食事を終えて、ハルキさんと目的地の珈琲屋さんに向かった。


事前にネットで調べて、お店がまだ営業している事は確認していた。


コロナ禍の緊急事態宣言で、その影響を受けた飲食店は数え切れない。


凄く心配だったけれど、無事にお店を続けていてくれたマスターには感謝しか無かった。



私にマスターを紹介してくれたのはアラキさんだった。



まだアラキさんとお付き合いする前の段階で、私をマスターの所へ連れて行ってくれた。


一緒に行ったのは、その一度きりだったけれど、教えてくれたその日に
「教えてしまった…。」
と彼は言っていた。



解る。



今、私もこのカフェを他の誰かに教えたくはないと思ってしまう。








それまでの私ときたら、珈琲は苦くて不味いものだと信じて疑わなかった。


でも珈琲の香りを嗅ぐのは大好きで…。


そして、カフェという場所が好きだった。


だから、珈琲を飲まなくても、紅茶か何かを飲もうと思っていた。


でも、アラキさんがお勧めしてくるので、私も一杯だけは珈琲を飲むことにした。



マスターの年齢は、私の2つ下だった。



コレはこの数年後に通っていた時に知り得た事だった。



スラッと細身で、お顔もハンサム。
今で言うところの、塩顔イケメンという言葉がよく合う。



そんなマスターに、珈琲が苦手な私は、恐る恐る聞いてみた。


「私、酸味がある珈琲は苦手なんです…。何かお勧めはありますか…?」



マスターは答えた。



「酸味が苦手な方には意外と言われるんですけど、僕はモカ・マタリをお勧めします。」



私は珈琲豆には何も詳しくなかったので、素直にそれを淹れて貰う事にした。


後から知ったのだけど、モカ・マタリで酸味を完全に避けるのは割と難しいらしい。



他で飲んで納得のいく私好みのモカ・マタリは、今のところはマスターが淹れた珈琲以外には無い。



初めて飲むシングルオリジンで、モカ・マタリを私に勧めたマスターは、よほど自信があったのだろう。




初めて私の前に出されたその一杯からは、嗅いだことのない様な香ばしさが漂っていた。



「あの…お砂糖は…?」



「お砂糖はありますが、お砂糖が無くても飲めますよ。」
とマスター。



苦いのが苦手なのになぁ…。


と思いつつ、目の前の珈琲に口をつけた。



…………????



凄い衝撃だった。



私は今でも自分が自分で言った言葉を忘れない。




「これが珈琲…。




これが珈琲…。




これを珈琲と呼ぶのだとしたら、私が今まで珈琲だと思って飲んできたものは何だったのだろう…??」




素直な感想だった。




お砂糖なんて必要ない。



鼻から抜けていくその香りも、鼻に入ってくるその香りも、本当に素晴らしい。



そして何より味。



雑味も酸味も無く、適度な苦味。



美味しい。



濃い烏龍茶と言ったらマスターに叱られそうなのだけど、他に例えようが無い。


勿論、烏龍茶の味ではなくて、もっとしっかり珈琲の香りにも味にも主張はある。


色だって、珈琲の色。


でも、しっかりと珈琲なのに、濃い烏龍茶くらいの軽い感じ…。



本当に不思議だった。



「マスター、本当に美味しいです。


本当にお砂糖は必要ないですね。


初めて、ブラックの珈琲を美味しいと思いました。


こんなに美味しい珈琲をありがとうございます。」




「それは、良かったですね。」



マスターは微笑んだ。




それから、数年間の時を経て、どうしてもその味と香りが忘れられなくて、週3日通うほどになり…。


 

妊娠治療や引っ越し、コロナ禍でパタリと足を運べなくなったその場所へ、5年ぶりに大好きなハルキさんと来られたのだった。