はい、もうそろそろ発売から一ヶ月経とうとしています
せっかくなので今日はウォーミングアップで長文考察いきます
予定としては来週から歌詞の方の考察を手をつけてみようと思います
今回のことの発端は「ギジリの服おかしくない?」という話を
耳にした所から始まります
和服大好きな妹にギジリの絵を見せた所
「やっぱおかしい」と言いいました
何処がおかしいかと尋ねた所・・・
「だって、着方がおかしいもん!
桔梗は右から左に着てるけど
ギジリは左から右に着ている線の動きだから」
・・・なるほどねw
流石絵を描くだけあって、
私が分からなかった点を気がついてくれました
携帯サイトなどから見れるMAYAさんのギジリの絵をみると
左側を先に折り込んで着ていますね
これはポッフンのギジリにも言えることで
ダンスオジャマの際に正面を向いてまして
これも左を入れて右を入れてます
一方、着物や浴衣を着る時は右側を先に折り込みます
国語便覧に載ってる歴代の服装を見てみると
奈良時代からずーーーーーっと右側が折り込まれてる服装です
こうして、考察者として火が付きまして
躍起になること約一週間・・・
やること投げ散らかして調べてみましたwww
まず、ギジリの左側を先に折り込んでから右側を折る着方を
「左衽(さじん・ひだりえり)」といいます
着物に詳しいお祖母さんなどに聞くときには
「左前」のほうが分かりやすいかもしれません
(「衽」とは服を中に入れる事)
反対に今の着物の着方は右衽といいます
着物が右衽なのは、右ききの人が多い日本では
そのまま右手を懐に入れることができるし、
また、着物を着る時に帯を結びやすい
武士が左腰に差した刀を右手でシャキーンと抜く場合、
右衽だと刀のつばが前身ごろの端にひっかかりにくくなります
身近な文化としてこの左衽は「死装束」が挙げられます
死装束とは読んで字の如く
死んだ人に着せる服のこと
うらめしや~でお馴染みの幽霊が着ている白い和服が死装束です
(正式には白い経帷子(仏衣)という)
現在の死装束では、亡くなった人が愛用していた
寝巻きや浴衣なども着せているそうな
白いあの服だろうが、現代風にパジャマや浴衣であろうが
普段とは逆に合わせの左衽で着せることにはかわりありません
これには死者があの世にいって、
生者と死者の見分けができるようにと思いが込められています
これから、左衽=非日常的な死の世界へ行くことを象徴してます
もしも、日常で左衽をしようとしたら
自分から死に行くようなもので非常に縁起が悪いです
なので間違っても左衽をしないようにしましょう!!!
さて、古代には左衽が何を意味していたかと調べてみますと
なかなか興味深い歴史がありました
日本にはこの折り込み方に意味はありませんでした
右を先に折り込もうが左を先に折り込もうがどちらでもOKで
各地で発掘された古い時代の埴輪や土偶は左衽、右衽どちらもあります
これが変わってきたのが大陸から文化が伝わってきた頃です
まずはじめに、日本は新羅、高句麗、百済などの
朝鮮と貿易するようになります
彼らの衣装は左衽でした
積極的に外国の文化を取り入れようとしていたので
左衽は官僚の中で広まっていきました
その時代に造られた高松塚古墳の壁画は左衽となっています
そして、時代が下ること7世紀前期になると
今度は唐こと中国との貿易と切り替わっていきます
この中国では右衽の服装でした
これは先程書いた朝鮮3国の蛮族や
モンゴルなどの遊牧騎馬民族の衣服は左衽であった為ですね
なので、彼らは左衽=身分低い者、侵略者というイメージがあったみたいです
貪欲に取り込む日本でしたから
左衽から右衽へと変えてしまうわけ
大体7世紀の始めは左衽が多数派だったのが
8世紀が入る頃には全員が右衽へとなったと推測されています
この事は養老3年(西暦719年)にお触れが出てます
「初令天下百姓右襟」
今の言葉におおざっぱに直すと、
「位の高い人や下にいる農民ひっくるめて全員右衽にするようにと
政府からお触れが初めて出された」
という感じです
政府から右衽にしろと命じられたわけでして
それ以来ずーーーーーっと日本では右衽となった経緯があります
何故そこまでして政府は右衽を強要したかといいますと
この頃の日本では左衽=朝鮮の文化、右衽=唐の文化という風に捉えられていました
唐の文化を押し進めたい政府は左衽をやめさせることで
市民から朝鮮の文化から離れさす意味があったと考えられています
これを踏まえましてギジリの左衽についての考察
ギジリは大きくなった時の赤い衣が左衽
一方、子供の頃の衣装は右衽ですね
つまり、大人になってから左衽を始めたことになります
まずは左衽=死装束という考えをすると
あの赤い衣は死人を表してます
中二風に言えば「昔の俺は死んだ!!!」というやつですねwww
ただ、死に装束は仏教の考え方が元なので
神道をベースにしているマシノワとしては
似つかわしくない気がします
では、今度は左衽→右衽となった歴史からアプローチをかけてみますと
「カガチジンは元々は左衽」と仮定すると
すっきりいくかなと思います
子供の頃が右衽なのはヤマジジンが強要したことではないかと
ヤマジジンの人々にとって自らの文化圏に溶け込ませるには
カガチジンの文化を強制的に変えさせて屈服させるのが一番です
歴史上でも満州族の清朝が漢民族がいる中国を征服する際に、
漢人に対して「服従の証」として
満州族の衣服を着ることと辮髪(べんぱつ)を義務付けました
(辮髪はキン肉マンのラーメンマンの髪型で大体あってる)
髪の毛を剃るこの辮髪は漢民族には非常に屈辱的だったそうです
なぜなら、彼らが信仰する儒教では例え髪の毛一本であっても、
親から貰った体を傷つける事を不孝としていたからです
清は辮髪を伸ばしている者は反逆者みなし
「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」
(「頭を繋ぐのは髪の毛長いままで結んだりしないこと
髪の毛を結ったら頭をはねる!」)
といいました
やらないと殺されてしまうというわけ
こうして、見事に満州族は漢民族を自分達の文化へと溶け込ました
・・・話はちょいとそれましたが
このように服装などの強要はあります
ギジリは昔のカガチジンの名誉を復興しようとしていますので
あえて左衽の服装にしたのではないでしょうか?
これから子供の頃との服の違いや
ギジリが大人になっても右衽を続けなかった理由になると思います
・・・というわけでここまで!!!
現存する左衽の像は女だらけだった\(^o^)/
死装束の影響か左衽の物が本当に少ないんですよ、これが!!!
東大寺の宝物庫に残ってるぐらいでして
その1体がこの左衽が主だった頃を偲ばせています
その他に男子のものは僧侶がわざとやっていたもので
型式に捕われないという意思表示だったそうです
これは10世紀頃の作品らしいので、
今回の話とは時代が離れ過ぎかなと思い、反映はしてありません
左衽が多い女性の像とか、女性の小物の比禮とか
ギジリがなんか女物を着ているイメージが強くなったのでしたwwwwww