「待つ」ということについて考えてみる。
松竹梅の松ではない。ちなみに、松竹梅という言葉は松を最上級として
等級を表す言葉で使われることが多い。
しかし、厳密に最上級=松ということではないそうだ。
梅が最下級というわけではないのである。
そう考えると、梅のことをほんの少し可哀想に思う。
そして、これは余談だ。
誰でも、誰かを、何かを待ったことがあるだろう。
人間だけに限らず、犬も猫も、もしかしたらカバだってあるかもしれない。
人は何かを待っている。
自分ではわかっていないかもしれないが、心のどこかで、1日のなかのどこかで
あなたは何かを待っている。
僕は待つことが嫌いだ。
ディズニーランド、福袋、バーゲンセール、パチンコ・・・
どれも嫌いだ。
待っている時間のワクワクを楽しむ人もいるだろう。
しかし、僕はそんなワクワクを上回る”嫌な気持ち”ってやつを感じざるを得ない。
本当にげんなりしてしまう。
ではなぜ待つことが嫌いなのだろう。
「いま、この瞬間、だ。」
と動こうとする意思が秩序に跳ね返されることを不快に感じるからだのだろうか。
それとも、単に「疲れる」「足が痛い」という身体的理由なのだろうか。
僕は「待つ」ということに関して一つ、エピソードがある。
たまたま覚えているものではなく、むしろ事実としてあったかどうか定かではないのだが
うっすらと煙のような記憶が頭にふんわりと、漂っている。
それは、父と母が別々に生きることに決めたあとのことだ。
うちの家庭がよその家と違う、ひいては社会の中で浮いた存在(当時すでに、「片親」の家庭は割といたのだが)となったのは
僕が6歳の時、だったと思う。
僕は「待つ」子どもだったらしい。
天気のよい日曜日、野球が好きだった僕はSSKのバットとMIZUNOのグローブとボールを持って
玄関で待っていた。
誰を。父を。
でも、誰も来なかった。らしい。
父に遊んでもらった記憶はもちろんある。
キャッチボールをしたり、たまにサッカーをしたり。
けど、僕は待っていた。
父を遊ぶことを楽しみに。
ワクワクしながら待っていた。
でも、来なかった。らしい。
僕はどこかで、迎えにきてくれる人なんて誰もいないと思っているのかもしれない。
何を待っても、誰を待っても、楽しいことなんてないと思っているのかもしれない。
僕は待つことが嫌いだ。
これは、愚痴だ。
でも、心のどこかでは
僕の体の中のどこかにある、扉をノックして、扉を開けて、
言ってほしいのかもしれない。
「迎えに来たよ。」と。