この記事は2月1日の活動記録です。

 

最近、大河ドラマでホットな話題である明智光秀。その縁の地へ行ってきました。ドラマではまだ序盤ですが本能寺の変の少し前、明智光秀は信長を討つにあたり武運を祈願するために、京都の愛宕山の愛宕神社へ向かったのですが、その峠道は現在、明智越えと呼ばれています。当時は亀岡から京都へ抜ける重要なルートだったようです。


明智光秀と同じように亀岡から京都の水尾へ抜けて、そこから愛宕山を登るのが醍醐味ですが、色々ありまして、明智越えとその周辺を散策登山になりました。


車の駐車場所の関係上、亀岡とは反対側の水尾から明智越えに入り、亀岡に抜けたらピストン
(※ピストン・・・登山用語で往復の意)します。その途中で清和天皇陵(明智光秀は清和天皇の家系だということです)に立ち寄る予定です。


出発場所の水尾集落は柚子(ゆず)の里といい、山から流れる綺麗で豊かな水の恩恵を受けて柚子栽培の果樹園がたくさんあります。





身近に迫る険しい山々と、山間に立ち並ぶ趣のある家屋、そして柚子の果樹園が相まって、静かで落ち着いた独特の雰囲気を醸し出しており、日々の喧騒を忘れさせてくれます。


駐車場所からすぐに遊歩道があるので、そこから明智越えに入れるはずです。

 

 

・・・はずです。

 

 

は・ず・で・す。
 

正確にははずでした。」

スマホの山アプリ通りに実線ルートを辿って歩いて行くと、どうもルートを辿ることが出来ず、無理やりにルート通りに行こうとすると、とんでもない所に入ったりして、どうしても明智越えに入れません。相方も紙地図で確認していたのですが、出発直後にこんなに迷うとは・・・。40~50分程度、探しまくってようやく見つけました。

明智越え

 

 

ここからいよいよ亀岡に向けて歩き始めます。
このルートはハイキングコースとして紹介されていますが、これはもう立派な登山で、登山靴も履いておかないと怪我しそうです。途中ですれ違った2組の方もガチな登山装備でした。



倒木がチラホラありましたが、歩き安いフラットな部分や、急登、ちょっとした岩肌のところもあって、飽きない道です。




それと、このルート上には保津百景道しるべという看板が多数設置されており、この地域の歴史に触れることができます。明智光秀の逸話なども多数あり、楽しみながら歩けます。QRコードも付いてます。稜線上に出ると勾配も緩やかになります。

 

 

下記写真の土用の霊泉とは、真夏の土用の日でも枯れることのない湧き水場があるそうです。光秀が薬草を清めたといわれ、夏でも枯れないことに感心したそうです。




そして京都の街が一望できる場所もあります。明智光秀もここから京都を眺めて決心を固めたと言います。




そして明智越えのほぼ頂点にに清和天皇が隠居され、この地で崩御されたといわれのある峰の堂(みねのどう)があります。
明智光秀が愛宕詣で利用した明智越えにある峰の堂を、光秀の志半ばにして散った無念さに鑑み、いつしか無念堂(むねんどう)と呼ぶようになったと言われています。
(HP光秀公のまち亀岡より抜粋))

ピークを越えて下りも結構楽しいです。どんどん下って亀岡側に出ました。



本来はここから登ります。

 

 

登り口にある看板によると愛宕神社は全国43都道府県に1000社近くもあり、愛宕山と称する山は二十座あるとのこと。

 


昔から愛宕信仰というものがあったようです。明智光秀は愛宕神社で連歌会を開くなど、愛宕神社を結構贔屓(ひいき)にしていたのではないかと相方と話しながら歩いてました。亀岡では今でも英雄として慕われているのはその名残なのではないでしょうか。(根拠の無い個人的な感想です)


さて、靴の紐を締めなおしたら明智越えを引き返します。


先ほど見た景色ばかりなので、淡々と歩くだけですが、清和天皇の天皇陵を見に行こうと、途中でルートを外れて神明峠へ。

 

 

 

ここからの尾根沿いの道が綺麗でした。すぐ東側には山頂にうっすらと雪が積もった愛宕山が見えます。いつも登っている竜ヶ岳、地蔵山は愛宕の向こう側で見えません。

この日は雪がチラホラの寒い日でしたが、天気が良ければ凄く気持ちが良いと思います。


目的地は清和天皇陵でそこに祠があるということなのですが、実はこの道からはそこにはアクセスできず、麓から山を上がって来ないと駄目らしいです。

 


それに気が付いたのはかなり進んだところでした。NTTの通信設備がありました。ちょうどこの下に目的地があるようですが、とても降りられる様子ではありません。


今日はここで引き返しますが、山アプリによると下山する近道があるようです。破線ルートですが
(※破線ルートは荒れていたり通行止めなどの可能性がある登山道)多少荒れているくらいならクリアできるだろうと、そのルートへ向かいます。


が、

これが不正解でした。もはやルートと呼べるものは無く、道の無い山の急斜面をひたすら降りて行くだけとなりました。途中で何度か足を滑らせてずり落ちながら。

 


プチ滑落ですね^^;しかもどこに下山するのか?それ以前に下山できるのか? このまま道なき道を降りて行くのか引き返して登るのか?かなり判断に迷いましたが、このまま下山続行しました。下まで降りて駄目だったとしてもこの距離なら、また登り返して尾根に出ることも可能。

いざという時のロープも準備してましたが、使うこともなく林業作業用の道に出ることができたので、無事に一般林道に復帰できました。


最初から最後までルートに悩まされる日でしたが、行動時間は6時間で距離は14キロと結構歩けたし、色んな場所を見て歩いて、歴史を身近に触れながらの登山で楽しかったです。



明智光秀がこのルートを歩いて愛宕神社に戦勝祈願に訪れたおよそ1週間後、本能寺の織田信長に奇襲をかけるわけですが、(その時は三軍に分かれ、その内の一つの軍勢が明智越えを通っているそうです)
何故、主君である信長を突如として襲ったのか、歴史上最大のミステリーと言われています。その理由についてハッキリとした資料も無く、50を超える色んな説があるそうです。しかし、信仰心が厚く神仏を信じて敬っていた明智光秀にとって、自分とは対照的に神仏を信じず恐れず比叡山の焼き討ちまで行ってしまうなど、信仰を大切にしない(諸説あるようですが)信長が、光秀の目にはどういう風に映っていたのでしょうか。


ひょっとしたら「この人に天下は任せられない」と虎視眈々と下剋上を狙っていたのではないかと。そんなことも考えられなくもないと思えてきました。どちらが善とか悪とかではなくて思想、価値観、野望などそれぞれの思惑が歪を産むのは昔も今も同じですね。


そのあたりの明智光秀の心情をドラマでは、どう描くのか興味深いところではあります。




ただ、その前に、


大河ドラマ全然見てないんですけど。笑