ヨーロッパ人とアメリカ先住民どうしの最も劇的な衝突は、スペインのピサロらによるインカ帝国征服である。カハマルカの戦いでは、兵力ではピサロ側が168人、インカ帝国の皇帝アタワルパ側が数千人と、アタワルパ側が圧倒的に優勢だったにもかかわらず、ピサロ側は無傷でアタワルパを捕虜にし、処刑した。

スペイン側は鉄製の剣や槍、銃器、騎馬隊を持っていた。対するインカ帝国側は金属製の武器を持っておらず、銃器を持っておらず、馬を持っていなかった。つまり、スペイン側の持つ武器が圧倒的に有利だったため、ピサロはアタワルパを簡単に捕虜にすることができた。

ピサロの上陸当時、中米に移住したスペイン人が持ち込んだ天然痘がインカ帝国で流行し、インカ帝国の王位継承者が次々と死んでいったことを発端として、王位をめぐる内戦が勃発していた。そんな中、アタワルパは戦いから帰る途中にカハマルカでピサロと遭遇してしまった。天然痘で国がバラバラになっていなければ、ピサロに勝ち目はなかったかもしれない。

スペインは集権的な政治機構のもとで船の建造資金や乗組員を集めることができ、加えて優れた航海技術、造船技術を持っていた。また、スペインには読み書きの伝統があったので、ピサロは過去に南米に渡った船員の記録を読み解くことでスムーズにインカ帝国へ上陸できた。これに対して、インカ帝国は航海技術、造船技術を持っておらず、読み書きの伝統がなかった。そのため、アタワルパがスペインに上陸するというパターンは起こり得なかった。

読み書きができないことは、ピサロたちの実力を見誤ることにつながった。文字がなかったため、アステカ帝国がスペインのコルテスによって征服されたことすら伝わっていなかったのである。スペイン人についての情報、人間の行動や歴史などについての情報を持ち合わせていなかったことが、アタワルパがピサロの術中にまんまとはまってしまったことにつながった。

スペインのインカ帝国征服の図式は、ヨーロッパ人の他の大陸の征服の図式と一致する。銃・病原菌・鉄こそが、ヨーロッパ人がほかの大陸を征服できた要因なのである。