私は日々過去のことを思い出しては後悔を反芻している
自分の性格上やると決めたことには120%を注ぎ、他のことに意識は何も向かない
なので一つやり遂げた時にふと振り返るとあまりの自己中さに自分に失望してしまう
一つ、過去の話をする
昔私は空手を習っていた。なんやかんや練習して強くなり、一度流派内での大会で
組み手で表彰された。そこからはその流派の強化合宿に呼ばれたり、
同学年の強い子に一目置かれるようになった。
僕は辛かった。周りが執念抱いて必死に練習している中、対して身を入れることのできない
自分が浮いているようで仕方がなかった。
そもそもその強化練習の中では下手の部類でやられてばっかりだった。
そこで迎えた市大会は一回戦で散ったのはいうまでもない
でも何よりしんどかったのは2度目の流派大会だった
対戦相手は私の“ライバル”の友人だった
ライバルはその友人に「あいつ、マジで強いから」
そう言われたらしょうがない、思いっきりやってやろう
反則負けだった
大差で勝っていたものの実力を見せつけたいがためによくばり、顔にぶつけてしまった
そこで"ライバル"の目線はもう私にはなかった。
そこで我に帰った。
またからぶったな。"ライバル"の気持ちを裏切ってしまったな、と。
そこからはもう練習に参加できなくなった。合わせる顔がなかったから。
相手の私に向けていた気持ちはきっと期待の眼差しだったんだと思う。
「やっと、自分と全力を出して戦えるライバルが同じ流派から出てきたんだ」
とでも思っていたんだと思う。これこそ自意識過剰であるかもしれないが、
それぐらい彼は当時は流派の中では抜きん出た強さと才能を持っていた。
私は立ち向かえなかった。彼の期待を裏切ってしまった。
メダルをもらったという光よりも彼を裏切った陰があまりにも濃いのである。
こうやって自分の心の中には栄光よりも後悔の経験だけが残っていってしまった。
自分がやり遂げたことが一つ増えるたび、時間が経ったらそれがトラウマになっている
こういう経験を重ねていくうちに今や何かに没頭することにも恐れるようになった
全力を出すことを躊躇してしまっている。
「やればできる」という呪文をかけては自分に呪縛を重ねがけしていく。
気づいたらもう身動きが取れなくなっていた。
結局、呪文を唱えるより先に何か行動した方が良いのだろう。
多分頭で考えている時間があるから黒歴史反芻思考をしてしまっているのだと思う。
ブログをまだ2回しか書いていないが、この2回を通して思ったことは
言語化行為は自分のこの後の行動のハードルを下げているということ
勉強の前で手がつかなくなった時、大体は何かしょうもないことを考えている時
それをブログで文字化しきることで頭の中身がリセットされている実感がある。
そういう意味では私はこのブログは商業化目的で書くつもりはない
自己中かつブログらしからぬ動機で私は“つぶやいて“いきたい
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最近は韓国語を片手間に触れているんだけれど、英語習得時に味わった初めの障壁を再度感
じていて、今更めんどくささに圧倒されています。
というか韓国語は発音が難しい。英語とは別のベクトルで困らされているという点では言語
の性質の違いを痛感させられている反面、これも言語習得の面白さなんだなと思うね。