雨の匂いが、静かに街を包んでいた。
彼女――凪紗(なぎさ)は、ベランダに出て、夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。
耳に届くのは、車の音、そして遠くで誰かが笑ったような気配。
でもそれらはどこか輪郭がぼやけていて、「わたし」という存在を中心に、世界は静かに呼吸している。
働いている場所では、指示は曖昧で、誰かの怠惰が「甘え」のように押しつけられる。
「あなたは自分の立場をわかっていない」
そう言われるたびに、頭の中がぐらりと揺れて、神経が痛んだ。
でも――そんな言葉に、凪紗の信念は折れなかった。
「間違ってるものには、間違ってるという」
そう。自分を守るために戦ってきた。
理解されない痛みも、誤解される怖さも、全部抱えて、
それでも「好き」を選んできた。
雨の匂いを感じながら、彼女はふと思った。
「空が曇ってるのは、わたしの心と似てるからだろうか」
でも、ふと視線を移すと、
その雲の向こうに、夕暮れのオレンジが顔を覗かせていた。
「……やっぱり、オレンジの空って、ちょっと好きかも」
海の見える街――熱海。
温泉に入って、美味しいものを食べて、おしゃれなカフェでぼんやりして。
写真も撮るかもしれない。
でもそれは、SNSにあげなくてもいい。
ちゃんと「わたしが感じた」ってことだけ、覚えてればいい」
凪紗は目を閉じる。
そして思う。
「このままでいいのかな」
――そうじゃない。
「このままじゃなくても、わたしはわたしをやめない」
その時、どこかで風が吹いた気がした。
心のなかの曇り空の向こうにも、
きっと、オレンジ色の空が広がっている