22代・雄略天皇


允恭天皇第五皇子。母は皇后忍坂大中姫。


兄弟の男皇子は『記紀』によれば、長兄が廃太子となった木梨軽皇子、その下が境黒彦皇子、穴穂皇子(安康天皇)、八釣白彦皇子、そして大泊瀬皇子(雄略天皇)だそうです(軽皇子の下の兄弟の順は若干ばらつく)。いずれも皇后が生母とされます。

なお『紀』の表記は大泊瀬稚武皇子、『記』では大長谷王子となり、ほかの皇子らも多少の表記の違いがあります(今更ながらいつものことです。このシリーズでは、『水鏡』に登場する人物に関しては基本的にその表記を採用しています)


大泊瀬皇子誕生のとき、宮の内に光が満ちたとか。

しかし『紀』によれば、皇后が出産のとき、衣通姫のところへ行こうとした天皇への嫉妬に産屋を焼いて死のうとした、その光であったとも。

いずれにせよ、尋常ではないお生まれでした。




■世の人、大天皇と

(なづ)け奉りし事



「心猛くして多くの人を殺し給ひき。世の人、大悪天皇と申しき」。


寵愛の女がほかの男と愛し合ったため、二人をともに焼き殺した例があげられています。




■葛城一言主明

逢ひ奉りし事



帝が葛城山で狩りをしていると、瓜二つの人物と出くわしました。

 「お前は誰だ」

 「まず王の名を名乗られよ」

 「われは大泊瀬」

 「わたしは一言主神である」

そのあとともに狩りを楽しみました。神は帰り道、天皇をわざわざ地上まで送り届けたとか。



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◎その他

浦島太郎の前振り…いわゆる浦島太郎伝説のはじめの部分が載っています。後の世に続きがあります!


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まずはじめに思ったのが、「悪」とあらわされる天皇。この「悪」はどういう意味でしょう? 『水鏡』にある通り、人を殺しまくった。詳細は載っていないけど、即位するまでは邪魔者を消し、そして大王となってからの暴虐も。しかしだからただの「ワルイヤツ」なのか? そうではない気がします。


ずっと後のことですが、平安時代後期に藤原頼長が「悪左府」(切れ者の左大臣、といった意味)と呼ばれたように、「悪」には畏敬の念がありはしないでしょうか。倭王「武」にも比定される雄略天皇の勇ましさを表現したものかもしれません。


ヤマトタケル伝説との関連も濃いように思います。「タケル」の呼び名を重ねていますからね。

次に、神との遭遇の件ですが、これこそが雄略天皇の非凡さをあらわしていますね。

しかも、その神が「葛城」の神であるということ……安康天皇が殺されたとき、それにかこつけて皇子であった雄略天皇は葛城円を斃しています(前回「安康天皇 」参照)。葛城氏は大きく勢力を削がれたことでしょう。

どうもそのあたりを反映しているように思えます。




さてさて、雄略天皇、なかなか面白いです☆


次回は『水鏡』番外編と称して、雄略天皇の暴虐の数々をご紹介したいと思いますニコニコ←笑いごとじゃない