伝説の女優原節子さんが亡くなった。


 伝説の女優だから、名前は知っていても顔は知らず、名前は聞いたことがあるが映画は見たことがないと、言いたいが、それでは伝説の女優に失礼に当たるから、顔は写真で見知っているけど、姿は見たことがなく、映画も伝説的な名場面などは、テレビニュースで見ているけど、全体を観たことがない。小津安二郎監督の作品への出演とか、伝説の断片は知っているが、姿は見たこともないというのは、現在のテレビ文化からの表現であり、有名人知名人は必ずテレビで動く姿見るし声も聴けるという意味での、姿を見たことがないである。テレビで訃報を聞いた知人は、まだ生きていたとは驚きだと感想を述べたが、それくらいに、伝説的であったのだ。一般社会と隔絶した生活などというのは、常識的な判断ではありえないような気もするが、マスコミに登場することがなく、そんな生活をやってのけたから伝説である。伝説になるには、覚悟が要るだろう。宇宙空間からの監視もあるし、あらゆる場所に監視カメラとかパパラッチ的なカメラが目を光らせ、また、誰でもどこでも、スマートホンでパパラッチ的になれ、即座にネットに映像が流れる現在では考えられないような伝説であるが、でも、いかに現在でも覚悟一つで伝説にもなれると思いながら、訃報の報道から伝説の女優原節子さんのことを、あれこれ考える。



情報を報道から拾うと、享年95歳であった。

亡くなったのは9月5日であった。

引退後は鎌倉の身内の家で余生を送った。



デビュー作は「ためらふ勿(なか)れ若人よ」
デビュー作の役名が芸名になったという。



その後、


小津安二郎監督作品に出演して大女優への道を歩む。

重ねて言うと、小津安二郎監督の作品に多く出演した大女優だった。



独身を通したから永遠の処女と呼ばれた異色の女優だ。

異色の女優とは変な表現になるが、伝説は伝説を産むということか。


 1962年11月公開の101本目の出演後に引退したという。42歳の大女優の引退は様々な憶測を呼ぶのは当然だが、現在のようにテレビワイドショーや写真週刊誌なども煩くなかった時代であった。


1963年12月12日、小津監督の通夜に参列して姿を消した。
 
 伝説は得てして人為的に作られることが多いが、原節子さんの場合はそうでもないようだ。彼女の生活そのものが伝説であったから、作る必要もなかった。誰にも知られずなどは、それほどの意味もなかったかもしれない。ただ、自分の信念としての生活を貫いただけかも知れないが、その信念が伝説を生む最大のものと言う事だろうか。そんなことをあれこれ考えるのも、伝説が生む憶測であるから、伝説はさらなる伝説を生むのだ。私たちの想像力を駆り立てる伝説である。想像がさらなる伝説へとつながるのだろう。また伝説から生まれる想像は、在りし日の大女優への思慕(?)とも思える感情を生み出すことになるのだろう。



伝説の大女優原節子さんのご冥福を祈ります。

出演作品を可能な限りみたいと思います。