花のパリのど真ん中、芸術の都パリの中心部、様々な文化施設が集中する世界の文化の中心地が、また、郊外のサッカー競技場も、テロのターゲットとなった。不葛生の施設で同時多発テロが起きた。パリの悲劇である。



 まだ、錯綜する報道から断片的な数字と拾うと、死者が120人以上で、200人以上が負傷し、80人前後が重症のようだ。そして、行方不明者が210人を超すようだ。銃撃や爆発は6ケ所で起きたとも、7ヶ所で起きたとも報じられる。劇場では舞台に上がり、観客席に向かっての銃乱射があったともいう。


 
 サッカー場「スタッド・ド・フランス」ではフランスとドイツの親善試合が行われていたという。その近くで自爆テロが起きた。オランド大統領やドイツのシュタインマイヤー外相が観戦していた。大統領もドイツ外相も無事だった。



そのオランド大統領はいち早く非常事態宣言を発令した。

そして、

「かつてないテロだ。攻撃はまだ続いている」
「われわれは結束し、断固として戦う」と表明した。

そして、

フランス政府はパリ周辺に1500人の兵士を新たに配置し、厳戒態勢を敷いた。



 週刊新聞シャルル・エムドが襲撃されたテロ事件は記憶に新しい。近くのスーパも含め17人が犠牲になるテロだった。


 テロに屈しない言論の国フランスは、国を挙げて風刺週刊新聞を守ったと言っても過言ではない。そんなフランス国民は言論自由の国の誇りを持っていると賞賛もした。言論自由を誇りにするフランスに再びテロの狂気が舞い降りたのだ。



 バタクラン劇場では、アメリカのロック・グループのコンサートが行われていたという。押し入った武装集団は「アラー・アクバル(神は偉大なり)」とか、「シリアに介入する必要はなかった」などと唱えながら自動小銃を乱射したという。そして、人質をつって立て篭っていたが、治安部隊が突入しテロリスト4人(?)が射殺されたという。


劇場の観客70人以上が犠牲になったという。

 


テロリスト8人が射殺されたが、逃走したテロリストもいる可能性があるという。


 パリの混乱は続くのだろう。

 


主なテロは、


 「スタッド・ド・フランス」のサッカーの親善試合中の近くで起きた複数の自爆テロ。
 パリ中心部の3カ所、カフェ「ベルエキップ」などの飲食店でも銃の乱射。

 バタクラン劇場の米国のロックグループのコンサート中に自動小銃を乱射して押し入った。


 

 「神は偉大なり」と叫びながら銃を乱射したとの情報を伝えている。また、オランド大統領を批判していたともいう。


 

 報道はまだまだ錯綜している。


 多くの犠牲者の出たパリの同時多発テロ事件は、これからどこの国でも起こる可能性がある。明日東京で起きても不思議ではないような気もする。当然西欧列強に対するイスラム過激派の攻撃理由が日本に当てはまるわけでもないし、距離的にも可能性は低いだろう。


 でも、日本に対する攻撃理由はあるだろう。



 西欧列強への入国より、日本への入国の方が容易であるという評論家の意見もあるし、また、最近は田舎や過疎地でさえ、イスラム系の人を見かけることも多くなり、テロリストの隠れ蓑も備わっているような気がする日本だ。



 アメリカが日本のジャーナリスト殺害犯を空爆したと発表するなど、何らかの理由で、日本へのテロの理由が生まれるかも知れない。


 アメリカもフランスもイギリスも、そしてロシアも、イスラム過激派への攻撃で、シリア問題解決を見出そうとしている。空爆への報復としてのテロが起き、テロリストに対する空爆が多くる。その報復のためのテロが起きる。そんな連鎖を断ち切る知恵は、現在のところない。



 国際社会は、アメリカを中心にイギリス、フランスにロシアがそれぞれの国の国益だけを考えるご都合主義での解決策を模索するだけだ。それに、中国や日本が便乗するだけで、これといった解決策など見いだせないのが現実だ。



 国連には何かを決定することはできない。アメリカとロシアが対立し、拒否権の乱発で、さらに中国が加われば何も決まらない。日本はアメリカに従うだけで、それ以外の国際社会での発言力はない。



 せめて、無差別テロのない社会をと祈る。
 罪なき人々が、ある日突然テロの犠牲になることは、無しにして欲しいと祈る。
  

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沖への移設に関して、沖縄県と安倍政権は真っ向から対立する。何が何でも辺野古沖の基地建設に躍起になる安倍政権は、アメリカ議会での安倍首相の演説での約束を守るためには、沖縄県民の全てではない多くの反対などかまってはいられない。何しろアメリカ上下議院での演説での一方的な約束だ。自国の国会も地元沖縄の意見も無視しての約束は、絶対的権力者への幻想に取り憑かれた安倍首相の面子に関わることだけに、沖縄県の民意など問題にはしないのだ。



 辺野古沖の基地建設反対を公約にしていた前知事の任期切れ間際での埋め立て承認によって、大きく揺れ始めた。何しろひたすら反対を唱えていた前知事は安倍首相との会談で急変し、埋め立て承認をして、引退を発表していたのを取り消し、大自民党の全面的応援を受けての知事選に臨んだ。でも、結果は、埋め立て反対公約の現翁長知事に圧倒的な差をつけられての大惨敗だった。翁長知事は公約を守り、辺野古沖に基地はつくらせないと、前知事の埋め立て承認を取り消して、政権と沖縄県の全面対決となったわけだが、政治的な駆け引きとは別に、様々の方面からの基地建設反対の声が響く。



 政治的駆け引きの第一は、翁長知事のとった、前知事の埋め立て承認には瑕疵があるという理由での埋め立て承認取り消しだ。


 政治的な駆け引きと別に、辺野古では反対住民による辺野古沖の新基地建設反対闘争が展開されてきた。反対の座り込みは400日を超えるし、その前から反対闘争は続いている。そして、翁長知事の国連人権委員会での演説で、日本だけの問題ではなくなってきた。また、アメリカのメデイアにも取り上げられては、安倍首相の忠誠ぶりに大満足のオバマ大統領も、辺野古沖の新基地建設への期待を表明してばかりはいられなくなった。オバマ大統領の沈黙する。自分の任期切れが迫っている現在は沈黙が最大の策となっている。アメリカは、アメリカ軍は、アメリカ海兵隊は、是非安倍政権に頑張ってもらいたいのだ。新基地建設が始まりさえすれば、逆戻りはないからと、期待は膨らむ。普天間飛行場の危険性の排除を主張して、反対の声を封じるために、新たな危険を普天間飛行場に加えた。危険な輸送機オスプレーは、普天間に大量に投入された。
 

 危険な輸送機オスプレーのデモンストレーションは絶え間なく行われ、安倍政権の基地の負担軽減と普天間の危険除去の人質は大きくなる。


 安倍政権は10月27日に埋め立て承認の代執行手続き閣議決定し、その決定に従って28日に石井国交相が撤回を「勧告」した。


 翁長知事が回答期限の11月6日に「勧告拒否」


 石井国土交通相は承認取り消し撤回を指示。

 回答期限は13日だという。

 16日には政府は高等裁判所に撤回の代執行のための提訴をするらしい。に代わって埋め立てを承認する代執行を求め、高裁に提訴する見通しだ。



 石井国交相は代執行手続きとは別に、沖縄防衛局の行政不服審査申し立てを受け、翁長知事の埋め立て承認取り消し処分を一時執行停止する決定を出している。沖縄県はこの決定を不服として、総務省の第三者機関・国地方係争処理委員会への審査を申し立てている。



  反対闘争を続ける反対派の人々の強制排除のために大量の警視庁機動隊が投入され、辺野古の新基地建設は新段階に突入したようだ。無抵抗の抵抗である座り込みの人々が、機動隊に強制的に排除される映像がネットに流れる。屈強な機動隊員が沖縄戦と生き抜いてきた、もう足腰さえ立たないような老人たちを、まるで汚物でもつまむかのように引き抜いていく映像から、警視庁機動隊投入の意味がわかるような気がする。地元の警察権には、おそらく出来ない行動だろう。自分たちの祖父母と同じ顔の老人たちの強

制排除は地元の警察には無理だろう。



  政府はなりふり構わずに新基地建設へとすすむ。憲法も地方自治法も無視して、あの手この手の、極端な表現で超法規的な政府の方針だ。
 

 沖縄防衛局が行政不服審査法に基づく審査請求と承認取り消し処分の執行停止を申し立て、国交相が10月27日に執行停止を決定


 沖縄防衛局が「私人」として承認取り消しの執行停止を申し立てる。まさに何をか言わんだ。


 沖縄防衛局は「私人」で、国交相は「国」として代執行手続き始める。


 翁長知事は執行停止決定を不服とし、11月2日に総務省の第三者機関・国地方係争処理委員会に審査を申し出た。


 でも、政府は10月29日には埋め立てに向けての工事を再開している。



 翁長知事は11日、埋め立て承認取り消し処分の取り消しを求める国交相の是正指示を拒否した。



 翁長知事が勧告も、是正指示にも従わないと表明したのだ。


再度言うと、
 

 政権は16日に代執行のための高裁提訴の方針らしい。

歴史は動く。
歴史が変わる。

歴史が揺れ動く。



 揺るぎそうになかった歴史の岩盤が揺らいでいる。いや、揺るがすことができないと諦めかけていたことが、実は揺らぎの中にあったような気にさえなる歴史の転換が進みつつある。中国と台湾の首脳会談は歴史的な出来事であり新たな歴史の転換の始まりということにもなる。日韓中の首脳会談は期待通りの成果があるかのような錯覚を抱かせただけの、極端な表現では見掛け倒しの成果しかなかったと思う。それに比べると中国と台湾の首脳会談は、行われただけで十分な成果だと、政治音痴外交音痴の人間の結論だ。



余計な書き出しだが歴史の転換を感じさせるのはミャンマーの総選挙だ。


 突然だが、ミャンマーの民主化を信じる人間として思い浮かぶのは、ビルマからミャンマーに国名が変わった当時、ミャンマーの国名を認めないと頑張っていた当時のニュースステーション・キャスター久米宏さんを思い出した。私たちは旧国名ビルマが馴染みがあった。その第一の要因は、「ビルマの竪琴」かと考えたこともあったが、私たちより世代を遡ると、ビルマへの親しみは、別の要因があるかもしれないと考える。


 軍事独裁政権の流れがあるミャンマーに、民主的な選挙による政権誕生が近づいているようだ。ミャンマーの総選挙の開票結果は、大方判明し、今やミャンマーの母親とも言えるアウンサンスーチーさんの率いる国民民主連盟(NLD)の大躍進が確実な情勢だという。ミャンマーがビルマになる日もあるかも知れない。そんな思いでミャンマーの明確な選挙結果と共に、アウンサンスーチーさんの政権誕生も期待する。自らは大統領にはなれなくても、大統領の上に君臨すると宣言する凄さは、母の強さだと陳腐な表現で讃えたい。



アジア最後のフロンティアなどとも言われるミャンマー。

1962年のクーデター以来国軍中心の政治だ。

1988年結成のアウンサンスーチーのNLDは1990年の総選挙で大勝。


でも、軍政は選挙結果を認めず。

アウンサンスーチーさんは自宅軟禁。

それ以後、軍政の弾圧と戦ってきた、

アウンサンスーチーさんの勝利の時が来た。



 アウン・サン・スー・チーさんは党本部で勝利宣言をしたという。「公式結果は公表されていないが、国民は選挙結果について既に理解している」との勝利宣言だ。


 そして、与党の連邦団結発展党(USDP)のテイ・ウー党首代行は「われわれは負けた」と敗北宣言だと報じられる。

 



ミャンマーがビルマに変わるかどうかは分からないが、世界の趨勢に逆らいミャンマーを国名と認めなかった名物キャスターの心意気を改めて思い出した。

日本には夢がある。


日本の若者たちが私に夢を抱かせる。


日本の夢が大学生の政治発言グループ「シールズ」に続き、

高校生のグループ「ティーンズ・ソウル」の行動だ。


日本には夢がある。

日本の将来には夢がある。



 独裁的な強権政治を続ける自民党安倍政権によって、経済的な潤いと引き替えに民主国家の骨格が壊れされつつある日本だが、でも、大学生の政治的な発言を爆発させたシールズに続いて、高校生の政治的な声を高らかに叫ぶ「T-ns SOWL」の出現で、役立たずの大人のひとりである私は政治への失望感と敗北感から解放され日本の未来に夢さえ抱く。



 高個性の政治行動グループは「ティーンズ・ソウル」というらしい。


 選挙権年齢を引き下げらたから、多くの高校生3年生は選挙権があるわけだから、当然政治的な発言や行動は認められるだろう。高校生が安全保障関連法廃止や安倍政権の退陣を求めて立ち上がるのだから信じがたいことが起こりつつある。そんなことは、信じがたいといえば信じがたいが、でも、シールズ出現の時ももそうであったから、役立たずな私たち大人は、ただ、ただ、若者たちの叫びに夢をかけるしかない。



 「ティーンズ・ソウル」が、安全保障関連法廃止や安倍政権の退陣を叫び、安倍政権を脅かすことはないにしても、磐石と言われる政権に微振動くらいは感じさせるのではないか。「ティーンズ・ソウル」(T-ns SOWL)は、早速、原宿でデモを行ったという。早速は何の基準によるかと自分でも説明できないが、早速のデモである。
 

 来年夏の参院選で解散を宣言したシールズに、挑戦状を叩きつけたのではなく、その魂を引き継ぐと宣言しているかのような、高校生の政治行動グループ「ティーンズ・ソウル」に夢を抱く役立たずの大人は、魂の揺さぶりも感じる。若者よ、叫べと、その魂に寄り添いたいと思う。



 

 
 日米安保条約は軍事同盟だから、行き着くところは、共に戦うのを理想とするのだという訳で、安倍政権は憲法を無視した集団的自衛権の行使容認に始まり、参議院の存在を否定するような強行採決で安全保障関連法案を成立させた。強行採決の是非は問われても、安全保障関連法案は成立したことになり、法案の成立を否定する声など意にも介さない安倍政権は次々と布石を打って、米国とともに戦える体制づくりにひた走る。



 日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の改正され、新たな日米安保体制が始まったかのようだ。最も重要視するのは米軍と自衛隊のあり方だろう。米軍との主従関係が厳然と存在するわけだが、理想は対等な軍事同盟ということになるのだろう。対等な軍事同盟のためには、米軍による一方的な守りではなく、互いに守り合える関係から始まるというわけで、集団的自衛権の行使から始まった安全保障関係の様々な出来事は、米軍と自衛隊が共に戦う関係へと進む。
 

そのためには、

「同盟調整メカニズム」なる機関が必要というわけである。


ガイドラインで決めた米軍と自衛隊の常設協議機関「同盟調整メカニズム」が動き出すという。

自衛隊と米軍の制服組のトップクラスと、政府の閣僚クラスの、

 「同盟調整グループ」が、
 

情報を共有して、迅速な意思決定を可能するという。


 緊急時の「共同計画」は米軍と自衛隊の制服組が作る。
 共同計画も協議内容も、いわゆる軍事秘密で非公開だという。

 日米外務・防衛局長級による防衛協力小委員会なる、持ち回り会議で合意されたという。

 


他にも、特殊機関ができるようだ。
 
その一は、

統合幕僚監部と太平洋軍司令部が意思疎通を図る「共同運用調整所」もできる。

そのニは、

自衛隊と米軍が部隊ごとに情報共有する「調整所」だ。



そして、全ての情報は特定秘密法で閉ざされ、国民は知ることは不可能になる。



突然何かが起きるわけではないだろうが、

平和な国日本で何かが起き始めているのだろう。


秘密主義の国家の行先は、

何だろうと不安になる。


突然何かが起きるわけではないが、

でも、果たしてどんな闇が待ち受けているのかと不安になる。



秘密主義の先には秘密警察も生まれる、

可能性もないとは言えないと不安になる。

 沖縄辺野古の新基地建設に関する政府方針に反対する沖縄の世論、いわゆる県民の意思、すなわち民意を封殺するために、安倍政権はあの手この手の策略を繰り出す。そして、反対デモの封じ込めのために警視庁などから機動隊が派遣されている。


 連日、辺野古の新基地建設反対デモの現場からは、機動隊による実力行使の様子が、ネットを通して伝わってくる。NHKを始め、日本の殆どのメデイアは政権が怖いから、辺野古の新基地建設の反対デモの報道はしない。



 強化された機動隊によるデモ隊排除の模様などは大マスコミは報じない。屈強な機動隊員が足腰さえ立たなくなりつつある座り込みの老人をつまみ上げるかのように退ける模様を報じることはしない。



 政権が怖く、政権に媚びを売るようになったマスコミにはうんざりだが、その政権のなりふり構わぬ沖縄の民意、世論封じ込めのための様々なやり方にもうんざりだ。



 民主主義から遠のいていく日本の政治は、次々と協議会と、研究会と、なになに会議とかの役所を作っていく。そして、様々な角度から国民はがんじがらめになるのだろう。 



 沖縄の新基地建設反対の民意、世論の封じ込めの為に自民党が政府に代わってつくった機関が「シンクタンク・沖縄」というらしい。今月中に設立の運びとなるらしい。理事長には島尻安伊子沖縄北方担当相が有力らしい。



 沖縄の世論に対しては沖縄の島尻安伊子さんが相応しいというわけである。



 「シンクタンク・沖縄」である。 



 まずは、沖縄の為に用意される豊富な資金を見せるのだろう。その資金の流れ方を見せるのだろう。資金の流れが途絶えると沖縄の経済は麻痺する。政府と角付き合わせて反対を唱えては、沖縄の経済はいずれ麻痺すると、暗示するのだ。



 沖縄の救世主となるのは、島尻安伊子沖縄北方担当相だと沖縄県民に示すことによって、次の参議院選挙での改選である島尻安伊子の応援も視野に入れてのことだろう。



 「シンクタンク・沖縄」という、何を研究し、どんな成果を生み出す目的かも分からない研究機関をつくるのは、反対派の懐柔のためには違いないが選挙対策のためでもあるはずだ。



これほど卑劣で小賢しい政権はなかった。



先にアメリカとの約束がありの政府方針があり、

アメリカ軍の要望には何でもこたえる日米防衛協力のための指針があり、

アメリカ軍のすべての維持費を負担する「思いやり予算」ある。


アメリカ軍にとって日本は楽園的な前線であり、

沖縄はなんでも、犯罪さえ裁かれない別天地である。  



そして、


自衛隊と米軍の制服組のトップクラスが参加する軍事調整機関の常設が報じられる。



完全にアメリカ軍の一部となる自衛隊だ。


そして、より強固な日米関係においての最良の基地をこれからつくるということになるの。その基地は、中国を牽制して、東シナ海、南シナ海、北太平洋の安全を守り、日本の安全保障のための要というわけである。


辺野古の新基地は、安倍政権が必ずつくると宣言している。

沖縄の民意など問題ではない。沖縄の世論など問題ではない。

それが、安倍政権の本音だ。


そして、金で

解決を考えている。


地方創世の名目での基地負担に報いるための資金提供とかで、

地元は分断されていく。

また一つ冤罪だ。


 再審請求が認められて、無罪の可能性が認められ、刑の執行が停止して釈放と、ある意味画期的な展開だが、当人にとっては当然のことがなされるのに20年の年月が費やされたのだ。一つしかない真実が、多くの人々の支援によって、辛うじて、見えてきた。



 事件当時の映像と、20年後、釈放時の映像からは、20年の年月が一瞬に吹き飛んだような感覚を覚えた。二人の人間の人生の20年という年月の重みが、示されたかのような気がする。冤罪という国家犯罪によって奪われた20年の年月重みを、警察はじめ捜査当局も、裁判所などの司法当局も、新たに考えて欲しいと、司法には疎い人間でも要求するのである。



 取調べ室の可視化が叫ばれる中で、確かに可視化によって冤罪が少なくなることはあっても、完全になくすることはできないと思うのも、殺人事件という人間精神に潜む魔物の魔物ゆえの、一筋縄ではいかない複雑さがあると、抽象的な御託を並べても意味もないが、可能な限りゼロに近い方向へと進んで欲しいと単純に願うのは、事件発生当時のやんちゃな青年のような印象が、少し禿げ上がった中年になって姿を現したのに驚くからでもある。



 そして、娘を失った悲しみと、娘を殺した罪で裁かれた理不尽なまでの不合理に向き合ってきた女性の顔に浮かぶ名状しがたい悲哀の表情が語る悲しさからだ。



 私たちは、何度も再審請求が認められ、そして、その結果無罪の判決で、晴れて冤罪がはらされるケースを見ている。


 

 誰もが冤罪はあってはならないと思う。そして、冤罪の全てが警察の取り調べ時の自白の強要であり、決定的証拠、物的証拠のない自白と状況証拠での立件で、裁判所が有罪と認めることによって生まれる。だから、取調べの可視化が求れるわけだが、捜査当局は完全な可視化には反対で、一部可視化はあっても、まだまだ、取調室は密室状態のようだ。

 


 20年の刑務所生活を考えても分からない。奪われた人生などの表現もありふれて説明にはならない。単純に端的に言うと、やんちゃな青年が禿げ上がったおじさんに変わる年月だ。自分がその立場だったらどうかなどと考えても結論など出るわけはない。



 私たち小市民は、警察は最も頼りにする。警察があるから安心して日々の生活が送れるのだ。警察はいつでも正義の味方であり、私たちを悪の手から守ってくれる。警察への信頼は厚い。その警察が作り出す犯罪が冤罪だ。世界でも最も治安の安定している国の一つが日本である。その治安が守る警察への信頼は厚い。



 いや、非常に強いと言ったほうがいいか。警察への信頼を非常に強いと表現するのは、警察への絶対的な信頼を表すわけだが、その信頼が裏切られるのが冤罪である。テレビの刑事ドラマでよくあるストーリーが信頼できない警察組織のあり方とか、また警察官の犯罪者的な人間性とかは、信頼の強さ故に生み出されると思う私は、日本の警察を信頼しているのである。だから、冤罪などの報道には、最大の裏切りを感じるのである。



 20年後の社会を釈放されたふたりの目にはどう写ったかと考えても分かるわけはない。二人の感想などを報道で見ても、それは報道であって、真実の言葉には近くても、真実ではないと、疑い深い私のような人間は思うだろう。


 20年の空白の現実が語る真実の言葉である。


 そんな言葉は、ふたりの胸の中にしかないわけだが、明確な言葉として吐き出されるのは不可能かも知れないと思ったりもする。



 時期を同じにして、映画「バックトウー・ザ・ヒューチャ」で描かれていた近未来の日に、映画で描かれて未来図との比較がなされるイベントがあった。映画で描かれた多くの未来図が、現実となっていることを考えても、大凡、空想の世界に舞い込んだかのようなものだと思う。



 でも、自分の20年を考えると、それほど変わっていもないような気もするが、でも、それは、進歩の止まった人間の、安穏とした生活の20年であり、無実の罪で裁かれたふたりの20年とは比較などできないとも、わかっている。



事件が起きたのは1995年の7月だった。

事件は俗に言う東住吉放火殺人事件だ。



 余談だが、1995年は阪神大震災にオーム地下鉄サリン事件のあった年だ。そして、ウィンドウーズ95が発売され、パソコン時代の到来が告げられた年だ。



 そんな1995年7月 ふたりの元被告が火事になった。出火場所は車庫であった。当時11歳の入浴中の長女が逃げ遅れて焼死した。9月に大阪府警は元被告の母親と同居していた元被告の男性を殺人と現住建造物等放火の疑いで逮捕した。


 1999年3月 大阪地裁が元被告の男性に無期懲役の判決で、5月には元被告の母親に同じく無期懲役の判決だった。


 2004年11月には大阪高裁が元被告の母親の控訴棄却した。そして、12月には元被告の男性の控訴も棄却した。そして、2006年11月には、最高裁が元被告の男性の上告を棄却し、翌12月には元被告の母親の上告も棄却して、刑は確定した。そして、二人共刑務所送りとなり、母親は和歌山の女子刑務所で、男性は大分の刑務所に服役していたのだ。
 


そして、両被告がともに再審請求を始めた。


そして、2011年5月になって弁護側が燃焼実験で、火事の原因を突き止め、被告の自白には信ぴょう性がないと証明した。


2012年3月についに地裁が再審開始決定してが大阪地検が即時抗告したという。

2013年5月になって検察側の燃焼実験でも同じ結果が出た。

 

「無罪を言い渡すべき蓋然性がより高くなっている」が裁判所の結論だった

 「再審開始に抗告棄却に刑の執行停止」だ。
 
10月26日午後2時に刑の執行が停止した。


何度でも言うが、誰でも言うと思うが、冤罪はあってはならないと、


重ね重ね、捜査当局に言うが、


絶対に冤罪を作らないで欲しい。



 警察官だけが特別とは思わないが、警察官に特に多いような気がするのが女性のスカートの中を盗み撮りする盗撮だ。悪質な犯罪ではないが性犯罪には違いない。性犯罪はあとを引く犯罪という。性犯罪者への偏見ではないが、性犯罪は罪の償いをしても、悔い改めてやり直しても、完全には治らないらしい。治らないの言葉だから、犯罪ではあっても病気の一種というわけだろう。専門的なことは分からないが、盗撮などにうつつを抜かす気持ちがわからない。



 さて、繰り返す。警察官が特別ではないと思うが、警察官の盗撮は多いような気がする。警察官の犯罪だから報道の仕方が違うから、特別に思えるかもしれないが、でもやはり多いような気がする。正義を常抜き、法を遵守し、正しく生きることが当然の警察官の仕事がストレスとなるなどは、言い訳にもならないし、誰でもストレスを抱えて生きるのが社会人だなどと、俗人の社会感を披露しようとも思わないが、やはり、警察官の盗撮などの犯罪は多いような気がする。



さて、新しいニュースで見る。

 女子高校生のスカート内盗撮で20日に、茨城県警取手署に県迷惑防止条例違反の疑いで現行犯逮捕されたのは、警視庁第8機動隊所属の26歳の巡査長だという。
巡査長は、「魔がさしてやった」と容疑を認めているという。


 逮捕容疑はある大型商業施設でCDやDVDを見ていた女子高校生のスカート内をスマートフォンで撮影しただ。警戒中の警備員に取り押さえられたのだ。


 さて、24日に大阪府警浪速署がアニメグッズ店で女性のスカート内を盗撮したとして逮捕したのは、滋賀県警長浜署地域課の51歳の巡査部長である。

 

51歳の巡査部長は容疑を認めているという。

 51歳の巡査部長は、24日午後2時45分ごろ、大阪市浪速区日本橋西1の「アニメイト大阪日本橋」で、ショルダーバッグに入れた小型カメラでの撮影だったから、言い訳のしようもないほど計画的だったのだ。滋賀県からわざわざ大阪まで出張っての撮影だけに、衝動的とか、ストレスなどと関係ある犯罪とは考えにくいかも知れない。



警察官が特別ではないと思うが、

警察官が特別多いような気がする、

女性のスカートの中を撮影する盗撮だ。


なぜ、女性のスカートの中がそんなに気になるのかは、

結局性癖でしか説明できなだろう。

男も女も、体の構造は不変である。

女体への関心は分かるにしても・・・・。

日本の、しかも東京のど真ん中でトルコ内戦。

そんな新聞の見出になりそうな騒動が起きた。


事件というのでもなく、トルコ人とクルド系トルコ人の争いだ。



 トルコ人騒動が起きたのは、今日25日の昼前だ。トルコ総選挙の在外投票が行われた東京都渋谷区神宮前2丁目のトルコ大使館付近で、選挙のために集まったトルコ人が殴り合いをはじめたのだ。いわゆる乱闘である。街中の乱闘である。7人が重軽傷を負い警察官2人が軽いけがをしたという。


 トルコの総選挙は11月1日だ。

 在外投票に訪れたトルコの人は600人以上だという。何と朝早くから乱闘が始まったという。


 東京でのトルコ内戦だといえば当然オーバーだが、親日国トルコへの個人的思いで考えると、トルコには、内戦などのきな臭ささはない。中東で唯一の民主国家のイメージがある。世俗的というイスラム教世界の中での異端児的なトルコは、厳しい戒律のない穏健なイスラム教国家だ。


 世俗的で穏健なイスラム国家の中でも、クルド人は独自の民族国家建設を夢見る。イラクからトルコにかけての広い範囲で独自の価値観を崩さない。イラクでもトルコでも、大きな勢力となっている。独自の価値観で持ち民族国家建設の夢を持つクルド人は、反体制的な勢力となり、イラクでもトルコでも、政権にとっては、厄介な存在だ。


 決して独自の価値観を捨てない純粋な民族主義がクルドの誇りだ。民族国家樹立を夢見る少数民族がクルド人だと、有り触れた説明をしても、トルコ国内の争いが東京で起きたことへの説明にはならない。現在のトルコ政権は、高圧的なクルド対策を取っているのかもしれないと、トルコに限りない親しみを感じる串本に近い紀伊半島南東部紀南地方の住人は、なんとなく複雑な思いで報道を見る。

 トルコと日本の深いつながりの原点を描く映画「海難1890」の公開も迫る。そんな時のトルコ関係の騒動に、トルコの国内事情が垣間見えたようである。北アフリカチェニジアから始まったアラブの風はシリアで止められトルコまでは届かなかった。世俗イスラム教国家であるトルコは、自由と平等と人権が守られる民主国家かどうかの判断はできないが、現在の政権は経済政策の成功で富をもたらしたが独裁的だ。そんな独裁的な政権下でのクルド人の苦しみが東京で爆発したのだと勝手に判断する。


 どんな国内事情があろうとも、単純に純粋に、トルコの平和を願うのが、串本町の人々、大島の人々だと、勝手に主張したい。そんな人々の思いが通じてトルコは平和国家として、世俗的で民主的で穏健なイスラム教国家として、日本への変わらぬ眼差しを持ち続けて欲しいと願う。そして、日本からも変わらぬ眼差しだと、勝手に宣言したい。

 
 


 警察の不祥事が多発しているような気がする。多発には異論は当然あるだろうが、警察官が関与しる事件も多発といえそうで、そんな警察官の関与する事件も不祥事の一つに数えると、まさに多発だ。



 例えば、必ずしも不祥事とは言えないかもしれないが、連続殺人事件の犯人を逃がして、さらなる連続殺人事件へとつながるとか、


 例えば、必ずしも不祥事と言えないかも知れないし、その後の事件と結びつくとも断定できないかも知れないが、東京で職務質問した不審者が、注射器やスタンガンなどを保持し、さらに性犯罪の前科があることがわかっても、法の壁とかで釈放して、その不審者によって、大阪で少年少女の殺害事件が起きたなどもあった。


 民主国家の民主警察の対応に問題はなかったかも知れないが、あるいは、疑わしきは罰せずの法の精神からは当然の対応かも知れないが、でも、犯罪の臭気が漂う男に対しては、何らかの処置を考えるのが警察の当然の役目とか責任とか言えそうだと思うのは私一人ではないだろう。ある意味小市民的な人情だろう。


 そんなことは小市民的な論理での警察への期待である。


 警察の側からの主張でもある、立ちはだかる法の壁は、軽視されると社会的な問題を引き起こすわけで、それはそれで理解もするが、でも、確かに警察官の関係する不祥事は多いといわざろう得ない。


 警察官の関係する事件といえば、ほとんどが軽犯罪法違反事件だった。だが、最近は、警察官の殺人事件や、集団強姦事件もあった。そんな凶悪犯罪が起きているのだ。


 今度は事件ではないが、謎の自殺である。一人の自殺なら、一般的な社会の自殺者同様に、至極個人的な問題といえるが、同じ官舎に住む同じ警察署の若い二人の警察官の自殺は、一般的な社会での自殺問題とは明らかに違う特殊性があると、だれでも考える。

 
 二人の警察官の自殺があったのは、兵庫県警だ。しかも自殺などとは縁もなさそうな機動隊所属の警察官である。自殺に縁がなさそうは語弊があるかも知れないが、一般的な考えでは、鍛え上げられた屈強な肉体派集団の機動隊だけに、精神的な弱さを連想させる自殺とは無縁ではという、単純な思いからでた言葉である。


 自殺したのは兵庫県警機動隊の20代の男性巡査二人だという。心中のように同時の自殺ではなく、まず一人が9月末に、その後一人が10月に入って自殺したという。短い間隔の自殺は当然因果関係があるだろうと思うのが人情である。相次ぐ屈強な警察官の自殺には、特別のものがあるとのだろう。報道で知る限りでは判断など不可能だ。二人のうち一人は死亡し一人は意識不明の重体だという。一緒に自殺を図ったのでないから・・・・。


 二人は遺書もあったという。


 なら原因もすぐにわかるわけだが、果たして警察が、遺書の公表を許すかどうかだ。

 
 もう少し詳しく書くと、最初の自殺は9月28日であった。場所は神戸市須磨区の県警機動隊の独身寮でのことだった。23歳の男性巡査が自殺した。

 二人目は10月6日に、同じ寮で24歳の男性巡査が自殺を図り、病院に搬送されて、意識不明の重体だという。

 二人の自殺の因果関係はと想像するのは、野次馬根性のなせる業にしても、でも、野次馬的な興味だけではなく、多発する警察の不祥事との関係などから、社会問題として、違う次元の問題として、知りたいと思う、警察を信頼する国民も多いだろう。国民の、市井の人間の、私同様な多くの小市民的な、何かあった時の神頼み的な警察頼りの国民は、警察を信頼したいがために、真実を知りたいのだと、テレビドラマ的に、真実を重ねる。兎に角真実が知りたい警察を信頼した小市民的な国民である。


 国民はいざというときに、頼りになる警察を望んでいる。
 国民は警察への信頼を絶対的なものにと望んでいる。