先週の寒暖差のあるお天気、
気圧?新年度の疲れ?
いつも以上によく寝てました。













すこし前に読んだ本、映画。






『ニワトリと卵と、息子の思春期』繁延あづさ



よく行く本屋さんでいつも平積みなんです。
インパクトのあるタイトルと絵から
目も心も離せなくなりました。




息子は小学6年生。
(弟は小学4年)

この息子、喧嘩の果てに
家出をする実力派。

ゲーム機を欲しがる息子と
反対する母の口論の果てに、

家を飛び出す。

母の胸はうるさいくらいにドキドキする、
不安で。


変わったのは息子だった。
これまで、“お母さんに同意されたい"
という子どもの気持ちを、
ずっと利用してきたことに気づかされた。

そうした気持ちがなくなってしまえば、
親の意向など何の効力もない。
堂々とそこを突かれたことが、
腹立たしくて、悔しくて、不安だった。



子に対する親の愛という名の
力関係に気づく一文。

つい正当化しがちなことを
さらっと言葉にされていて
はっとさせられました。


母であり作者の繁延さんは写真家。

出産写真をライフワークにされています。
生命の力強さと、
か細さが共存しているような写真は
すみずみまで物語があるようです。



(挿絵がわりに写真が何枚も。息子さんとニワトリの写真がすごくいいのです。)




さて息子、帰宅後おもむろに
「ニワトリを飼う」と言い出します。


飼育計画書を立て
近所の人に根回し交渉して
借りる土地をの算段もつけてきます

母は長男に説得され
養鶏をしている友人の協力を得て
ニワトリを飼うことになります。
鶏舎を造るまでは
玄関が鶏舎がわり。
鶏が土を蹴散らし、
繁延さんが掃除する羽目に。


息子は
卵を売って
収入を得ようとしたのでした。
ペットではなく
採卵目的の経済動物。
収入を投資にまわそうと
勉強もする
愛玩動物ではないから
縊ることもある。

人間の世界と野生の世界が
ひとつづきであることを
可視化されるようでした。



人間の子どもである
息子の言動を

写真家でもある母が
観察し
受けとめる姿は
どこか
野生動物と対峙しているような
緊張感が常にありました。
ニワトリへ向ける視線と
変わらない。


子育てというと
守り慈しむことを
重んじて考えていたけれど

実際は
抜き差しならない
生き物同士の対峙でもあるのだと
突きつけられたようにも思います。


世話がいらなくなり、
息子の方が識っていることが増えてきたら、
私はどういう親をやればいいのだろう。


子離れ親離れを考えるうえでも
伴走してくれる一冊になりそうです。


こちらの記事、
本の雰囲気が伝わると思います。 







子どもが働くことについて
考えさせられる本が続きました。





『ミシンの見る夢』ビアンカ・ピッツォルノ
中山エツコ訳



コレラで両親を亡くし
裁縫の仕事をしていた祖母に引き取られ
7歳からお針子の仕事を習いはじめる。

19世紀末のイタリアの物語です。



作者のビアンカ・ピッツォルノさんは
祖母の昔話や新聞記事をもとにして
この物語を書かれています。


階級差のある
男性優位の社会で

お針子の仕事は
当時の女性に許された数少ない仕事のひとつ。
顧客の家庭の内情がみえる立場でもありました。
それぞれの家庭で巻き起こる事件
スリリングな展開に
息を呑みハラハラしながら
ページを繰りました。

上質な映画を観ているようでしたよ。




7歳の少女「私」が
仕事をしながら
技をみがき、祖母亡き後
一人で身を立てます。
おそるおそる、ひそかに誇りをもって。

そして「私」の目を通して
当時の女性達の生きざまが描かれます。

利用され捨てられるような弱い立場で
普通に尊厳をもって生きる難しさも。
愛を育む難しさも。




画像はお借りしました。映画『ジェイン・エア』より


冷静に観察し、気丈に生きる姿は
お針子版、ジェーン・エアにも思えました。


画像はお借りしました。
映画『ストーリーオブマイライフ』より


好意を告げられたとき
その身分の差から
愛を信じられるか。




縫われるドレスやリネン類の描写が美しく
丁寧な手仕事は
芸術が生み出されるようです。

一針一針に込められた
誇り高い仕事ぶりを
心地よく読んだあとに

冒頭の作者からのメッセージを
改めて読むと
余計に突き刺さります。



私たちのために
流行りの安価な服を縫ってくれる
今日の第三世界の全てのお針子さんたち。


最低以下の賃金を受け取って
工場という牢獄で火に巻かれて
命を落とす。

縫うとは素晴らしい創造的な活動だ。
だが、こんなことはあってはならない。
絶対に。絶対に。














こちらも、
8歳の幼さで
家計を助けるために
飢えをこらえ
働きはじめた少年の物語です。



『どんぐり喰い』エルス・ペルフロム
野坂悦子訳



ダイナミックなどんぐりの表紙と
素朴なタイトルに惹かれたものの

「どんぐり喰い」は
リスや森の小動物のお伽話ではなく

どんぐりくらいしか
食べるものがない
貧しい者を指す言葉だということでした。


作者ペルフロムさんの
最愛の伴侶の実体験に基づく
8歳から16歳までの物語です。



スペイン、アンダルシア地方で
日雇い労働者の息子として育つ
クロは
古タイヤを靴のように足にくくり
薪になる小枝を探すような毎日。
貧しさのあまり学校へ通えなくなります。

地主や教会の豪奢な生活を
下働きで支え強欲ぶりを目にする

(吐いて胃を空にしてはご馳走を食べ続ける。
極上の食事を飼い犬に与えさせるなど)


一方で
毎日の食さえ事欠くような
自分たちの貧しさ。

不条理に大人も苦しむ姿をみながら

それでも真っ当に生きる父の教えを守り
こつこつと働きます。

知恵を働かせ足を棒にして
工夫して商売も始めます。


陶器と物々交換で
空の薬莢を手に入れ
銅として売ったり。

スペイン市民戦争やフランコ政権時代の
物騒な世間で
命の危険を感じながらの
地を這うような暮らし。


それでも
生きることに絶望せず
ささやかな日々の暮らしに
幸せを感じる姿は、
奇跡のようにも思えました。



第一章が読めます。
少年の語りと
悲惨な出来事のギャップが衝撃的でした。



時代は後になりますが、
こちらのドキュメンタリーは

クロ達家族や村の人々のように
歌と踊りが心の表現でもあった人々が
住んでいた世界を想像するたすけになりました。


『サクラモンテの丘 ロマの洞窟フラメンコ』




クロはロマ地区の近くで暮らしています。
ロマはいわゆるジプシーのこと。
ヨーロッパの映画に
秘密を握る脇役で時々登場しますね。

昔、書評を読んだ
こちらの本を思い出しました。

『立ったまま埋めてくれ』イザベル・フォンセーカ くぼたのぞみ訳


世界各地のロマの人々とともに暮らし、
聞き取り、歴史を調べ、
1998年出版当時の社会運動にも関わった
渾身のルポルタージュです。

北インドにルーツをもつともされるロマは
世界各地に住み
口承文化で国境を行き来してきました。
外部のものには
通じない言葉をもちいて
質問をはぐらかしたり
本当でないことを伝え
自分達を守ってきました。



ロマニ語では「書く」は「切る(彫りつける)」、「読む」は「数える」を代用しているといいます。アルバニアのジプシーは「読む」を「歌う」の語で表しているそうです。



魅惑的なフラメンコや
ジプシー音楽で讃えられつつも


政府からも住民からも
存在しているのに
いないかのように振る舞われ
偏見と排除と憎悪の対象となる

ロマの歴史はひたすらに
差別と迫害と弾圧と虐殺の連続でした。


読んでいると、あまりの過酷さに
人道主義の偽善と欺瞞を晒されているようで
どんな倫理学も哲学も信じられないような気持ちになります。


何万ものロマの人々が
残虐な人体実験と
ホロコーストの犠牲となっていますが
記録は殆ど残っていません。

ホロコーストのツアーでも
殆ど触れられないといいます。

ロマニ語で
ホロコーストは「ポライモス」。
喰いつくすという意味。
忘れようにも忘れられない出来事を指し
抑圧と、訴えを退け続けられた思いを的確に表す言葉だといいます。



コロンビア大とオクスフォード大で
宗教学、政治学、哲学を学んだ作者による

迫害の歴史を生き延びてきた
ロマの人々の
ときに理解しがたい行動も、

客観性と共感をもってまとめられています。

ノーベル賞受賞者クッツェーの翻訳でも有名な
詩人くぼたのぞみさんの訳もあって
流れるように読みやすく

文学作品を読むようであり、

読者があたかも作者とともに
ロマの人々の中にいるような
気にさせられました。





第一章で詩人パプーシャの悲劇が描かれます。
口承で伝え表現することで
守ってきた文化を

文字で残し伝えようとしたために
仲間から謗られます。




水はうしろを振り返ったりはしない

逃げて、走って、もっと遠くに行くだけ、

どんなに目をこらして追いかけても

さまよう水の姿はとらえることはできない。






未見です。観たいです。

ロマらしさと
各国での同化政策は相容れない。

ロマは唯一の祖国を持ちたいと願わない民族なもしれない、と作者は綴ります。





ユダヤ人は、記憶という記念碑を作り出すことで迫害と分散に対抗してきた。


ジプシーは・・その日を生き延びるために、彼らの運命論とスピリット、あるいはウィットを混ぜ合わせた独特なものによって忘れる技術を作り上げてきた。






それでも、ロマが存在しつづけるための方策を模索する人々の姿も最終章では記されています。


タイトルの『立ったまま埋めてくれ』は
ブルガリアのロマの詩人であり、劇作家でもあるマノシュ・ロマノフが、ロマを思い叫んだ言葉です。




せめて立ったままで俺を埋めてくれ。
これまでずっとひざまずいて
生きてきたのだから。






知っているのと知らないので、あるいは当事者か傍観者かで、世界の見え方が全く違うように思います。知ることで多少なりとも、聞こえる言葉の意味が、違う深みで受けとめられるようになるかもしれません。












この時期に観たこちらの2作品は
偶然にも
両方モノクロの映画で
主人公が9歳の少年です。








映画『ベルファスト』




名優ケネス・ブラナーが幼少期を過ごしたアイルランド、ベルファストでの日常を描いた半自伝的な作品です。

アカデミー賞脚本賞を受賞しています。



9歳の少年バディが父母や祖父母、地域の人々に見守られながら成長するさまが描かれます。




ケネス・ブラナーは
コロナ感染を防ぐためにロックダウンされ家に閉じこもらざるをえなかった日々と、
ベルファストで争乱を恐れ家に籠もった日々が重なったといいます。
  
ベルファストの人々は他にも辛い思いをしている人がいるから、辛いことを決して語らない。自分も語らないできた。

でも当時を思い出したとき、だからこそ、そこで生きた姿を語るべき、残すべきと思ったそうです。




ロマの人々が辛い思い出を語らないことと
ベルファストの人々の生き方が私のなかで
少し、重なりました。



映画ではベルファスト出身、あるいは縁のある人々が演じています。

ケネス・ブラナーは、フィクションの体裁をとりながらも、語らないできた人々の記録として
ベルファストの人々の言葉づかい、身のこなし、空気感・・演じるものの土台となる文化的振る舞いをも残したいのかと思わされました。


どの配役もとても魅力的でした。
息子が好んで観るジャンルではないけれど、
観てほしいな、と思う作品です。






『C'MON C'MON』



こちらも9歳の子どもが登場します。

訳あって子どもを預かり
互いに歩み寄っていく物語は
既視感があったけれど、

観始めると、幼い子の人物造形のリアルさ・・向き合うのは面倒でも、だからこそ手を抜けない姿に引き込まれ、そんな思い込みはかき消されました。
 
親の悩みを引き受けて
平気なフリをする少年ジェシー。
でも、幼い心の器からは溢れてしまう。

そんなジェシーが後半
あどけない表情で
伯父ジョニー(ホアキン・フェニックス)に
甘えるようになった姿は切なくて
胸がしめつけられるようでした。



同時に、
母の介護を巡って方針が違った兄妹が
再び夫の看病や子の世話を巡って
互いを理解しなおそうとする物語でもあって





幾重もケアしケアされる関係が
織り合わさって

悩み、痛み、そして許し受け容れる姿を澄んだ音楽で包みこみ、優しく描いています。

たとえ悩み苦しむことがあっても、人を愛おしむ気持ちを失くしたくない人たちへ、あたたかなメッセージを送ってくれているようでした。


マイク・ミルズ監督が実体験をもとに
制作されたそうで
監督が現代的なテーマに等身大で向き合おうとしている作品にも思えました。


ふと立ち止まり考えたくなる
台詞がいくつもあって
劇中に引用される本の文章も
心に響きました。


パンフレットはすでに売り切れだったんです。
配信されたら、繰り返し観たいな。












こちらは伯父役のホアキン・フェニックスがクレア・A・ニヴォラ著「星の子供」(未邦訳)を朗読しています。








モノクロ映画を
敬遠しがちだったのですが、


こちらの2作品は
観ているうちに
心の中で補色され

登場人物との距離が

息遣いが感じられるように近く

肌触りがやわらかく感じられる

心地よさがありました。




皆さまの映画レビューがなかったら
素通りしてしまっていたかも。
観られてよかったです!
ありがとうございました。









爽やかな風と夏の気配。


皆さまが健やかにお過ごしでありますように。