今日は、あえて帯付きで


 『詩の中にめざめる日本』

 真壁仁編

 1996年10月20日 第1刷発行

 2021年12月6日 第18刷発行

 岩波新書の限定復刊


名詩といわれる詩ではなく

名もない民衆によって書かれた詩を

集めた本です。(一部を除いて)


ここでいう名もない民衆とは

有名でないということだけではなく

人格をもった人間としての存在を

認められなかったために姓名が

なかった時代から

むしろ名を隠すことで身を守ろうと

考えてきた大衆の存在様式をも

意味している。

しかし、詩を書いてそれに署名する人々は

もはや大衆ではなく民衆であるというのが

真壁さんの考え方。


「民衆がことばをじぶんのものにし、

ことばをつらねて一つながりの

章句として表現し、だれからも

ゆずり受けなかった形のない財産を

一つひとつゆたかにしていくということは、

とりもなおさず民衆が思考と体験の領域を

ひろげていくことである。

生産するもの、生活するものの側に

ことばをとりもどすことである。

しかも決して文学書を読んだり、辞書を

ひらいたりすることでことばをひろって

くるのではない。体験が、ことばをもとめ

考え、つくりだすはたらきに民衆を

とりこんでいくのである」


民衆が体験したもの

それは貧困、差別、戦争、原爆

民衆が目を向けたもの

花岡事件(太平洋戦争中、秋田県にて

中国人捕虜993人が虐殺された事件)

アウシュビッツ、ベトナムなどの

社会の出来事や世界の歴史


木村迪男さんは祖母を詩に書かれています。

夫を日露戦争で、息子2人を太平洋戦争で

失い、貧しさの中で生きた祖母。

その祖母がうたうのです。

「にほんのひのまる

 なだてあかい

 かえらぬ

 おらがむすこの ちであかい」


伊藤和さんが書かれた「すいか」

はたけに、おおきくそだったすいか。

子どもたちは楽しみにしている。

子どもはどんなに食べたいだろう。

親はどんなに食べさせたいだろう。

でもただの一つも食べさせて

あげることはできない。

とおくのまちへ、うりにいかなくては

ならないせつなさ、悲しみの詩。


民衆の想いが、ことばを越えて

胸に突き刺さる一冊。

ここに書かれているのは

民衆の戦後史です。