あの日、あの時から・・・・
やっと7日目を迎えようとしている。
もう、1ヶ月くらい過ぎたような気持ちになる。毎日が悲しく、切なく、慌しく過ぎた。
初七日の法要は特に行わず(繰上げ法要もしていない)弟と私の近しい友人の3人で母のお骨の前で食事会をしようと考えている。
あの日。
朝9時半頃に、病院から電話が来た。情けないことに私はその時眠っていた。言い訳を許してくれるなら、明け方まで眠れずにいたから。。。けれど、この数日ずっとそうであった様に、電話の音にはすぐに気づいた。
「お母様の呼吸の様子が急に変わりまして、今、個室に移動するところです。大至急病院へ」
10分もしないうちに家を出た。どうやって仕度をしたか、どうやって運転したか全く覚えていない。弟に電話したことだけは、覚えている。何を話したかは思い出せない。
家から病院まで6キロ。けれど市街地を通り抜けるので、空いていても30分近くかかる。
運転している間にもまた、病院から電話が入る。「今、運転中ですか?」あと15分位かかります、と言って電話を一方的に切った。
病院に着いて母のところへ行くと、看護士さんがずっと声をかけていた。
「たったいま、呼吸が終わったところなんですよ」
胸が動いていない。
目も開いていない。
手を握ると、とっても温かかった。
閉じたまぶたに、涙が溜まっていた。
きっと私は、間に合わなかったんだろう。
あと10分、早く着けば。
いや・・・・・・・朝から病院に行っていれば。
前の夜、お願いして泊まらせてもらえばよかった・・・・・・・・・・・・。
「昨日の夜は、熱は下がらなくてもしっかり呼吸出来ていたようなんですけどね。。。お電話した頃からだんだん呼吸の数が減ってきて。けれど苦しまずにいたと思いますよ。ずっと目を開けてたんですが、最後はご自分で目を閉じました。」
土曜日なので、主治医はいなかった。当直の医師が、確認をする。
10:21 ご愁傷様です。
死んでから、冷たくなり始めるまでって・・・・どのくらいなんだろう。
私が病院に着いたときには、冷たいところはなかった。
けれど30分後には・・・・少しずつ、冷たく、硬くなっていった。
病院で最後の処置をしてもらい、葬儀業者に連絡をして出発の準備をする。
お昼前には、病院を出た。
現実問題として、葬儀をどうするか・・・考えておかなくてはいけない、と感じた頃から生前見積を複数社からとっていた。我が家は決して裕福ではない。予算など最初からなかった。元気だった頃から、母は「もしママが死んでも、葬式はしないでいいから」と何度も言っていた。けれど、現実になるとそう簡単にはいかない。母がお世話になったたくさんの方や、親類への報告を考えたとき、我が家でおもてなしを都度することは困難だった。そしてなにより・・・・病院から、母を家に連れて帰ってやれなかった。廊下をストレッチャーが通れない。
病院から、まっすぐ安置させてもらえるところを準備する必要があった。それであれば、小さくても葬儀をしてあげたい、と考え、家族葬を考えた。
母の年賀状や、母がいつも話していたことを思い起こし、お参りしてくださる人数を数えてみると、概ね30人程度だと思った。そのくらいの人数が入れる、良心的な家族葬ホールを見つけていた。
そしてもう1つ、難しい問題がある。
その後、のことだ。
両親はもう何十年も前に離婚しているけれど、幼かった私たち兄弟が学校でいやな思いをしないように、と、苗字を旧姓に戻さなかった。
母のお骨を、どこに納めるか。
母の実家側には、お墓ではなく納骨堂がある。苗字は父方でも、父の家の墓に入るわけにはいかない。けれど逆に、苗字が違うのに母方の納骨堂に入ることも、本来は違うのかもしれない。
私達兄弟に経済力があれば、母の為に新たに墓を建てるのが理想だと思う。けれど、ポンと買えるものでもない。私の『いつかしたい親孝行』が、母が気兼ねなく入れる墓を母が元気なうちに建ててやること・・・とずっと考えていたけれど、間に合わなかった。
私達は小さいときから母の実家で暮らしていたので、わたしは”ばーちゃんっ子”だった。もう亡くなって久しいが、祖母は「ママが死んだときはうちの納骨堂に入れてやりなさい」と言ってくれていた。
けれど、実際にはそんな簡単なことではなかった。
母の実家のその納骨堂があるお寺は、同じ宗派の中でも格式が高いところらしく、そこに納めるためにかかる費用が相場よりかなり高かった。
本来、通夜・告別式・繰上法要と行うためにそのお寺に頼むべきところで、法名もそこから頂かなくては納骨出来ない。けれど、それがすぐに準備出来なかった。
そんな中、良心的な見積を出してくれた業者の方からアドバイスを頂いた。
「そのお寺へは、直葬(葬儀をせずに荼毘に臥すこと)したことにして、ひとまずは無宗教葬で送るか、お布施が高くない住職にお願いすることも方法ですよ」と。
何処に納骨するかは、ゆっくり弟と相談して決めることにして、ひとまずの略式葬儀をすることにした。
母が亡くなったのは、大安の日だった。
2日後が友引(火葬場が休み)なので、即日の通夜をするか、または2日置いての通夜にしなくてはいけなかった。弟と相談して、焦らずゆっくり送ってあげることにした。
思いつく限りの方へ連絡する。
ほとんどの方に、病気のことも、入院のことも知らせていなかったため、ずいぶんと叱られた。けれどどの方も温かい言葉をかけてくださった。
通夜を含め、冷たくなってしまった母と一緒に3泊した。
最初の一晩は、棺に入らず布団に寝かされていたので、甘ったれの弟は、いつまでも冷たくなった母と、遊んでいた。顔を触り、手をつなぎ、布団を剥ぎ、大きな声で呼びかける。
彼なりの、お別れをしたのだろう。
小さな家族葬ホールだけれど、白木の祭壇がしっかり造られており、そこに生花が入るとそれなりの見栄えになる。これからの生活などを考えると、すこし控えめな量の花にしか出来なかった。
けれど、たくさんの供花が届き・・・すばらしい祭壇となった。
式場の方に言われる。「予定より弔問の人数が多くなることはよくあることなんですが・・・・問い合わせがかなり、きてるんです。もしかすると入りきらないかもしれませんよ」
そして、30人程度と予想していた私の計算をはるかに上回り・・・60名以上の方が来てくださった。
冷たくても、母がそこにいることと、骨になってしまうことは、なんだか違う。
火葬場では、炉に入っていく瞬間が、本当に切なかった。
「ママ!・・・・ありがとう!」
思わず、叫んだ。
骨になって出てきた時は、周りの目も気にせず、声を上げて大泣きした。
たくさんの供花と共に、自宅に帰ってきた。
箱に入ってしまった母が、未だに信じられない。
近所に買い物に行っても、茶碗を洗っても、涙が出る。
ずっと非協力的だった弟が、優しい。
やっと7日目を迎えようとしている。
もう、1ヶ月くらい過ぎたような気持ちになる。毎日が悲しく、切なく、慌しく過ぎた。
初七日の法要は特に行わず(繰上げ法要もしていない)弟と私の近しい友人の3人で母のお骨の前で食事会をしようと考えている。
あの日。
朝9時半頃に、病院から電話が来た。情けないことに私はその時眠っていた。言い訳を許してくれるなら、明け方まで眠れずにいたから。。。けれど、この数日ずっとそうであった様に、電話の音にはすぐに気づいた。
「お母様の呼吸の様子が急に変わりまして、今、個室に移動するところです。大至急病院へ」
10分もしないうちに家を出た。どうやって仕度をしたか、どうやって運転したか全く覚えていない。弟に電話したことだけは、覚えている。何を話したかは思い出せない。
家から病院まで6キロ。けれど市街地を通り抜けるので、空いていても30分近くかかる。
運転している間にもまた、病院から電話が入る。「今、運転中ですか?」あと15分位かかります、と言って電話を一方的に切った。
病院に着いて母のところへ行くと、看護士さんがずっと声をかけていた。
「たったいま、呼吸が終わったところなんですよ」
胸が動いていない。
目も開いていない。
手を握ると、とっても温かかった。
閉じたまぶたに、涙が溜まっていた。
きっと私は、間に合わなかったんだろう。
あと10分、早く着けば。
いや・・・・・・・朝から病院に行っていれば。
前の夜、お願いして泊まらせてもらえばよかった・・・・・・・・・・・・。
「昨日の夜は、熱は下がらなくてもしっかり呼吸出来ていたようなんですけどね。。。お電話した頃からだんだん呼吸の数が減ってきて。けれど苦しまずにいたと思いますよ。ずっと目を開けてたんですが、最後はご自分で目を閉じました。」
土曜日なので、主治医はいなかった。当直の医師が、確認をする。
10:21 ご愁傷様です。
死んでから、冷たくなり始めるまでって・・・・どのくらいなんだろう。
私が病院に着いたときには、冷たいところはなかった。
けれど30分後には・・・・少しずつ、冷たく、硬くなっていった。
病院で最後の処置をしてもらい、葬儀業者に連絡をして出発の準備をする。
お昼前には、病院を出た。
現実問題として、葬儀をどうするか・・・考えておかなくてはいけない、と感じた頃から生前見積を複数社からとっていた。我が家は決して裕福ではない。予算など最初からなかった。元気だった頃から、母は「もしママが死んでも、葬式はしないでいいから」と何度も言っていた。けれど、現実になるとそう簡単にはいかない。母がお世話になったたくさんの方や、親類への報告を考えたとき、我が家でおもてなしを都度することは困難だった。そしてなにより・・・・病院から、母を家に連れて帰ってやれなかった。廊下をストレッチャーが通れない。
病院から、まっすぐ安置させてもらえるところを準備する必要があった。それであれば、小さくても葬儀をしてあげたい、と考え、家族葬を考えた。
母の年賀状や、母がいつも話していたことを思い起こし、お参りしてくださる人数を数えてみると、概ね30人程度だと思った。そのくらいの人数が入れる、良心的な家族葬ホールを見つけていた。
そしてもう1つ、難しい問題がある。
その後、のことだ。
両親はもう何十年も前に離婚しているけれど、幼かった私たち兄弟が学校でいやな思いをしないように、と、苗字を旧姓に戻さなかった。
母のお骨を、どこに納めるか。
母の実家側には、お墓ではなく納骨堂がある。苗字は父方でも、父の家の墓に入るわけにはいかない。けれど逆に、苗字が違うのに母方の納骨堂に入ることも、本来は違うのかもしれない。
私達兄弟に経済力があれば、母の為に新たに墓を建てるのが理想だと思う。けれど、ポンと買えるものでもない。私の『いつかしたい親孝行』が、母が気兼ねなく入れる墓を母が元気なうちに建ててやること・・・とずっと考えていたけれど、間に合わなかった。
私達は小さいときから母の実家で暮らしていたので、わたしは”ばーちゃんっ子”だった。もう亡くなって久しいが、祖母は「ママが死んだときはうちの納骨堂に入れてやりなさい」と言ってくれていた。
けれど、実際にはそんな簡単なことではなかった。
母の実家のその納骨堂があるお寺は、同じ宗派の中でも格式が高いところらしく、そこに納めるためにかかる費用が相場よりかなり高かった。
本来、通夜・告別式・繰上法要と行うためにそのお寺に頼むべきところで、法名もそこから頂かなくては納骨出来ない。けれど、それがすぐに準備出来なかった。
そんな中、良心的な見積を出してくれた業者の方からアドバイスを頂いた。
「そのお寺へは、直葬(葬儀をせずに荼毘に臥すこと)したことにして、ひとまずは無宗教葬で送るか、お布施が高くない住職にお願いすることも方法ですよ」と。
何処に納骨するかは、ゆっくり弟と相談して決めることにして、ひとまずの略式葬儀をすることにした。
母が亡くなったのは、大安の日だった。
2日後が友引(火葬場が休み)なので、即日の通夜をするか、または2日置いての通夜にしなくてはいけなかった。弟と相談して、焦らずゆっくり送ってあげることにした。
思いつく限りの方へ連絡する。
ほとんどの方に、病気のことも、入院のことも知らせていなかったため、ずいぶんと叱られた。けれどどの方も温かい言葉をかけてくださった。
通夜を含め、冷たくなってしまった母と一緒に3泊した。
最初の一晩は、棺に入らず布団に寝かされていたので、甘ったれの弟は、いつまでも冷たくなった母と、遊んでいた。顔を触り、手をつなぎ、布団を剥ぎ、大きな声で呼びかける。
彼なりの、お別れをしたのだろう。
小さな家族葬ホールだけれど、白木の祭壇がしっかり造られており、そこに生花が入るとそれなりの見栄えになる。これからの生活などを考えると、すこし控えめな量の花にしか出来なかった。
けれど、たくさんの供花が届き・・・すばらしい祭壇となった。
式場の方に言われる。「予定より弔問の人数が多くなることはよくあることなんですが・・・・問い合わせがかなり、きてるんです。もしかすると入りきらないかもしれませんよ」
そして、30人程度と予想していた私の計算をはるかに上回り・・・60名以上の方が来てくださった。
冷たくても、母がそこにいることと、骨になってしまうことは、なんだか違う。
火葬場では、炉に入っていく瞬間が、本当に切なかった。
「ママ!・・・・ありがとう!」
思わず、叫んだ。
骨になって出てきた時は、周りの目も気にせず、声を上げて大泣きした。
たくさんの供花と共に、自宅に帰ってきた。
箱に入ってしまった母が、未だに信じられない。
近所に買い物に行っても、茶碗を洗っても、涙が出る。
ずっと非協力的だった弟が、優しい。