18歳にして初めてちゃんと芥川賞作品というものを読んだ。

一日を通しての納屋の草刈りをめぐるメインストーリーがあり、各章で印象的に描かれている物事にまつわる過去のエピソードが合間にはさまっている、めずらしくておもしろい構成だなというのが第一印象だった。

主な登場人物は、ヒロイン格の奈美、その従姉妹の知香、奈美、知香の母がそれぞれ美穂、加代子、その兄哲雄、美穂の実の母であり加代子と哲雄の叔母である敬子である。

メインストーリーを一言で要約すると、高齢の敬子の手伝いも兼ねて長崎の小島にある美穂たちの実家の吉川家の古い納屋の草刈りに奈美たちが嫌々付き合わされる、というものだった。

合間の過去のエピソードはそれぞれ独立したもので、「古か家」にまつわるエピソード、広い土間と芋粥にまつわるエピソード、鯨漁の村一番の刃刺にまつわるエピソード、カヌーにまつわるエピソードが描かれていた。

主題は何なのだろうと考えながら読み進めていると、「夕方」の章で奈美の心情が動き出した。奈美は冒頭から、なぜもう使われていない納屋の雑草を毎年刈るのか疑問に思っていたのだが、草刈りが終わった後にその答えに近づかんとするのである。どうやら、時の流れを描いた作品であり、背丈の大きい納屋の雑草はその時の流れを象徴的に描いたものらしいということがわかった。

物事が永遠に続くということはありえない。物事には経過した時間の先の姿、朽ち果てた姿がある。しかし、人の手が加えられ続ける限りその物事の時間は止まったままで、朽ち果てることはない。

物語中の納屋はもう長いこと使われておらず、本来ならば朽ち果て存在しないはずである。しかし、美穂たちが毎年草刈りに来ることで納屋は朽ち果てることなく、時間は止まったまま存在し続けている。古か家、新しい方の家も毎年掃除することによって同様に存在し続けている。

作品中の「朽ち果てる」というのは、おそらく、単に物理的に壊れた状態になるということを意味するものではない。手入れがなされなくなる状態、つまり、みなから忘れ去られた状態になることを意味するのだと思う。

「存在するとは知覚されることである("esse est percipi")」バークリー(1685~1753)

合間の過去のエピソードのストーリー自体は作品中においておそらくそこまで重要ではない。しかし、これらのエピソードがあることで、島の至る所に見られる流れた時間の先の景色というものが強調されているのではないかと感じた。

人は何の時間を止めておきたいと思うのだろうか。僕の場合、大切な人といる時間は生きている限り止めておきたいと思う。そのためには、大切な人の写真や遺品や部屋は定期的に手入れし続けなければならないだろう。そうしなければ、その人といた時間は一気に朽ちて寂しいものになってしまう気がする。記憶は時間の経過とともに形を変えていくものだから。

なぜ、小説の名前を背高泡立草にしたのだろうか。物語中で背高泡立草は、「帰路」の章で納屋に生えていた雑草の一つとして登場し、花言葉が濁されている場面もある。調べてみると花言葉は、「生命力」、「元気」などだった。花言葉から推理すれば、人が手を加え続けることで物事は時間が止まったまま存在し続けるということと「生命力」を結びつけたと考えられなくもない。真意は僕にははっきりとはわからなかった。

背高泡立草、めちゃめちゃおもしろかったので、みんなも読んでみてね。