こんにちは。
突然ですがわたしの父が9月16日の早朝に
亡くなりました泣泣

とっても長いブログになりますが、
記録として残したいという気持ちで
何日もかかりながら書きあげました。


父は、3回目の肝臓がんでした。

1.2回目は手術して完治してます
(どちらも術後6年経過)
今回のがんはは発見した時から
いつもと違う感じと言われ
ざわつく心の中…。
早急に手術しましょうと、
5月半ばに発覚して6月頭には
手術予定でした。

父は昔から糖尿病も患っており
(他にも心臓病でペースメーカー入っていたり
無呼吸症候群だったりと
色々ありますが…)
週に3回は透析をやっていました。
透析とはざっくり言うと、
体の血液を一度機械に通して綺麗にして
また体に戻すという治療。
一度透析を始めたら死ぬまで一生続くものです。
通常は透析病院に通ってやるのですが、
何にでも挑戦する父は
自分で色々調べ上げて
自宅で透析をやれる環境を作り、
母や訪問看護さんの協力のもと
自宅で透析をしていました。
(自宅透析は、あくまでも医療行為なので自分主導でしかできません)

そんな透析の関係もあり、
術前検査がたくさんあるので
手術の10日前に入院しました。

いつもなら個室で入院するのに
今回はなぜか4人部屋でした…。

そこでまさかの院内感染により
コロナにかかってしまった…。。。

そんな重症患者である父は
コロナにかかった翌日に急遽
退院させられましたアセアセアセアセ
この対応が今となっては理解できない…。
大学病院だから??

6月下旬にある兄の結婚式に出るために
退院はしたかったのですが、
予想とは違う退院と
先の見えない手術に
心配は増えるばかり。

兄の結婚式も一緒に行きましたが
いつもよりキツそう…。
でも立派に6分のスピーチも務めキラキラ
(原稿なしがまたすごい‼️)
これであとは手術だけだねおねがい
となり、いざ迎えた再入院。

術前検査で…がんが増え広がり
転移も見つかり
手術不可能に悲しい悲しい悲しい

化学療法も無理と…。
そんなに早くそんなことになる⁉️
信じられない気持ち…。
なのに無駄に1ヶ月も入院させられました。
何も治療されないまま。。。
どんな気持ちで病院にいたのか想像すると
胸が痛みます。

そこからは緩和ケアになるとのことで
父の希望で
自宅で緩和ケアをやるということになったのですが、
いざ退院する時に告げられたのは
まさかの
訪問診療は透析患者は受け入れられないという
事実…。
そこまで入院を引き伸ばされて
大学病院には『突き放された、見離された』と
父は言っていました。。

長い入院のせいなのか?
癌の進行のせいなのか?
退院する頃には歩くのも一苦労になっていた父。
退院前日にLINEで
『退院翌日に車椅子を買いたいから
ついてきてくれないか?』と
連絡が来た時はショックでした。
まさか…歩けないの??と。
でも、会った父は杖をつきながらも
ゆっくりと歩いていて
電動車椅子に試乗して
孫にふざける余裕もありました照れ

その後車椅子で移動する生活が始まりましたが、
母に限界がアセアセ
何回かヘルプ要請‼️
私も行ける時は行きましたが
夜中にベッドから落ちて起き上がれなくなってしまった時は少し遠くに住む兄が助けに来ることもショボーン
父は身体が大きく女性1人ではびくともしないのですタラータラー

大学病院の通院ではついに
入院も受け入れられない、
自宅緩和ケアも自分で訪問診療の先生探して〜
と言われ、見捨てられてしまった父…。
(透析患者だからなのか?)

その事実を透析の病院でお世話になってる
看護師さんに話すと
(その頃はもう自宅透析なんてできる状況でなく、通っていました)
号泣してくださって…
『今まで大学病院に通われてたから
言えなかったけど、うちで訪問診療
やってるから‼️』と悲しい
鶴の一声。
(のちに知ったことですが、
なかなか訪問診療の先生を見つけるの難しいみたい。万が一見つかったとしても予約が半年先とかみたいで、こんなにすぐ診てもらえることが
奇跡だったようですキラキラ


そこからは一気に色んなことが決まり
自宅緩和ケアにキラキラ
それが8月の末頃。
わたしが職場復帰する頃でした。

このタイミングで父の体調不良は
なかなか会社には話しづらくアセアセ

でも、一気にガンは進んでいたのでしょうね。
初めての訪問診療で
先生が来られた時に
『次回、子供さんがおられたらお話しさせてください』と言われ、
私は9/7に初めて先生に会いました。

その時は少しだけ【せん妄】が始まっていて、
『ここはお父さんの家じゃないよな?』
と言い出したりしていましたが、
まだ会話もできるし、
表情も豊かだったので、まさか先生に
【お父さん、正直に言うとこの秋まで持たないと思います】なんて言われると思いもしませんでしたえーんえーん

だって1ヶ月前には残り1年。
2週間前にはあと半年。
と言われて…
なんでそんな急に余命が短くなる⁉️⁉️

先生は気を遣われて父から見えない聞こえない場所で
お話ししてくださいましたが
涙が溢れて溢れて
なかなか父の元に戻れませんでした。
その日はよく顔も見れずアセアセアセアセ
だって父はあと1年生きれると思ってるから悲しい
この頃がわたしは1番辛かったかも…。
受け入れられない自分と
病状が進む父。
顔を見て話すだけで泣けてしまう。
なので顔が見えないところから話しかけるか、
一言だけ顔見て話しては
隠れての繰り返しアセアセ←なんだこいつですね。
でも、父の生きる希望を奪えなかった。
まだまだ行きたい趣味のイベントたくさん予定していたから。
3家族での家族旅行も行きたいと言っていた父。
もう泊まることはできないから
せめて近くの水族館でも行けないかな?と
提案したら、まさかの
『水族館へ行って帰りにカラオケしたいキラキラ』と笑い泣き
行こう行こうキラキラキラキラ
何歌うのー?歌えるー?と聞くと
どうかなー照れ?と笑った父の顔が忘れられません。
その後、何か音楽聴きたいか聞くと
『宇多田ヒカルが聞きたいかな。
ミセスも大好きてへぺろ』と言ってた
お茶目な父ラブラブ


…結局そのお出掛けすら叶いませんでしたアセアセアセアセ

車椅子が乗れるレンタカー手配とかも
色々調べましたが
結局借りることはなかったな。

9/10。透析の日。
この日は保育園で誕生日会があり休みを取っていたので午後に会いに行く予定でした。
が、結局透析をやる病院で
シャントが潰れてしまっていて手術になり(簡単な)
長引いてしまい待っていたけど会えなかったアセアセ
このシャント(人工血管)が潰れたから
首下に直接刺す管を入れる手術も
まだまだ透析やる気だったから頑張ったんだよね。
結局作ったこの管を使って透析をしたのはこの日が最後でした。

9/11仕事帰りに、坊ちゃんの習い事までの
少しの時間会いに行ったら、
食欲がなくほとんど口にできなくてアセアセ
食べてもゼリーをスプーンで1口や
ブドウを小さくして1口とか…。
なにか食べないとショボーン

この日の診療では、明日の透析に
行けるかどうかが山です。と言われたみたい。

9/12。この日の朝にもし透析に行けない(家からとても出れない)状況だったら
わたしは仕事休もうと思っていました。
なので朝に母から
『なんとか介護タクシーで透析に行けたよ‼️』
と連絡をもらってすごくホッとして
出勤したのを覚えています。

…が、昼休み。
携帯を開くと
『病院でたくさん話し合いが行われて
お父さん、自分で透析もう辞めるって選択して今から帰ってくるってアセアセ
と連絡が入っていたアセアセ
慌てて早退させてもらって…。
高速に乗ったものの慌てて方向間違えて
降りて乗り直してガーン

実家に着くと
たくさんの人が‼️
救急車で運んできてもらった様子。
なんとか平常を装いながら
『お父さん、やほー爆笑きたよ‼️』
と挨拶すると、笑ったいつもの父。
その笑顔に周りが【嬉しそうー‼️よかったねぇ、娘さん来てくれてキラキラ】と。
どうやら私が来る前までは
大変だったみたいアセアセ
意識も朦朧で父も運ばれた記憶がないらしい。

少し落ち着いてから子供を迎えに行ってくるから
1度帰るよ‼️
その前に写真撮ろうキラキラ
と、
父と母と兄と4人で撮った最後の写真📷
頑張って目を開こうとしたのかな??
表情がちょっと載せられないくらいのお顔でしたてへぺろ
その後、孫を連れてきて
夜に撮った写真は
しっかり口元も笑って
いい顔になりましたキラキラ
これが父との最後の写真になりました。
この夜は父の大好きなお寿司を
買って一緒に少しでも食べられれば
いいなと思いましたが、
一口も食べられずアセアセ
でも、孫も一緒にベッドの隣で夕飯を
賑やかに食べられて
とっても楽しかったニコニコ
このゆっくりと過ごす時間が本当に
尊かったしとてもよかった‼️
私も少しづつ受け入れられてきたような
感じがしました。

自分で透析をやらないと選択した父。
透析をやらないということがどういうことか
父は分かっています。
もちろんその話も病院でされたと思います。
だからこそ2日前に管を作る手術をした父。
その決断を下すほど…よほど苦しかったのかな悲しい悲しい
どんな気持ちで透析を諦めたのか…
想像するだけで胸が締め付けられます。。
この日を含めて父は透析の話は一切しませんでした。


9/13
この日はもう仕事休んじゃいましたてへぺろ
本当は父の趣味のイベントの日。
父の作品も飾られる展示会に見に行く日でした。
元々は兄が連れて行く約束を
していたので兄も来ました。
が、とてもイベントへ連れて行ける状況じゃないので
誤魔化すしかありません。
それも辛くて母は泣いていました。

朝から何も食べられず
氷は元々好きなので
口に入れるとガリガリ食べます。
お茶や水は
ストローで吸えなくなってきました。
吸える時もあるけど、吸えない時は
スポイトみたいにして
口に入れてあげます。
午前中、お腹が痛い痛いと苦しみだしアセアセ
今まで『いたい』なんて口にする人じゃなかったのに、よっぽど痛かったんでしょうね。
母もびっくりしてパニック。
あまりに痛がるので
訪問看護さんに電話して来てもらってしまいましたアセアセ
女3人で体を起こしてあげると少し落ち着いたかな。
でもあまりに痛すぎて
訪問看護さんに(もともと知り合いでプライベートでも飲みに行く仲)
『こんなに痛いってことは…オレ死ぬんかなぁ…?』と聞いていて
わたしも涙が止まらないアセアセ
『大丈夫だよ‼️がんばれがんばれ‼️』
しか言えず悲しい

昼過ぎに兄の奥さんがわざわざ
父の好きな静岡の三日日にある加茂というお店の
うなぎをテイクアウトして
買ってきてくれました悲しい
前日にうなぎなら食べれそう?と聞いたら
『お父さんね、うなぎはもう食べるところ決めてるんだよ‼️加茂ってお店ウインク
て言っていて、ほんとにナイスタイミングキラキラ
片道1時間高速乗って。
それはそれはとても喜んで、
白焼きを1口だけ食べてくれましたおねがいキラキラ
それが固形物では最後の食事でした。
たぶん、食べたくはなかったのかもしれないけど
せっかく買ってきてくれたという感謝の思いで
食べたんだと思いますおねがい
小骨が怖かったですが
ちゃんと飲み込めましたキラキラ
この頃までかなー?
私たちに気遣って
『お前たちご飯は?』と
いつも言ってくれましたおねがい
お寿司が〜とか言うから食べたいのかと思ったら
『お父さんはいいからお前たちで食べなさいニコニコ』といつも周りを気にしていました。

少しこの日は父と懐かしい話をしましたキラキラ
父と私2人で行った韓国旅行の話をした時に
『コンビニで……』と
なにか言いたそうな父。
でもその次の言葉が出てこなかったのが印象的でした。


その日の夜は実家に泊まるよと言いましたが
母が遠慮して帰りなさいと言うので
帰りましたが心配で心配で夜中何回も起きては
携帯を見る感じで眠れませんでした。
その夜は母も大変だったようで夜中の3時から
痛い痛いと大変で朝の7時頃に訪問診療の先生に
来ていただき麻薬の貼り薬を
増やしてもらいました。

9/14
私も朝7時半頃に到着して少し先生とお話できましたが、だいぶ厳しい様子で。
でも先生が来たら落ち着いた様子。
誰か来ると落ち着いていられるみたい。
この日から訪問看護さん1日に3回も来てくださいましたキラキラ
『〇〇さん来てくださったよー‼️』
と言うと嬉しそうな表情をする父。
便がもうずーっと出ていないのが気になっていましたが、出したい感じがするのか
『うんち、したい』
と言い立とうとしますが
立てないし、連れて行けもしないし
無理に連れて行って倒れても怖いので
訪問看護さんに相談すると
浣腸も血圧が低いから怖いよねー。てことで。
でもお尻を見てもらったら
少し出てた‼️
それを拭いて欲しかったのかもアセアセアセアセ
なかなか私たちじゃ気づけなくてごめんね、お父さん悲しい
訪問看護さんが来るまでずーっと
『うんち‼️うんち‼️
トイレに連れて行ってください‼️』て言ってたこともあってアセアセアセアセ
どんな気持ちだったか想像すると申し訳なくて泣けてくる悲しい
どう答えたらいいのか分からなくて
『したいよね…。』とか
『オムツでしてもいいんだよ』とかしか
言えなかったアセアセ
この頃から身体を横に向けることも
難しくなってきたので2.3時間ごとに
体位交換が必要に。
この日から私もお泊まりしました。

でも、体位交換すると顔を歪めて『いたいー‼️』
と言ったり、声は出なくとも顔が歪む父。
体位交換にめちゃくちゃ役立った
坊ちゃんが貸してくれたハイチュウ抱き枕キラキラ
持ってきてもらってずーっと使ってましたウインク
横向きにする時に最適‼️

この日はお嬢と私だけお泊まり。
坊ちゃんはパパと家に帰りました。
なかなかお嬢眠らなかったけど、寝ついてからは朝までキラキラ
夜中も3時間おきに体位交換。
1人ではきついので母と2人で協力です。
体位交換する際、父に声かけてからやるけど、
びっくりして父は起きてましたてへぺろ
でも、やらないと褥瘡ができてしまうのよーアセアセ
褥瘡は痛いのよーアセアセ
もうこの辺りからは
声も出ず…。。とても静かな夜でした。
麻薬がきいていたのかも?

9/15
この日は1日兄はお嫁さんの親戚の結婚式。
なので任されていました。

朝方に小さな氷のかけらを
口に入れて、口が閉じなかったから
もう危ないかも?と思いましたが、
カリッと食べてくれました。
これが父が食べた最後の氷。

もう口も開けっぱなしになってしまって
乾燥が気になって気になってタラー
1時間おきくらいに
口の中をお茶で湿らせてあげました。
たまーにそうすると口を閉じることも。
1日のほとんど寝ているのか?
意識がない状態。
でも、声をかけると
ハッとした表情で
目が合いますキラキラ

この日、訪問診療の先生休みの日なので
来られないかなー?と思ってたのに
わざわざ来てくださって悲しいキラキラ
本当ーにありがたい。

もう私たちが話しかけても目が合うだけであまり
表情がない様子だけど、
『先生が休みなのに
来てくださったよ‼️』と言うと、
口角も上がって笑って答えてくれたキラキラ
先生が帰る時に手も少し上がったよおねがい
すごいねすごいね‼️

…ただ、この日のお話はとってもキツいお話すぎて悲しい悲しい

もう、先生が見るところ
父は最後の最後の【昏睡状態】だそう。
まだ意識が戻る時があるので軽い昏睡だそうだけど、最後の時がすぐそこまで来てると。
母が『今日明日なんでしょうか?』と
聞くと
「僕にはそう見えますね…。」と悲しい悲しい

夜中でも変化があったらいつでも呼び出してもらって大丈夫と言ってくださり
とても心強いのです。(訪看さんも同じく)
先生方にもできることは少ないんだけど、
母娘だけではあまりにも不安で
来てくださって見てくれるだけで
私たちがどれだけ安心することか…キラキラ
本当にすごい仕事ですね。

話は戻って、先生のお話はこの日
お父さんのベッド横で話されました。
…たぶん父も意識があったんでしょう。

先生をお見送りした後に父を見ると…

目尻に涙が溜まっていたのです悲しい悲しい悲しい
その涙拭きながら、大丈夫だよ‼️
とお腹をさすることしかできません…。
お嬢もお腹をよしよししていました。
父とはもう意思疎通はできません。
でも、この時の父は全てを悟っていたように
感じました。

そのあとすぐに訪看さんが来てくれて
体を清拭してもらっている間に
私はお嬢を連れて自宅へ荷物を取りに1時間ほど帰りました。

その間、なんと
坊ちゃんが訪看さんと一緒に
手浴させてくれて、手を丁寧に
洗ってくれたようですおねがいキラキラ

その時父が
とーっても嬉しそうな表情になったと
後から聞いて
本当ーに貴重な時間をありがとうと思いましたキラキラ

もう話せなくなっても全部状況を
父は分かっていたのかなと思います。

その後も何度か涙が出ていました。

その日の夜は坊ちゃんが
絶対に今日は一緒に泊まる‼️と言い、
私と子供達2人泊まりました。
夜私たち3人でお風呂に入っている間に
母と父でゆっくり2人で話したそうです。
旅行色んなところに行ったね、とか
今度はお父さんが行きたいって言ってた
沖縄とか北海道にも行こうとか
そんな話をしたそうです照れ
その後も涙を流していました。

その日の夜は2時間ごとにアラームをかけて
母と体位変換しました。
前日には起きてびっくりして見せた父でしたが
この日の夜はもうびっくりして起きることもなく
声をかけても目が合う感じもなく、
体位交換の際に
口の中を潤わせてあげるときにも
口を閉じることなく…
ただ、規則正しく息をしている
その音だけが頼りでした。
隣で寝ながら
その父の寝息を子守唄にしてウトウトしました。
1時に体位交換したあと
3時のアラームが鳴るまで
私は深い眠りについてしまったようで
ハッとしましたが、
その規則正しい寝息で安心しました照れ

そして3時に体位交換して、
父の好きだったジャスミンティーで
口を少し潤わせてあげて、
また次の5時にアラームをかけて隣で横になりましたが、
その時はなぜかあまり寝付けなかったのです。
ただひたすら父の寝息とこどもたちの寝息を
聴きながら横になっていました。

が、突然父の呼吸が乱れた感じがしました。
母を叩き起こし、
『お父さんの呼吸がおかしい‼️』と
お父さん、大丈夫?と
慌てていると
ついに息が止まりました。
必死に『お父さん‼️お父さん‼️』と
呼びかけると10秒ほどしてまた深い息をします。
そして止まって…と繰り返している間に
先生に連絡して‼️と母に声かけると
母は慌ててパニック。
なぜか充電器を他の部屋に取りに行ったり
している間、
『お父さんありがとう‼️
ほんとにジェットコースターみたいな人生だったね。
本当にお疲れ様‼️』
と号泣しながらも伝える事ができました。
そして、パニクってる母に
私が先生に連絡するから
お父さんのそばにいて。
と言って連絡しました。
訪問看護さんにも連絡しました。
その連絡している間に
父は最後の呼吸を深ーく吸って
母に見守られながら息を引き取りました。
その時間は3時25分でした。
そこから10分ほどで
訪問看護さんと
先生も到着して
診断された死亡時刻は9/16の3時50分でした。
まだ本当についさっきまで息をしていたので
先生がした瞳孔確認の際には
瞳孔がまだ動いたと仰っていました。
手を握ると熱いくらいにあったかく、
本当に最後の最後まで
父の近くで見守って
声もかけながら看取ることができたので
よかったです。
そんな大騒動があったので
こどもたちは起きてしまいました。
でも最後に立ち会えてよかったです。

ただ、兄は結婚式が遠方であったので
朝実家に来る予定だったため
間に合いませんでした。
でも4時過ぎには到着しました。
そこからは忙しかったです。
死亡診断書を先生が作成してくださる上で
透析手帳はどこだー❓と探したり
訪看さんと一緒に身体を綺麗に拭いてあげたり
普段着ていたお気に入りの服に着替えさせてくれるのでその服を引っ張り出してきたり
メガネをかけてあげたり
帽子を持ってきたり…。

いつものお気に入りの赤いシャツを着た
お父さんはとっても元気で
本当に寝ているだけのように見えました照れ
足や手は細くなってしまった父でしたが、
顔の肉は落ちなかったのですキラキラ

一息ついてから葬儀屋に連絡して
朝6時くらいかな?
ドライアイスを持ってきてくれて…
父は冷たくなってしまいました。

兄の奥さんが買ってきてくれた
おにぎりとお味噌汁を食べて…
また葬儀屋さんが来て色んなことを決めて。
あっという間に、あまり記憶のないまま
過ぎました。
葬儀は家族葬で行うことにしました。
父の趣味仲間で仲の良かった方に連絡
すると来てくださることに。
家族葬なので大きい式にしないはずが
父の人望で
予想外にどうしても参列されたい方が駆けつけてくれました。
そして多くのお花…キラキラキラキラ
最終的には23のお花がびっくりびっくり
ほんっとうに華やかな式となりましたチュー
母の希望でもあるお花がいっぱいの式に
したいという希望も叶いましたおねがい

そして、無宗教の告別式にしたので
小さな個展のような形も作って
皆さんに見てもらうこともできました照れ



このほかにもたくさんの作品を飾らせて

頂き、父も喜んでくれたかなと思いますウインク


とにかくお花がたくさん届いたので、

お花に埋もれるんじゃないか?というくらいのお花を詰めて詰めてキラキラキラキラ


悲しいかな、まだ7歳の坊ちゃん。

これで葬儀は4回目。

お花を詰める職人のように

綺麗に上手にたくさんのお花を詰めてくれましたガーベラひまわりチューリップハイビスカス


こんなにも華やかな式になりましたが、

一応家族葬でありますので、

斎場には家族のみで向かいました。

そしたら、出棺の時間に合わせて

残ってくださった

趣味仲間の方々が

歌を葬儀場で歌ってくださっていたようです。

それを後から聞きましたキラキラキラキラ

愛されてるねぇ、お父さんおねがいおねがい



悲しかったのは、サイズアウトもせずに

こどもたちの礼服が3回も立て続けに使うことになってしまったことえーん

こんなに短期間に使うことになるなんて思いもしませんでした。

去年の私の父方の祖父。

先月に旦那の母方の祖母。

そして私の父です。


もうこんな悲しいことは続きませんように。


まだまだ処理しなくてはいけないことや

やることが山ほどありますが

ありがたいことに

兄も私も仲は良いので

協力して

すっかり憔悴してしまった母に寄り添えたら

いいなと思っています。



もう葬儀から10日たっていますが、
まだ父に届いたお花が
何本も綺麗なまま家にも飾ってありますガーベラ
これからは近くで私たちを見守っていてね、
お父さん{emoji:007_char3.png.照れ}