかおかしいとかそんなことは思いません。

本当に微塵も思わない。

 

そしてさらにトランスジェンダーの方は、恋愛の有無以前に、仕事や生活の段階でどれほどの障害を感じながら過ごしているんだろう。

性格が合うなら普通に友達になれればいいのにな、と思うし、もし自分の友人が実はLGBTQなんだと告白してくれたとしても、今まで通りの友人関係を続ける自信は強くあります。

上記の通り、恋愛を求められてしまうとそれには応えられないけれど、じゃあその告白を受けて、友人から急に拒絶対象になるのかと問われるとそうじゃない。

 

それじゃだめなのかな。

自分が恋愛の相手として求められてもいないような人が、ただその人がLGBTQだという「事実を知った」だけで、差別したり大騒ぎしたりすることの方がずっとずっとおかしいと思うし、逆になにをそんなに意識してるのかわからない。

「ひとりっこなんです」とか「血液型はO型です」くらいの気持ちで聞けばいいのになと思う。

別に結婚してくれとも付き合ってくれとも言ってない段階で、「ひとりっこは無いわ〜」とか「O型っておかしいよね」と性格を知ろうともせず、いきなり入り口でシャットアウトされ、気持ち悪い・近よるな・おかしい・ばけものなどと言われたり、そういう空気を出されたりしたら、そんなのやってる方がおかしいって認識になるよね?

自分では選べない、自分ではどうしようもない、そんなことで人格を否定されるなんておかしいと思います。

 

応えられないのと拒絶するのは絶対に違う。

私は、LGBTQというカテゴリー自体で好きにも嫌いにもなりません。

前回の投稿でも書いたけど、その中にも良い人も嫌な奴もいるだろうよ。

良い人ならマイノリティーでも全然好きだし、嫌な奴ならマイノリティーだろうが好きじゃないです。

そして、「普通」の人でも、たとえば泥酔して人に暴言を吐いたり傷つけたりした上に、翌日そのことを覚えても無いようなことを「よくあるお酒の失敗」で片付けてる人たちは嫌いだし、色んな状況や人の表情を見て優しい配慮が出来る人は好きです。

つまり、好きになるのも嫌いになるのも、性カテゴリーよりももっと見るべきことがあるだろ、と思うのです。

 

ラストの海のシーンで、凪沙が「キレイ」と繰り返しているセリフがアドリブだとどこかで見かけました。

真偽はわからないけれど、もし本当にアドリブだったらすごい。。

凪沙の目は視力をほぼ失っていると思われる表現がありました。

その上で、オデットを踊る一果の後ろ姿を見て、敢えて「キレイ」という言葉を言う。

凪沙だったら言うだろうな、という説得力が凄かった。

本当に見えていて、本当に美しくて、本当に幸せだったんだろうな、と。

 

エンドロールの後にうつる一果と凪沙のワンショット。

まるでエル・グレコの受胎告知のような構図で、凪沙はマリア、つまり純血のまま母になったのだと、それを認め告げにきてくれた天使が一果なのだと、勝手に希望を感じられました。

 

凪沙のヘッドセットをつけてオデットを踊る一果の美しいこと。

白鳥の湖は、ハッピーエンドバージョンもあるけれど元はと言えば願いが敵わなかった王子とオデットが湖へ身を投じる哀しい結幕。

凪沙が長い眠りについた時、一果が海へ入り進めるシーンは、まさに白鳥の湖のようでした。

 

凪沙は死んでしまったのか。

一果の海外でのシーンは現実なのか。

はっきりと断言されているわけではないけれど、素直に読み解くなら、凪沙は海でささやかな願いを叶えて亡くなり、一果は凪沙のくれた希望を胸に自分の人生を生きていく。

その姿を永遠に凪沙に届け続けながら。

ということなのだと思います。

まるで凪沙がのりうつったかのような出立ちと佇まいのラストの一果が、そう思わせてくれたんだな。

 

 

 

敢えて強い言葉になりますが誤解を恐れずに言うならば、この作品を観て説明不足だと感じる人には、自身の「人を思いやる想像力」を、「見えない心の機微を掬いとろうとする洞察力」を、少しだけ疑ってほしいなと思います。 

細かい事情までは理解出来なくても、「こうなってしまうようなこと」にはどんな可能性が考えられるのか、「こう出来ている理由」はもしかしてこういう可能性があるんじゃないのか。 

そういう想像力や洞察力で、十分に納得出来る作品だと私は感じました。 

 

実際の自分の人生に置き換えて考えてみてもね、映画や漫画のように「知らない場所で起きていることを見る」ことなんて出来ない。 

その人が、自分の知らないところでどういった戦いや努力をしているかを相手や誰かが説明してくれるわけじゃない。 

だから、こういう映画を観て、「ちゃんと全部状況を説明してくれないと意味がわからない」と切り捨ててしまう人は、それこそがとても怖い感覚なんだと思ってほしい。 

そういった「想像の放棄」こそが、この映画に出てくる様々な人達を傷つけているものそのものなんだと気づいてほしい。 

何様がどこからモノ言ってんだ?って思われる方もいるかもしれませんが、少なくても私は、死ぬまでずっと見えなくてもわからなくても必死で想像する人間でありたいと思っています。 

 

広島弁が気になるって意見もあるみたいで、それについては私も関西人でドラマや映画のおかしな関西弁のせいでのめり込めないことも少なく無いので、気持ちはよーーーーくわかるのだけどね、でも、それだけ「しか」感じられなかった?とは問いたい。

映画として面白く無かったと思うのは全然自由だけど、面白くなくてもいいから、与えられたきっかけから大事なことを今一度改めて考えるくらいのことはする価値があるんじゃないかな。

 

映画という「大衆娯楽」作品で、こんなにも優しく生々しく残酷に考えるきっかけを与えてくれるのなら、それは本当に素晴らしいことだと思うから。

 

長くなりましたが、本当に良い映画でした。

 

未見の方は是非。

私は、自信をもっておすすめします。

少し前、公開前から観たいなと心に決めていた映画「ミッドナイトスワン」を観ました。 

一度目の観賞時、あまりにも胸を打たれ、二度映画館へ足を運びました。 

そして数日後小説も購入し、完読。

その後何日も、今も尚、この映画が私の心に残した余韻と痛みを分析したり、思い出す表情やセリフに何度も心を揺さぶられたりしながら過ごしています。 

 

あらすじは色んなところに書いてあるし、私個人としては、これから観る方にあらすじや前設定を把握してから観ることを薦める理由もとくにないので割愛します。 

 

 

【ネタバレなし:鑑賞前の方も読んでいただけます】 

※次の投稿で別途改めて、ネタバレありで具体的な私の感動を書かせていただきます。 

 

この映画を観て、「感動」する方は少なくないと思います。

「泣く」人も多いはずです。

私も、魂を揺さぶられ涙が出ました。 

でもね、私の中では、よくある「感動的な映画」ではありませんでした。

 

泣ける映画にも色々あるけれど、この映画は、映画としての作品に泣くというよりも、私は主に凪沙(草彅剛さん)に泣かされました。

凪沙の表情、凪沙の想い、凪沙の覚悟、凪沙の優しさ、凪沙の脆さ、凪沙の痛み

そして一果(服部美咲さん)への凪沙の愛全体にたまらなく涙が出ます。

 

一果にとっての凪沙

凪沙にとっての一果

その出会いの大きさのなんたることか。

孤独を持ち寄るとか、互いの傷に共鳴し合うとか、そういうことですらなく、二人が各々違う角度で「愛」というものに初めて出会い、初めてにしてはあまりにも大きく強く濃度のあるそれをうまく消化出来なくて、絶望と希望が混濁した未来へのドアを開いてゆく様を観た、そんな映画でした。

 

自分で認識している性と、他人がその人をカテゴライズする性が一致しない凪沙。 

彼女のようないわゆる「トランスジェンダー」の方たちへの偏見や差別、無意識下で悪気すらない人々の残酷なまでの理解の無さ。 

そういった問題提起をしている作品は昨今少なくないし、役柄としても今や珍しくもなくなってきたように思います。 

 

この作品についても【トランスジェンダーという"難しい"役を演じる草彅さん】、を注目すべき点の筆頭として挙げている記事も多く見かけました。 

実際、自分の中にはまるでない性感覚を演じる、という意味ではとても難しいことなのだろうと素人目にも思います。 

 

だけど、「トランスジェンダー」というのは、例えば「女性」とか「日本人」とか「大人」とか、そういった大枠のカテゴリーでしかなくて、その中にも当たり前に個人のアイデンティティがある以上、「トランスジェンダーを演じる」という表現だけでは、まだどんな人を演じるのか見当がつかないな、と思っていました。

 

なので、私個人の意見としては、草彅さんが「カテゴリーの特性」を演じていたら、ここまで感動しなかったと思います。 

だけど作品の中で生きる凪沙を観て私は、草彅さんが演じたのは「トランスジェンダー」という肩書きではなく、とても優しくて聡明で可愛らしい凪沙という一人の健気な女性なのだと痛いほど感じられたことで、ものすごく心を掴まれました。 

あくまでも凪沙は「凪沙という魅力的な一人の人間」である、と。 

そんな彼女の人生の映画として表現されていたからこそ、魂に響き心揺さぶられたのだと思います。

「男性」「女性」「トランスジェンダー」などの性カテゴリーはあくまでもただのカテゴリー名称で、それぞれに「多くみられる特徴」はあれど、それと個人個人の魅力とは絶対に別物だと思うからです。

 

トランスジェンダーの方々も、「性認識に関する共通の悩みを抱えている」ということ以外は、一人一人それぞれが、優しかったり明るかったり可愛かったり面白かったり、はたまた、嘘つきだったり意地悪だったり短気だったり自己中だったり、当たり前の当たり前にすると思うんです。 

友達になれる人もなれない人も、それこそ性別に関係なく(男女だけでなくLGBTすべて含んで)そんなの一人一人違う。 

 

そんな本来当然のことをちゃんと大前提にした演技だったことが、本当に本当に素敵で、そして凪沙があまりにも魅力的で、あぁ幸せになってほしいな、人間の魅力を感じるにおいて体の性別なんて本当にどうでもいいことなのにな、と心からそう思いました。

 

 

一人の人間としてこんなにも素敵なのに、どうして自分の怠慢でもなんでもないことで、地獄のように苦しまなければならないのか。

 

その理不尽さが、凪沙に与えられる傷と、凪沙が与える膨大な愛の歪なバランスを見ることで、「差別はいけませんよ」「個性を大事に」なんてスローガンを100万回読むよりもずっと重く生々しく本能に響きました。

 

 

又、そんな凪沙に出会い心が動き始める、日常に熱が灯り始める一果の、まるで「希望」を具現化したような輝きも素晴らしかったです。 

絶望という暗闇の中に、突然凪沙という儚い光が差し込み少しずつ重い瞼を開てゆく一果の心情。 

そして今度は自らの輝きで凪沙を照らす、眩いほどの希望の光となる一果の成長。 

ラストへ向かって哀しいほどに対称的に移ろいでゆく二人の光と闇のグラデーションが息苦しいほどに切なく尊いものでした。 

 

 

この映画は観賞後、幸せになれる映画ではありません。 

でも、不思議なことに不幸せになる映画でもありません。 

「あ〜泣けた〜、感動的〜」という感想で終わらせる作品でもないです。 

 

だけど、観て欲しいな。 

一人でも多くの方に観て欲しいです。

 

次の投稿で、ネタバレありのもう少し踏み込んだ私の感想を書きます。

映画を観賞後には、よろしければそちらも読んでいただけると幸いです。

 

 

先日8日、無事に2018年のNAADAワンマンイベントを終えることが出来ました。

 

本当に今回は、最初に企画していたものとはまったく別のゴールを切ることになり、その間には皆様にたくさんのご心配やお手間、不安な想いを与えてしまったと思います。

本当に申し訳ありませんでした。

そして、それでも温かく力強く優しく応援してくださって、本当に本当にありがとうございました!!

 

裏をあまり語りすぎるのは良くないですが、NAADAにとっても年に一度の一大イベントで、今年は色んな意味で紆余曲折、波乱万丈な時間だったので、ライブからイベントへ変更してからの個人的なことだけを少し振り返ろうと思います(*´◡`*)。

 

 

以前から既に、私の喘息同様COARIの背中も本調子ではなかったので、元々去年よりもギター伴奏曲を増やしたり、ベース参加によるアレンジ変更でピアノの割合がかなり軽減される予定ではありました。

とは言え本来は、セットリストの性質上、そして楽器の性質上(ギターはカポを変えたり、ギターもベースもチューニングを変えたり整えたりするのですぐに演奏に入れる曲ばかりではない)、ピアノの締める割合は伴奏や演出上大きなものでした。

 

それをね、急に全部無くしたわけだ 笑。

 

もちろん誤解がないように再度書きますが、COARIは何も悪くないですよ。

中には「体調管理が出来ていなかった」とCOARIを責めるようなことを言う方もいらっしゃいますが、それは違います。

体調管理が結果として至らなかったことは事実ですが、ケアをしていなかったわけでは断じてありません。

むしろ、本人も周りも、これでもかというほど大事にしておりました。

一点の曇りもなく断言出来ます。

それでもね、ダメな時はダメなんです。

どんなに必死でそこに照準を合わせても、どんなに想いが真剣でも、ダメな時はダメなの。

そんな時もあるんです^^

 

だからこそ、COARIが「痛い」と言ってから”ピアノ全カット案”を私とMATSUBOが口にするまで、5分もありませんでした(笑)。

だって、痛いんだもん、仕方がない。

ならば、言っても仕方がないことを言うよりも、皆様に正直に謝罪をして今から出来ることを全力でやるだけだと決断致しました。

 

 

ライブの最後にしたメンバー紹介でも言いましたが、今回一番頑張ってくれたのはMATSUBOです。

 

もちろんみんな各々全力でやりました。

でも、ピアノ伴奏がなくなるということは、その分真正面から負担が増えるのは圧倒的にギターです。

 

去年はCOARIがたくさんの曲数頑張ったので、もともと今年はMATSUBOの演奏曲を増やそうという流れではあったものの、本番1ヶ月前に、ギターだけで演奏する曲・ギターとベースだけで演奏する曲・そもそも演奏する予定になかった曲が大量に増える…などに加え、すべての音源の準備、バランスを整えたり、中には新たに制作したり。

 

普段から、怪我したCOARIと機会音痴な私の分まで、一生懸命一人で準備をしてくれることも多いのですが、イベント当日も機材のセッティングや音響のチェック、MATSUBOはギタリストであって音響スタッフでもなんでもないのに、自分のことを後回しにしてみんなの環境作りを必死でやってくれました。

ほんとうに大変だったと思います。

でも、イライラせず、毎日睡眠時間を削ってでも夜中まで何時間もギター弾いてました。

 

メンバー同士で言うべきことじゃないのは百も承知ですが、言わせて下さい。

本当によく頑張ったね、やっぱりMATSUBOのギターでなきゃだめだ、ありがとう😊

 

 

そして、COARI。

悔しかったと思います。

そりゃあもう、悔しかったでしょう。

感じなくても良いんだけど責任も感じてただろうし、繊細で感情が揺れやすい彼女には辛かったと思います。

でも、ポジティブに楽しもうとした私とMATSUBOの波に一緒に乗ろうと頑張って気持ちを強く持っていました。

 

そして、ライブに来てくださった方はわかると思いますが、こあらPが誕生(笑)。

「COARIが弾けないのなら、今後こんなことでも無い限りやることはないだろうギターと二人の旧NAADAライブをコーナーとしてやっちゃおう!」という案まではサクっと決まったのだけど、ああいう形になったのは私とCOARIの雑談からで、一時は全員で寸劇を繰り広げる案まで発展してました(笑)。

でも、さすがにそれは違う…!と、なんとか気づき帰ってきたの……危なかった(笑)。

でその後、あの形にしようと思う。という確固たる意思表示がCOARIからあり、発案から脚本・BGMも一人で作ってきて、そりゃ爆笑ですよ、こっちは(笑)。

 

そして、COARIがピアノを奪われたことで「私もやりたい!みんなずるい!」と不機嫌になるので、「じゃ〜あその願いを叶えてやるよ😏」ということでデュエット誕生ドキドキ

注意MATSUBOとMITSURU君完全にとばっちり

 

「ヤダヤダそういうことじゃないーーー><」とだだこねてましたが、やらせました。

はっはー!!だだこねるからだ!笑

 

でもね、やっぱりピアノが弾けようが弾けまいがCOARIもNAADAなので、イベントを同じ温度の想い出となるよう一緒に作りたかったんです。

いや、これは真剣に。

振り返った時、あの年は自分は殆ど何もしてないしなーってなるの寂しいから。

だから、こうして誰がどう見てもCOARIも一緒にステージに存在していたイベントに出来て幸せです!

笑ってもらえて良かったね、COARI😊

次こそはメカCOARIじゃないCOARIと一緒に歌いたいぜ!NAADA自慢のピアノ、聴いてもらおうな😉

 

 

そして私事も少しだけ。

私もね、実は大概すごいことになっておりました(笑)。

喘息は夏頃から荒れ狂うし、秋には救急車で運ばれるし、本番前1ヶ月近くまともにご飯も食べれず、本番2週間前には軽い胃潰瘍にもなり、強烈な点滴のお世話にもなり、車椅子乗りながら吐き、あぁ〜ホント面白かった!笑

でも頑張ってくれましたよ、喉さんが。

あたしゃ感激だよ、喉さん、ありがとうな。。

 

去年最後の曲の前に咳き込んでしまったのが悔しくて悔しくて、全体的に枯れ気味だったのが悔しくて悔しくて。

今年の、なんでもかんでもやれることはやってやるメラメラという取り憑かれたようなケアとしつこい病院通いは自分でも楽しかったです(笑)。

その甲斐あってか、たまたまかわかりませんが、本番は最後まで無事歌い切ることが出来ました。

良かった〜〜〜><

 

COARIが弾けない上に私まで歌えない…となるわけにはどうしてもいかなかったので、プレッシャーはそれなりにモリモリだったのですが、メンタルの強さにだけは池上君並みに定評のある私(笑)。

体にはいろいろ出てましたが(笑、その割には落ち込むことも荒れることもなく、メンバーと楽しくリハを重ね準備を進めてまいりました。

楽しかった^^

 

 

ステージからね、見てました。

皆様のこと。

 

泣いてくれてありがとう。

笑ってくれてありがとう。

目を閉じてくれてありがとう。

見つめてくれてありがとう。

口ずさんでくれてありがとう。

拍手、手拍子をありがとう。

突っ込んでくれてありがとう。

照れてくれてありがとう。

全部、見てたよ。

全部、嬉しかったです。

 

機材トラブルもあったし、思うようにいかなかったこともたくさんありました。

でも、来て下さった皆様が柔らかい空気でいてくれたので、焦らず落ち着いて楽しむことが出来ました。

 

終わってからも。

楽しかったと言ってくれた方

号泣してくれてた方

来年もやってほしいと言ってくれた方

投げ銭を下さった方

差し入れを下さった方

CDやパンフレットを買ってくれた方

握手してもハグしても足りないくらい嬉しかったです。

心の底からありがとう。

 

次こそは、メンバーみんなが健康でありますように(笑)。

 

そして、来てくださる方も、来れなくても応援して下さっている方(届いてますよ、お気持ち!!)も、みんなが笑顔になって力を抜いて安心した時間を過ごしてくれるような場や音楽を作れるように、NAADA頑張ります。

 

 

そして最後になりましたが、今回ベースで参加してくれたMITSURU君。

そして、真心のある優秀なるスタッフ。

彼、彼女らの協力なくしてあのステージは完成しませんでした。

MITSURU君はステージ上で音で存在で仲間として、スタッフはバックヤードで、全力でNAADAをサポートしてくれました。

本当に心強かったよ、ありがとう。

 

またこのメンバーで、また皆様と、また音楽を通じて同じ感動を共有出来ますように。

 

 

本当にありがとうございました。

やっぱりNAADAは幸せです

れぱひわこあらとらラブラブ

 

 

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