まもなく梅雨ですね。

・・と書き始めていたら、
あっという間に日が過ぎて、

とっくに梅雨になっていました
今年がもう半分過ぎていることにも驚き。





最近読んだ本、観た映画など。

 




『マーダーボット・ダイアリー』
マーサ・ウェルズ著 中原尚哉訳

画像はお借りしました




SFの有名な賞を総なめし、

日本翻訳大賞も受賞
(読者ファン投票の後に翻訳者が翻訳の功労を讃える賞)

一度手に取りましたが、
戦闘シーンに迷って買わず。

記事で作品の魅力をご紹介いただいたら、
すぐにも読みたくなりました。
ご紹介ありがとうございます!


とっても面白かったですグラサン




漫画、アニメ化したら人気がでそうな
愛嬌ある主人公が登場します。



自分のことを「弊機」と呼ぶ
ノンバイナリーな戦闘ユニット。
皮膚などの有機構成部品もあるから
見た目は人間。
体には銃器が内蔵され、めっぽう強い。


ただ闘い方は自滅的。

真正面から攻撃を受け
体を破損させながら
スピード勝負で
攻撃を仕掛け、
敵を殲滅する。

戦闘後は瀕死の状態。
集中治療室でボディを復元させる。

場合によっては
廃棄、部品解体もおかしくない。

消耗品としての闘い方。





弊機は
何万時間もドラマを観て、
人間のことを好きになった。
ただ、直接関わるのはとても苦手。
ドラマを観るくらいの距離感がいいと思ってる。





これはアメリカ版。
表紙絵の違いは
国、文化の違いかもしれないけれど

翻訳の中原尚哉さんが作り込んだ、
ですます調のキャラ造りに負うところが大きいのではないでしょうか。


弊機の愚直さがいじらしくて、
応援したくなる。


こちらが弊機

四つの中編からなる本作品の
主人公「弊機」には
過去に大きな秘密、傷ついた記憶がある。


最初の理解者、メンサー



リベラルな政体(国のようなもの)では
ユニットもボット(ロボット)は
モノや奴隷のようには扱われず
人権が保証される。


弊機は認められて初めて、

自我をもった個として
自分の殻を
おそるおそるこわしていく。

話を追うごとに理解者が増え、
弊機の心も、友情も
少しずつ育つ。

見返りなく友を想う。 

どこかに属して
承認や安らぎを求めるのではなく

何をしたいかわからないなりに
道を求めて歩み続ける。


そんな姿は
自分探しをする若者にも重なります。



「12歳から18歳に薦めたい10冊」の全米図書協会アレックス賞も受賞しています。

息子の反応はわからないけど

昔の私に贈りたい。
きっと大喜びしたはず。


続編は既刊なので、続きが楽しみです。










『クララとお日さま』
カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳



人造人間?つながりで
長らく積読だったこちらを手に取りました。
購入すると積読率が高くなりがち。


読み始めたら一気読みでした。

格差社会、愛、信仰、
生命倫理、心の在りか
シンギュラリティ・・

いろんなテーマが込められていて
読み返すたびに
違うところに光があたり
違う読みをしたくなります。



クララはAF、人工親友。
富裕層の子どもの模範的な友人として
購入されます。


家庭での立ち位置は、
超高性能な『トイ・ストーリー』のおもちゃに近い。
その素朴で献身的な行動は
無償の愛のお手本のよう。

そんなクララの目に映る
人の言動は、
ときに衝動的。
割り切れない感情が
細かな観察から浮かび上がります。


非合理的で
クララにしてみれば謎に満ちた言動も
読者からすれば
どこか身に覚えがあります。
おもちゃに託す願いも。

その行為が
相手への真心なのか
自分可愛さなのか。
そのどちらも、なのか。


人って、そういうものかもなぁ、と
哀れで弱く
切なく思えました。







『クララとお日さま』の世界では

経済的に裕福な者は

病気を発症する死のリスクがあったとしても
向上処置という(おそらく)ゲノム改変的な操作をして、
より優秀な人間になっています。

処置した人間達が支配層を専有し
未処置の者は能力差を覆せない。


未処置の人のほうが自然な体だけれど
向上処置した人が認められる社会。


究極の能力主義、格差社会は
倫理問題と技術をクリアすれば
現実世界でも
爆発的に普及し
パラダイムシフトしそうです。

その予感に
気味悪さと疑いを抱きつつ
気になったのは

向上処置をした人達もまた、
人工的な存在なのでは?ということ。

では、人間らしさ、とは
身体の仕組みによるものなのか
心性なのか。





人造物でありながら
思考や行動は
機械のクララのほうがよほど
素朴で自然に近い生き物に思えます。
草花や樹木のようでもある。

表紙絵は
クララをよく表しているように思います。





非合理的な言動に人間らしさをみるのか
真摯な思いに人間らしさをみるのか
最後まで人間と人造物の立ち位置が撹乱される物語に


人は。
人間の社会は、
欲望と感情の赴くままに
どこへ行こうとしているのか。

そんな問いを投げかけられているようにも思いました。













『ポストコロナの生命哲学』

福岡伸一・伊藤亜沙・藤原辰史





生物学、美学、歴史学。
気骨ある三人の学者による

自由と基本的人権を守りながら
新たな生命哲学を耕やすための
論考と対話の一冊です。

福岡伸一さんは序「自然(ピュシス)の歌を聴け」でこの会合を「怪しい新興宗教の儀式」と茶化して、学術的な考察とは距離をおいています。そのぶん三人の発言は自由で刺激的でした。




“人間が環境を破壊してきたことのツケは
もっと大きなリアクションとなって
返ってくるはずだし、
新型コロナウイルスはその予兆であり
人類へのメッセージではないか"



と語る伊藤亜沙さんは作家パオロ・ジョルダーノの言をひいて、このパンデミックは地球全体の生態系レベルで起きている人災だと言い




福岡伸一さんと藤原辰史さんは
人間社会のあり方を安易に生物学や遺伝学で解釈する危険性について、

ナチスの思想「自然と共生」で線引きされ排除された人々がいたことを例に挙げ、差別意識への警鐘を鳴らします。






各々の研究室にあった漫画版『風の谷のナウシカ』をきっかけに制作されたNHK番組「コロナ新時代への提言」が、三人の出会いだそうです。



『風の谷のナウシカ』を何十年ぶりに読み直したら、




腐海に大海嘯・・・パンデミックと、終わるどころか広がり続ける戦争がシンクロして、SFというより、預言の書のようでした。





『ポストコロナの生命哲学』備忘録。

印象に残ったのは、

予定から行動を逆算する「引き算の時間」と

植物がもつ太陽の光を浴び少しずつ育つ「足し算の時間」。

伊藤亜沙さんは、コロナ禍で植物を愛でる人が増えたのは、引き算の時間(予定)が成り立たなくなったために、足し算の(生理的な)時間に共振したのではないかと言う。


引き算の時間やその前提となる均一な時間というものは、人間の生理的な部分やそれぞれの体の差を全て消したところにあったのだ。


さらに人間の画一化や時間の均一化によって障害者の概念が生まれたと言い、ピュシス的、生理的時間感覚とロゴス的、社会的時間感覚の調整について一考を促されます。 



最近、そこまで忙しいつもりはないのに
空を見上げる機会が少なくなっていて。
そんな自分の変化が勿体なく思えていました。
引き算の時間が増えてきたのかもしれないと思えば、気持ちの持ち方が変わるような・・気もします。






歴史学者の藤原さんは、ホロコーストをはじめアメリカでの黒人差別、日本でのヘイトスピーチ、感染を恐れ医療従事者を差別した例などを挙げ、消毒文化あるいは潔癖主義は排除を求める心性と一体だと指摘します。



生物学者の福岡伸一さんはスマート化が人間の問題解決能力を外部に拡張する(力仕事、計算力、移動、配信等)ことは生活を豊かにする方法として認めつつも、スマート化が人間の内面、精神や身体性に向かうことを危惧されます。


人間の内部にあるものはピュシスそのものですから、それをロゴス的に制御することは生命を大きく損なうことになります。

・・生命はロゴス的マシナリー(機械)ではありませんから。



治ることは元に戻らず変わること。

親や年長者が最後にできる仕事は、死について教えること。

などの示唆に富む発言は
心に留めておきたいです。














『MOE 谷川俊太郎の絵本』




自分好みの特集が色々。


お薦めは


訪問販売のみで

現在は品切れの写真絵本

『うつくしい!』にある

谷川俊太郎さんの言葉です。


抜粋掲載されています。

復刊希望!



自然の声を聴け、という福岡伸一さんの呼びかけに響く詩に思えました。




うつくしいものは、

みなそれぞれにうつくしい。



ひとつのうつくしいものを

ほかのうつくしいもので

おきかえることは、できない。




なにかをうつくしいとおもうと、

わたしたちはそれがすきになる。


うつくしいとおもうとき、

わたしたちはうれしい。 


うつくしいものは、わたしたちのなかに、

いきてゆくちからをうみだす。














『うつくしい!』より抜粋、の抜粋









もう一つの、“自然の声を聴け"







映画『名付けようのない踊り』







心揺さぶられました。


田中泯さんの著作から抜き出された言葉も


その場に一生懸命「居る」ことを


踊りで表現する生き方も。




ご紹介ありがとうございます!




田中泯さん演じる藤原秀衡の踊りを見て、うずうずして





屈指の名シーン、『たそがれ清兵衛』での田中泯さんによる余呉善右衛門役の凄まじい踊りを見直して、益々うずうずして




観に行ったのでした。






↑『たそがれ清兵衛』と『名付けようのない踊り』についてのインタビュー記事。

 






本編にはたそがれ清兵衛での踊りの場面も挿入されていました。
スクリーンで観られるなんて、思いがけず夢が叶うラブ


田中泯さんの著作の言葉を、泯さん自身がナレーションされる。その発声も聴き惚れる。


凄い冊数の蔵書を持たれています。
哲学者ロジェ・カイヨウを慕い
『戦争論』『遊びと人間』を読みこむ。


思索を深めても、その言葉に頼らない。
言葉よりも前に存在した「踊り」で語る。






犬童一心監督のクリエイターとしての気概あるお話もお聞きできてよかったです。


田中泯さんのインタビューを映画に使わなかったのは、

踊りを説明する言葉は
踊りの意味を狭めてしまう
必要ない手法だと考えられたから。



ティーチインにて

Q 田中泯さんにはなぜ存在感があるのか

I  今の世の中はものすごく経済重視、効率重視。

田中泯さんの何のジャンルでもない踊りは経済活動に乗れない。

消去法で仕方なく選んだのではなく、考えに考えて、そうするしかないと決めて踊っている。

作品にアニメーションで参加した山村浩二さんは、田中泯さんの踊りには、フィルムに鉄筆で彫り込む、一回性の、失敗が許されない、シネカリグラフィーという手法しかないと選んだ。時間もお金もかかるからもっと簡単な手法を説得したが、譲らなかった。

田中泯さんと山村浩二さんは似ている。それしかないという方法、生き方を選んでいる。今の効率重視の社会の逆の生き方をしている。

田中泯さんはそれが存在感に結びついていると思うし、今回の映像作品の重要なテーマだと考えている。

(記憶なので不正確です)

効率重視が「引き算」の時間なら
田中泯さんは「足し算」の時間で生き踊ることを選んだ、ということでしょうか。
BTSの活動中断もそうかな、と惜しみつつ思ったり。




田中泯さんは40歳のときから、農作業で踊りの身体づくりをされています。



資本主義社会で踊りを続けるために、お金を稼ぐために働いて働いてその疲れ身体で、さらに踊りのための身体作りをするというのは、どうも矛盾している。そこで農業をやってみようかと。(パンフレットより)


観客に向けた踊りではなく、観る人との間に踊りは成立し、自然や宇宙にむけて踊っている。誰のためでもなく、自分が幸せだと感じるために踊っている。

そういう生き方。







その場に一生懸命「居る」という在り方はどんなことなのでしょう。













クラウドファンディングで制作され
上映館も少ない。

でも、お薦めしたい作品です。



















今回も長々とした記事にお付き合いくださりありがとうございます。



皆さまが健やかにお過ごしでありますように。