中野区子供家庭支援センター通信 | 友松直之のブログ

中野区子供家庭支援センター通信

中野区子供家庭支援センター 様

 

 

 まず、我々(父・友松直之、母・花澤誠子)の息子・福吉との母子家庭生活について、養育者・花澤誠子は、何らサポートを求めておらず、逆に、このような干渉は、無駄に時間を取られ、非常に迷惑に感じていることを認識しておいていただきたい。

 学校生活の中で福吉が要求されるあれこれ(提出物、準備物、登校時間、授業態度など)について、福吉が十全にできていないことを、養育者・花澤誠子は認識しており、俺友松も聞き及んでいる。学校関係者(教員たち)から、再三の注意や苦言を受け、花澤はそれを非常にストレスに感じている。

「ああ、私がしっかりしなければ」と、福吉が学校の要求に応えられるよう、熱心に家庭内指導し、それができない福吉を叱りつけている。

 それについて俺友松は花澤と話し合い、「俺も小学校時代は『できない子』だったし、君もそうだったと言っていたじゃないか。福吉が『できる子』であるはずがなく、またそうである必要もない」と、何度かアドバイスめいたことを口にしている。問題なのは学校が児童に要求するあれこれの難易度が高すぎることであると俺は考えている。

 これについては「去年まで保育園に通っていた子供に独力でできるわけがない」と、中野区子供家庭支援センター職員の同意も得ている。その通りである。だが、職員の「だからこそ、親のサポートが不可欠」という論理展開には同意しかねる。

 親は、子供が学校から要求されて悲鳴を上げるあれこれについて、サポートすべきではない、と俺は考える。

 サポートするというのは、とりもなおさず家庭指導ということになり、親が(家庭が)子供に対して、学校の同調圧力となって子供を責め立てる、ということに他ならない。宿題しなさい、時間割調べて明日の準備をしなさい、プリントを見せなさい、朝起きなさい、遅刻しないように登校しなさい、先生の言うことを聞きなさい、授業を真面目に受けなさいなど、あれこれ、叱るネタには尽きないだろう。

 問題はあくまで、学校が児童に要求するあれこれの難易度が高すぎることにある。それなのになぜ親が学校と一緒になって子供を叱らなくてはならないか。

 親は(家庭は)どこまでも子供の側に立って、どこまでも子供の味方でなくてはならないと俺は考える。子供が悲鳴を上げているのなら、飛んで行って抱きしめて慰めて、一緒に泣いて、一緒に怒ってやるべきである。

 学校なんてクソだ。要求される実現不可能なあれこれなんて何の根拠もない戯言ばかりだから、全然気にすることはないんだ、君が「できない子」なのは、学校の要求に「応えられない子」という意味でしかなく、君の価値が全否定されたわけでは全然ない、君には素晴らしい価値がある、我々の大切な、我々の自慢の息子だ、学校の(先生の)言うことなんか全部無視してもいいんだ、と言ってやるべきなのだ。

 考えてみて欲しい。会社員が会社の上司だか得意先だかに責められ叱られケナされイジメられて泣きながら帰宅した際に、妻や子供が会社と同じ立場で責め叱りケナしイジメてきたら、父(夫)である会社員に立つ瀬があるだろうか。

 夫(父)と一緒になって会社の悪口を言い、上司や得意先の誰それが何と言おうがあなた(お父さん)は悪くない、あなた(お父さん)は最高だ、あなた(お父さん)大好き、と言ってくれてこその家族ではないだろうか。

 逃げ場としての家庭、というものを軽く考えてはいけない。日本の自殺者数が世界最高(最悪)水準を誇っているのは、まさにこの「逃げ場としての家庭」が機能していないからではないのか。

「学校は子供の敵である」と俺は認識している。

 会社は社員の敵であり、社会は個人の敵であるという文脈において、非常に限定的な意味においてではあるが、「学校は子供の敵」である。

 家庭は(親は)絶対に学校の同調圧力になってはいけない。学校が子供に対して要求する馬鹿げた無理難題を、サポートするという名目で、学校と一緒になって子供を叱ってはいけない。家庭は(親は)子供の逃げ場でなくてはならないのだ。

 もちろん、「個」としては脆弱なヒト種が「社会」を作って強大になり万物の霊長として他全種を圧倒したように、あるいは、「会社」がくれる給料がないと「社員」が生活できないように、「子供」が「学校」から受ける恩恵は計り知れない。教育内容のあれこれ(読み書き計算)も、叩き込まれる規律の数々も、のちの社会生活に重要かつ有用かつ不可欠なものばかりだ。

 それでもなお、全てのドラマが社会と個人の軋轢を描くことで生まれるように、会社は社員の敵であり、社会は個人の敵であり、学校は子供の敵なのだ。

 学校なんて行かなくてもいいとは俺は言わない。行って来い、行って戦って来い、教師にイジメられて来い、と言う。七歳は社会の不条理な仕組みの片鱗に触れるにはちょうどいい頃合いだろう。叱られてケナされてイジメられて泣いて帰って来たら抱きしめて慰めて愛してやるから心配するな。骨は拾ってやる、と言ってやりたい。

 だが、学校がほざく「家庭でも指導、サポートしてください」という噴飯ものの提言には強く反発する。そんなことは絶対にしない。何が何でもしない。してたまるか。親が(家庭が)学校による「子供イジメ」の片棒を担いでどうするのだ。学校が親にそんなことを期待するとは何事か。職務怠慢ではないのか。馬鹿が。

 親は甘やかすばかりで、教育的指導は全て学校任せの丸投げ、が正しい。悪者役は学校だけに押し付けて親はべたべたのあまあま、が正しい。

 親が子供に教えるべきなのは、人を殺すな、他人の物を盗むな、女を犯すな、人類史の最初期に書かれたハンムラビ法典にも記述がある、三罪くらいで充分だろう。

 それにしたところで、世の中ではそのようになっている、という注釈付きの教示にとどまる。罪は社会との軋轢が生み出す悲劇であり、絶対正義があり得ないように絶対的な悪もまた存在しない。善悪はあくまでも相対的なものでしかない。

 犯罪者を隠匿すれば犯人隠匿罪に問われるが、一親等親族に対しては例外が認められている。罪を犯した息子を親がかばってかくまうことは、日本の法律も認めていることなのだ。そんな法律などなくとも、俺は躊躇なく息子の側に立つだろう。世間体や社会正義など、いつでも敵に回してやる。

 あと、親が子供に教えるべきことは、弱きを助け強きをくじけ、汝の隣人を愛せよ、色即是空、物欲は虚しい、金も女も試験の点数も目先のあれこれより、もっと自分にとっての本当の価値を見つけろ、女とは戦うな、女と戦っても勝ちはなく価値もない、女はケンカする相手ではなく愛し合う相手であり、女がキャンキャン騒いでもスッキリ無視しろ、など、抽象的な人生観ということになるだろう。これは言葉で教えるだけではなく、態度で示すべきであり、親として襟元を正さねばならないだろう。

 それが何? 何だって? 準備物? 提出物? 宿題? 遅刻? 授業態度? 何じゃそれは。そんなどうでもいいあれこれは学校で勝手に教え、勝手に取り締まっていればいいのだ。親の(俺の)知ったことではない。

 大人になれば自然とわかることばかりじゃないか。会社で準備物、提出物をおろそかにし、遅刻し、勤務放棄すれば、給料は減額され、懲戒解雇され、たちまち路頭に迷うだろう。そうなってから身を持って学べばいいことだ。

 あるいは、うまく会社勤めができないなら、リラクゼーションサロンを自宅経営する母・花澤誠子のように起業してもいいし、その才覚もないなら、フリーランスで作家・映画監督を自称する父・友松直之のようにもっと反社会的にカブくことだって、ヨタることだってできるのが実社会なのだ。

 実社会は学校ほど厳しくはない。ずっと自由度が高く、ずっと個人の(個性の)振り幅が広く許容されている。

 誤解を恐れずに言うならば、「社会なんて(世の中なんて)甘い」。学校の四角四面な教条主義など、頭から否定してかかっても何の実害もないのが現実なのだ。

 そんな程度の無価値で馬鹿げた学校教育のあれこれに「親のサポート」を要求するな、という話なのだ。

 母・花澤も、父・友松も、自分の人生が忙しくて子供の学校のことなどかかずらわっていられない。二の次、三の次。などと言うとまた誤解を招きそうだが、ここは「子供を学校が要求する『型』にはめることに興味がない」という意味に受け取って欲しい。

 

 だが、実は、母・花澤は、俺友松ほどは吹っ切れてはいない。迷いがある。母子家庭の劣等感もある。福吉が学校の要求する無理難題をクリアできないことについて学校関係者から苦言を聞かされると、自分の不手際が責められている気になる、と漏らしている。その結果、学校の気狂いじみた不当な要求を真に受けて「家庭でも指導」しようとしてしまっている。そして、あまりにも「できない」息子・福吉に対して強い言葉で叱り、体罰もあるようだ。

 先頃、花澤の体罰に対して、福吉が叩き返すという暴挙に出て、それが習慣化、慣例化しつつあると花澤に聞かされた。俺は非常に驚き、危惧し、ここは指導が必要とばかりに、福吉に説教した。「説教」である。説き教える、である。叱ったわけではない。叱られて傷ついている息子をさらに叱って傷つける愚は犯さない。

 俺はティムバートン監督の「スパイダーマン」を観せた。この作品は、スパーパワーを得た高校生の主人公が力の使い方に悩む様子が、思春期の悩みに絡めて語られる名作である。「力を持つものには責任が伴う」という名台詞もある。

 福吉は男児であり、今は強大に思える母親など、すぐに身長腕力において凌駕するだろう。君は「力を持つ者」であり、君が持つことになるその力は、母親に暴力を振るうためではなく、母親を助けるために使うべきものであり、先日花澤が買い替えた冷蔵庫を設置するのは呼び出されて使役される父友松の仕事であったが、次に冷蔵庫を買い替えるときは、それはきっと君の仕事であるはずだ、というような話をした。母親の役に立つ自分の姿を想像してわくわくする息子の表情を見て、説教は充分に通じた、と俺は感じた。

 福吉は、母親の体罰があっても二度と殴り返さない、と俺と約束した。母の体罰があった際は、同じ回数父が抱きしめると俺は福吉に約束した。殴り返さなかったら、我慢した「ご褒美」に、お菓子でもお玩具でも欲しいものを何でも(千円以下で)買い与えようとも約束した。

 ただ、福吉の暴力を抑えるだけでは問題の解決にはなるまい。問題の根本は母・花澤の体罰(暴力)にある。それは花澤の自分がダメな母親であるという罪悪感に由来する。その罪悪感を煽って花澤を追い詰める元凶は誰かと問うならば、とりもなおさず「家庭での(親の)指導とサポート」を強要し、「子供イジメ」の「同調圧力」になることを強要する学校側にあることは論を待たない。

 中野区子供家庭支援センター職員は、自分たちが「母親の不手際を糾弾するのではなくサポートする」立場であると明言した。そういうことであるならば、学校側が花澤に対して、再三に渡って福吉の「家庭での指導とサポート」を不当要求するのをやめさせて欲しい。是非、学校に苦情を入れて欲しい。

 さらに鬼の首でも取ったように「中野区子供家庭支援センターに連絡しときましたから!」と花澤に言い放つ上高田小学校副校長の失礼極まりない態度にも強い糾弾をお願いしたい。

 そして、さらに願わくば、中野区子供家庭支援センターによる「サポート」の押し売りは、もうこれを限りに控えていただきたい。

 今、俺は「迷惑で仕方がないから、あなた(友松)何とかして。そういうの得意でしょ。対応よろしく」と花澤からの丸投げ依頼を受けて、先日来話し合いの矢面に立ち、この文章も書いている。

 ここで明言するが、我々、母・花澤誠子と父・友松直之は、愛すべき自慢の息子・福吉の養育について、公的機関のサポートを一切必要とはしていない。今後一切連絡や訪問はお控え願いたい。

 

 さて、不手際にもここではじめて気づいたのが、もしかすると、中野区子供家庭支援センターは、母・花澤の、息子・福吉に対する「虐待」を懸念しているのではないだろうか。ということである。

「子供家庭支援」とは、そういう意味であったか。ああ、なるほど。そういう話ね。「サポート」というおためごかしで誤魔化そうとするから話がややこしくなる。「児童虐待の摘発」が目的なら最初からそう言えばいいじゃないか。

 思わず爆笑してしまうところだが、そういうことなら話は全然違ってくる。サポートの必要は全くないが、監査を拒絶する理由もまた何もない。

 母・花澤の息子・福吉に対する体罰は虐待と呼べるようなものではない。だが、その判断は当事者ではなく、然るべき機関の職員によって客観的に専門的に行われるべきであるということならば、それも納得する。そのような七面倒臭い社会のあれこれ手続きについて、お付き合い差し上げる寛容さと社会性の持ち合わせくらいは我々にもある。

 

 俺友松は、福吉の母・花澤誠子に対して、中野区子供家庭支援センター職員による「虐待監査」を受け入れるように説得することを約束する。

 ただし日時はこちらで指定させていただく。

 

 自宅経営するリラクゼーションサロンの営業時間前ということで、明日29日(火)の9時から30分間ということでいかがだろうか。

 花澤に電話確認の上、この文章で書いた我々の子供養育の立場と考え方を知った上でお越しいただきたい。

 お待ち申し上げる。

 

友松直之