鹿児島に行っておりました。<知覧特攻平和会館> | 『遊び』のススメ

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独自の視点で見たこと、聞いたこと、感じたことを書き連ねて参ります。(^^)v

その施設の存在を知って、ずっと行きたかった場所、知覧特攻平和会館。
旧陸軍知覧飛行場の跡地に建つ特攻作戦に関する資料館です。

先の大戦終盤、悪化する戦局を挽回すべく考案された航空特攻作戦。
1944年10月、フィリピンのレイテ島沖海戦で行われた航空体当たり攻撃で米護衛空母を撃沈したのが始まりとされています。
それ以前にも自発的な現場での体当たり攻撃(被弾や故障で帰還が絶望的なときの最期の行動)はあったようで、有人誘導の優位性のその研究は早くから行われていたようです。

年が明けて1945年(昭和20年)3月、米軍の沖縄侵攻を阻止すべく発動された天号作戦。
前年秋、レイテ沖海戦で多くの水上戦力を喪失した海軍は以降、航空兵力を主体としました。
そのなかで、航空機による特攻作戦を海軍では『菊水作戦』、陸軍では『航空総攻撃』とし、どちらも終戦まで正規の作戦として断続的に実施されることになります。

昭和20年4月1日、申し合わせにより海軍と陸軍の保有航空機の全機特攻化を決定。
昭和20年4月6日、菊水一号作戦および第一次航空総攻撃発令。
 
知覧飛行場(知覧特攻基地と改められる)は本土最南端にあったため出撃数が最も多く、陸軍の特攻戦死者1,036名のうち439名と半数ちかくを占めています。

戦後教育では特攻機はその大多数が撃ち落とされ、甲斐なくして若者たちを無駄死にさせたかのように言われています。

ですが実際には米軍艦艇にかなりの損害を与えています。
艦艇ばかりではありません。
本土空襲に飛来したB29に体当たりし、その機と近くにいた別のB29も巻き添えにして、同時に2機を撃墜した例も。

当時の技術で誘導弾は作れていなかったので、代わりに人が目標に達するまで確実に誘導する。
これが『特攻戦』だったわけです。
占領地からの補給路を断たれ物資が不足し、単独飛行するのがやっとの練度では対空・対艦戦闘もままならず。
諸事情を鑑み資源を最大限に活用するにはより効果的に戦果を上げる特攻それしかない、と。

知覧特攻平和会館にはたくさんの遺品とともに特攻隊員たちが書いた遺書も集められています。
そのほとんどは、国のため親兄弟のために一命を奉じますという内容です。
厳しい検閲があったため、その真意はわかりません。ですが、書きしたためたそれもまた真実なのでしょう。

義務ばかりが重くのしかかる時代に生きた先人たちに敬意と哀悼の意を表しつつ、
権利にあふれた現在は、かの先人たちが果たされた義務の上に成り立つことを忘れてはなりません。