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こんにちは マダムサトコです。 本日は”2人の息子で6000年続く家系を作る方法”というお話です。 

 

本日は 創世記35章18節から読んでいきましょう。 

彼女がタヒに臨み、その魂が離れ去ろうとする時、彼女は その子の名を ベン・オニと呼んだ。 しかしその子の父はベニヤミン と名付けた。

 

 

ヤコブの神の「約束の地に帰るのだ」という言葉に従い旅をする中で、 ヤコブのお母さんリベカの乳母である デボラ に続いて、 

 

ヤコブの最愛の妻である ラケルがタヒんでしまいました。 リベカの乳母である デボラ は ヤコブの信仰の礎となった者であり、 ラケルは「この女性こそが私の運命の妻である」として 他の3人の妻の誰よりも愛してきた人生の伴侶です。 

 

ヤコブはこの旅の中で大事な人を2人も続けてなくしてしまうんですね。 

 

この時の ヤコブというのは旅の途中であり、 いつどこで誰に襲われて 肉体的な損傷を受けたり 財産が奪われたりするかわからない、という不安の中で大きな心の支えを2つも失ったという試練中の試練な時期 なわけです。

 

「その魂が離れようとする時」というのは、 いわゆる 今際の際ということですね。 その際に呼んだその子の名前がベン ・オニ、私の苦しみ の 子 という意味だそうです。難産で生まれた子、みたいな意味ですね。 

 

いやいや、そんな名前 あかんやろう、ということで ヤコブはその子の名前を ベニヤミン と名付けました。 今でいうベンジャミンですね。名前は”右手の子” という意味だそうです。

 

「右手の子って何よ」ですが、これは右手というのが権力とか 権威とか 権利を表す言葉です。この場では神から与えられた特別な権利のある子、という意味で考えておいたら良いかと思います。 

 

19節こうしてラケルはタヒんだ。彼女は エフラテ、 今日のベツレヘムへの道に葬られた 。

 

 

ラケルは夫であるヤコブの「神様に与えられた約束の土地に行く」道中でなくなってしまうんですけれども、 その代わり ラケルに対するヤコブの愛を 引き継ぐものとして ラケルが残した2人の子供がいます。

 

一人はヨセフと言ってしばらく前に出てきています。 そして もう1人が この ベンヤミン ですね。 2人の息子に命を与えラケルはなくなったんだけれども、 息子たちによって ラケルの意志は後世に残されているというのが この 聖書から読める点でもありますね。

 

 エフ ラテ 今日のベツレヘム への道に葬られたとあります。 この ベツレヘムという後世にキリストが生まれた土地がここでも大いなる伏線が含まれているんですね。 

 

面白い点は ベツレヘムで葬られた ではなくて ベツレヘム への道に葬られた、とあります。神様に示された約束の土地に到着する前になくなったラケルは、キリスト イエスが生まれた ベツレヘムの到着の前に、その後の イエスに続いていく 子孫を残したわけですね。

 

 現代的な感覚で言うと 「ラケルとキリスト イエスでは4000年間も歴史の差があるのに、なんでそこがひっくり返っちゃうわけ?」 と思うかもしれません けれども、 

いわゆる スピ的な言い方とすれば 「神様の 空間に今日いつ 何時 という メモリや 単位はない」ですね。 もうちょっと日本語的に言えば「神様の空間では全てのことが一瞬で同時に行われる」まあこっちもよく分かりませんねw。「伏線回収するための 伏線の貼りどころ」というのが一番 納得いくでしょうか。 

 

本日は”2人の息子で6000年続く家計を作る方法”というお話です。 

 

ヤコブの最愛の妻である ラケルはなくなってしまったんですけれども、 その後 この ラケルの残した子供2人というのが大いなる活躍を 聖書の中でしていきます。 

 

ここから読み取れることは、 人間の肉体 また生命には必ず終わりが来る。 しかし ラケルが残した魂 というものは子に引き継がれ 孫に引き継がれ、 気がついたら 6000年 残っている。

 

人の死を悼むというのはもちろんですけれども、 その人が残したものは永遠に受け継がれていくものだと言うこともわかります。 

 

 現在 ラケルの墓として エルサレム 郊外にお墓参りができるようになっているんですけれども、 ここでは「神の国への旅路の途中で命は無くしたが、 子孫を残し その後の子孫を大いに反映させた」ということで キリスト教徒はもちろん ユダヤ教徒 や イスラム教徒 なども訪れる場になっているということです。 

 

神様の示したところに行く旅路というのは厳しいことが多い。 途中で様々な 悲しみにあったりもする。しかし その人がたどり着けなかったとしても、その人の意思を継いだ人が必ずその偉業を成し遂げる。

 

こんなようなことが ここから読み取れるのかもしれませんね。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”産みの苦しみという言葉も 聖書が起源 だった?!”というお話です。 

 

本日は 創世記35章17節から読んでいきましょう。

彼女がひどい 陣痛で苦しんでいる時、 助産婦 は彼女に「心配なさるな。 今度も男のお子さんです。」と告げた。 

 

 

このシーンも、今だったら「陣痛で苦しんでる時に余計なことを言うなー!」 とか「男のお子さんです とか 女性差別ダー」とか「男だから心配するな とか男女平等ガー」とかまあいろんな思惑でいろんなことを発言する人たちが わさわさと湧いてきそうな箇所ではありますけれども、 

 

この箇所にもいろんな比喩やメッセージが込められています。 

 

まず ひどい陣痛で苦しんでいる時というのは、いわゆる 「産み の苦しみにいる」ということですね。 

 

これは実際に陣痛で苦しんでいるという意味はもちろん、 

 

ヤコブが20年間外国で過ごし神によって示された土地に戻る その旅路。 少数であり いつどこで 他の部族に襲われるかわからない、 いつ 水や食料が尽きるかわからない、 20年前に相続で大喧嘩となった兄と会い 自分のことを恨んでいるんだろうか 自分のことを受け入れてくれるんだろうかという恐れの中で なんとか 和解にこぎつけた、

 

という物理的な苦しみはもちろん、 

 

腰を落ち着け かかった土地で家族のものが原住民とトラブルを起こし 逃げるようにしてそこを立ち去らなくてはいけなくなった、再び 神が自分の目の前に初めて現れてくださった場所に立ち返り、 20年前から今の今まで神がずっと自分と共にいてくださっていることを改めて知った。 そして 神の言葉に従い 神が与えてくださると約束してくださった土地を目指してさらに動いていく。 

 

このような 神の言葉がなされるまでの産みの苦しみ、 様々な困難があっても必ず成し遂げられると信じる。目の前の現実がどうであれ 必ず成し遂げられるのだと信じて歩いていく。 

 

これはまさに「まだですか、、、 まだですか、、、」 と 目の前の現実に苦しみながらも、必ず良い結果を期待して歩んでいく。人間の人生こういったものを 陣痛での苦しみ 産みの苦しみと表現し、 日本語での海の苦しみというのは まさに 聖書のこの箇所から取った言葉だと私は思っています。 

 

ここで出てくる 助産婦 という人は、そんな苦しみの中にいる私たちに対して「大丈夫だ、 未来は明るい。 大丈夫だ、子供は元気に生まれてくる」と励ましてくれるる人で物理的に子供の出産を助けてくれる人ですね 。

 

人間というのは一人で人生を生きていくことはできない。 必ず誰か 共にいる。例えば人生の伴侶だったり 例えばいつも良くしてくれる友達だったり。人間の場合ももちろんあれば、

 

私たちが どんな苦難にいようとも 、私たちが生まれた時から この世を去るまで ともにいてくださるのは私たちの内におられる 神である。 

 

苦しい時にも神は必ず私たちのそばにいて「心配するな、 大丈夫だ」といつも励ましてくれる。 このような比喩または 聖書的な解釈というのが ここで成り立つかと思います。 

 

現代的には女性差別ガーとか言われそうなこの 「今度も男のお子さんです」 という部分ですけれども、 

結婚して20年近く 不妊に悩んでいた ラケルはこちら創世記 30章22節 -24節で

 

 

 

 

身ごもって男の子を産み ヨセフと名付けた。 そして 「もう1人 私の子を加えてくださるよう」にと言ったとあります。 

 

この ラケルの祈りが神によって聞かれたということの 伏線回収の箇所ともなってるんですね。 

 

なぜゆえ ラケルがそんなに 男の子ばっかり欲しがったかと言うと、家の跡取りは男子が行っていくものだという文化 考え方があったからですね。 

 

いかに 現代的な価値で「女の子モー」といえども、 聖書はそういうことは聞かずにやはり「男のお子さん」です。 男の子を本人が望んだん だし、 そういう文化 背景のもとに そういう発言をしたということもここからわかりますね。 

 

本日は”産みの苦しみという言葉も 聖書が起源 だった?”というお話です。 

 

聖書って難しい読み物だと 皆さんに思われているかもしれません が、結構 いろんな日本語の慣用句 が聖書から取られているのではないか?ということはこの番組を聞いていただいてる方は実感してる方が多いかと思います。 

 

この記述はもう一つ、「どんな人にも神の記録として聖書に残る人生の大きな役目がある」ということが分かります。 

 

この助産婦 という記述、 そして ちょっと戻りますけれども 同じく 35章の8節のリベカの乳母 デボラの死とあります。

 

助産婦さんや乳母さんも立派な職業ではありますが、 神の記録として残すほど”偉業”ではないよね というような感覚を私たちが持ってしまう仕事をしている人たち、

 

いわゆる 名もなき人たちと言われる立場で生活している人たち、彼らにも人生の使命というものがあり、その使命を果たすことによって神は彼らの人生を覚え 祝福し 何千年も 讃えられる仕事をしたのだということも ここに残っていますね。

 

今皆さんがしておられる 仕事が 皆さんにとってどのようなものか 私には分かりません が、

 

つまらない どうでもいい仕事なんてこの世にはない、 

 

その仕事を一生懸命行い その仕事の中の使命を果たすことで神はその働きを必ず覚えてくださっている、と

 

いうようなことも この箇所から読める 大事なメッセージの一つじゃないかと思います。

 

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こんにちは マダム サトコです。 本日は ”臨月 の妊婦を ラクダに乗せる 暴挙” というお話です。 

 

本日は 創世記35章16節から読んでいきましょう。 

彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くには まだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、 ひどい 陣痛で苦しんだ 。

 

 

位置関係を確認しておきます と 

 

 

現在 ヤコブ たち が滞在しているベテルから このエフラテという土地まで、だいたい20キロプラス ぐらいです。 

 

そしてこのエフラでという土地は後にベツレヘム と呼ばれる場所になり、 これは新約聖書でイエスキリストが生まれた町としてその後 たくさん出てきます。 

 

ここに行くまでの間にラケルは産気づいて ひどい 陣痛で苦しんだとあります。これは 非常に大きな 伏線 となっている表現ですね。 

 

現代的な感覚で言うと、 子供が生まれそうなんて言う状況の時は 例えばお腹がすごく下がってきてて「あ、本当にもうすぐ出てくるんだな」 というのが目に見えてわかる状態になっているので、そういう時は安静にして移動や活動を控えてなんていうのが一般的ではありますけれども、 

 

このヤコブの一族というのはベテルから60キロほど離れたシェケムという町で原住民とのトラブルを持ってしまい、 とにかく急いで自分たちの故郷に帰らねば ということできっとすごく 焦ってたんでしょう。

 

もうすぐ生まれそうだなんていう時にも、 ラクダにまたがって移動を開始したということだと思います。 

 

エフ ラテ まで まだかなりの道のりがあると書いてありまして、 それが何キロかということはもちろん私には分かりません けれども、 現代的な地図を見ますと 

 

 

どうも 民家はもちろん、 例えば家畜を休ませる 簡単な小屋なども 全くなさそうなぽいところでして、 つまり 子供が産めるような状況ではなかった。 ひどい 陣痛で苦しんだとありますので そういうものに対するお医者さんもいない状況だ、ということが ここでわかりますね。 

 

もう1つの読み方として、 これは人間の人生を表している箇所なんじゃないかと思います。 

 

人間が神にであった場所、 すなわち 自分の使命や自分の人生の中でやるべきことをはっきりと理解したところから、その使命を果たすために目指す場所、 目指すところへ行くには まだかなりの道のりがある時に、 

 

人間というのは 産みの苦しみを感じるものだ。 もうすぐ生まれそうだ、 もうすぐ 何とかなりそうだ、 もうすぐ手が届く もうすぐ目標に到着するんだ、 こういった時に1つ 課題が出た。 それを解決したらまた一つ 課題が出た。

 

目標に達成するには 産みの苦しみがある、 そして苦しみながらも必ず得るものがある。こういった人間の人生を表す箇所でもあると思います。 

 

一方、ものすごく 聖書的なスピリチュアル的なお話でいうと、人間というのは2000年前にキリスト イエスがこの地球に降りてきてくださり、 神のもとに生きていくことを知った。

 

それでも人間が目指す 高みに到達するのはまだかなりの道のりがある。人間は その過程で「もうすぐだ、 もうすぐ神が来るのだ」と信じて前進しつつ、しかし 人生のあちこちで産みの苦しみというものを感じている。 

 

今自分の目の前にどれほど苦しいことがあろうとも、神を信じて前進すれば それは必ず益 となり 私たちに与えられるのだ。 

 

 書いてあること自体は 移動中 に 難産になったという 書き方 なんですけれども、 実は非常に多くの 角度 多くの視点で 私たちに語りかけている箇所なんじゃないかと思います。 

 

本日は ”臨月 の妊婦を ラクダに乗せる 暴挙”というお話です。 

 

2025年の 現代であれば、 このような ラクダに乗って 砂漠を時間をかけて歩くということ自体がありませんので、現代的な 炎上になることはないと思いますけれども、 

 

当時の ヤコブとしては自分の妻の体調というのはもちろん知っていた 一方で、 一刻も早く 自分の生まれ故郷に帰る ものも大事だった。 

 

それは自分たちが移動している小さな民族であり、もし万が一 他民族に攻撃されればひとたまりもない という装備だったということも考えられます。 

 

ヤコブとしては苦渋の選択だったと思いますけれども、 それがまた人間の人生の中に起きる「神と出会った後に自分が目指す 箇所、 そこに到達するには様々な産みの苦しみがあるんだ」ということを反映した箇所ですね。 

 

非常に記述的、あったことをそのまま 述べている箇所であり、 

 

非常に 比喩的な部分、 人間の人生というものを書いている箇所であり、 

 

また同時に非常に スピリチュアルな、神の恵みを知り 神を知った人間の自分の人生というものを歩んでいく姿にも見えますね。

 

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こんにちは マダム サトコです。 本日は”御柱祭の衝撃の事実が明らかに!”というお話です。 

 

本日は 創世記35章14節 から読んでいきましょう。 

ヤコブは、神が彼に語られたその場所に 柱、 すなわち、 石の柱を立てその上に注ぎ、の葡萄酒を注ぎ、またその上に油を注いだ。

 

 

この箇所は、ヤコブ 自身が神と会ったその場所を記念して 柱を立ててというシーンなんですが、 

 

ここの記述というのは 、世界中のいろんな宗教や文化に影響を与えている箇所だと私は思います。 

 

まずここの石の柱を立ててというところ、「 神様が自分にしてくださったことを永遠に忘れず後世に語ってゆく。 自分がこの世から死に絶えたとしても、 自分の子孫たちが自分たちは神によって守られているんだと固く 確信するような場所」、 そういったものを作ったということなんですね。 

 

日本で言うと 昭和の時代には 戦没者記念碑 というものが非常に多く建てられてました 。自分たちが今平和で心配なく生きていられるのは、先の戦争で自分たちのために命を落としてくださった先人を忘れない。 その人たちのおかげで今があるんだ、ということを忘れないための石柱ですね。 

 

私の田舎では 忠霊塔 がありました。 岐阜県 山間部の割と盆地のような地形をしていて、街全体が見える山の上にそびえ立っていました。 

 

それと同じですね、永遠に忘れないという誓いが石柱を立てたという意味になります。

 

話は戻り、このイスラエルから日本までの間の、いわゆる ユーラシア大陸、 ここら辺にももちろん 非常にたくさん この記念碑 というものを建てる文化があります。 

 

ただし この石を加工する技術の未熟なのか、そのあたりでは 素材として 樹木が多かったからなのか、木を使った記念碑 というものもたくさん残ってます。 

 

 残ってますと言っても、 切ってしまった木の寿命を考えると もちろん 6000年前から とは いきません。何年かごとに メンテナンスしていくということで、いわゆる トーテムポールという名前であちこちに残ってますね。 

 

そしてこの木で作った 記念碑のレギュラー メンテナンスの集大成というものが、 長野県の御柱祭 なんじゃないかと私は思ってます。 

 

画像は諏訪観光連盟さんのHPより拝借しました。ありがとうございました。

 

皆さんご存知の通り、 7年に一度山から木を切り出してそこにまたがって坂を降りていくという、 いわゆる 奇祭として有名なんですけれども、 

 

あの お祭りの根本というのは 、実は 聖書のこの部分が日本に伝播してくる間に 素材が変わり、レギュラー メンテが必要となってきたという事情で ああいうものができたんじゃないかと思います。 

 

次に 注ぎの葡萄酒を注ぎという点ですね。 この記述からわかることは、 

この当時すでにぶどうがあった。 

この地域にも 農耕民がいた。 

ぶどうから酒を作る技術があった。ということですね 。

 

ぶどうというのは 聖書の中ではこちらの箇所が有名です。

 ヨハネによる福音書15章4節

 私に繋がっていなさい そうすれば私はあなた方と繋がっていよう 枝がブドウの木につながっていなければ自分だけでは実を結ぶことができないように あなた方も私に繋がっていなければ実を結ぶことができない 

 

 

ぶどうの木というのは神様を表す言葉として用いられてるんですね 。ですから、ここで ぶどう酒を注ぎとあるのは、

 

ここで現れた神様を神様であると認めて、

自分自身が神様に繋がっているブドウの実であり、

そのぶどうの実から出たぶどう酒、 つまり 自分が神によって育てられ 、

神によって信仰心が磨かれ 熟成され ぶどう酒になった。 

それを神様に注いでいる。 

 

そういった 心境というか バックグラウンドも含めた言葉ですね。

 

このブドウという木は、環境を選ばずにどんなところにでも育つ植物です。 

 

私の認識では、ブドウと そば というのは どんな 荒れ地でも必ず実を結ぶ 植物で、皆さん も日本で 「そばが有名な土地」 と聞くと それぞれ住んでおられるところであそこ だなと思い浮かぶことがあると思うんですけれども、

 

 だいたいそばを育ててるところは ぶどうも 育てていますね。 そして ぶどう酒も地元の名産品として出していることが多いと思います。 

 

それはその土地が 他の植物にはなかなかの 厳しい 痩せた土地であるけども、 そばとぶどう だけは育つ土地だ、ということの表れでもありますね。 

 

それはつまり、 人間が神を知る前はいかに荒れた生活進んだ 心境にあったとしても、神につながるということは誰でもいつでもどこでもできる、ということも 表しているんじゃないかと思います。 

 

そしてここではぶどう酒を注ぎとなってますけれども、 日本ではブドウではなく お米でお酒を作って神様にお供えする。神社なんかでは お神酒と言いますね。 そういったところにも影響があると思います。 

 

そして最後 油を注いだとあります。 この油注ぎ というのは、 神によって 清くなりましたという証の聖別、ここで 聖別の油注ぎをして「神によって 清くなりました」と書かれてるわけですね。 

 

面白いことにこの油を注ぐという行為は、インドとかインドを 派生した仏教で今なおこの油を注ぐという行為 結構見られますね。 

 

私は今 タイに住んでるんですけれども、 この聖書を読んだり 教会に行ったりする前に もう今から15年ぐらい前 に、 タイのお寺に行ったことがあるんですよ。 1年のうちで3週間しか開門しないようなすごく 特別なお寺で、夜明けとともに みんなが 頂上に向かって歩いていく っていうようなものでした。

 

頂上に着いたら、給食センターの調理釜かと思うぐらいの大きなお釜で油を低温で炊いてました。それを匙で救って口にいれたりなんか頭に乗せたりとかねしてました。 私はさじで救って飲むっていうのは衛生的になぁと思って 私はやりませんでしたけどね。

 

この油注ぎ というのは現代でも受け継がれている。 もしかしたら 他の宗教にも影響を与えた行為がここに書いてある?ということかもしれませんね。 

 

本日は”御柱祭の衝撃の事実が明らかに!”というお話です。 

 

前半では 聖書の記述の部分と長野県の御柱祭の推測というのをしてみましたけれども、 スピリチュアルな面で言うと 柱というのは自分の人生の柱は神である。 こういうことも 表した言葉と思います。

 

 この部分は ヤコブが祭壇を作り、 神を認めた 非常に スピリチュアルな部分です。 そしてその神を認めた スピリチュアルなものは、イスラエルにとどまらず 世界中 多くに流布し 今でも残っている、ということがわかる部分ですね 。

 

そして 行為を行うことは、その分 自分の心を神に向けて チューニングしていく、いわゆる 宗教とか 拝み方とか、そういったものが始まった部分でもあるかと思います。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は” 一国一城の主にならなければ 全額 返金します”というお話です。 

 

本日は 創世記35章11節から読んでいきましょう。 

神はまた彼に仰せられた。「私は全能の神である。 産めよ。増えよ。 一つの国民、諸国の民の集いが、あなたから出て、王たちがあなたの 腰から出る 。

 

 

これは 今の日本に神様にぜひ言ってほしい言葉ですね。 

 

この産めよ増えよ というのは 2025年の 現代で言う、 いわゆる 少子化対策ですね。 

 

現在の日本そして世界では、「産めよ増えよ 補助金をあげるから」という言い方が非常に多くなってますけれども、 ここでは産めよ ふえよの前に神様が「私は全能の神である」とおっしゃっておられます。 

 

神に不可能はない、という 聖書を読んだことがない人も知っている この言葉ですけれども、 現代風に当てはめて言うのであれば 「子だくさんで生活が養育費がなんて気にするな。主が 守ってくださるから。

 

 主に不可能はないんだから、 将来が老後が と言わず、 今ここで 自分の人生を楽しみ 生命を楽しみ、 そして自分の子孫を後世にまで残していけ」ということをここでおっしゃってるわけですね。 

 

そしてその数というのは、一つの国民になるほどであり、 ヤコブ から生まれる 子孫というのは非常に数が多いということをここで言ってるわけですね。 

 

その次の諸国の民の集いが というのは、 国民として1つであっても、その中には何々部族とかどこどこ地方に住む人という小部族、 小さな国が この中から生まれて そして一つの国民となっていくということですね。 

 

この諸国の民の集いが という箇所がいわゆる 伏線の箇所となっておりますので、 ここにも さらっと そういうものが織り込まれていると知っておいていただけると良いかと思います。 

 

あなたから出てというのは、もちろん ヤコブの子孫がということですね。 そして王たちがあなたの 腰から出る、 これも 諸国の王たち そして一つの国民の王が ヤコブの子孫から生まれるという約束です。

 

つまり ここで 神様は ヤコブ に、この土地 (2025年現在で言う いわゆる ヨルダン川西岸の地域)をお前に与えるとして ヤコブ に与え、 そしてそこで 子孫を増やし 国を作っていけ、ということをおっしゃっておられておられます。 

 

この箇所もまた 、イスラエルがいわゆる ヨルダン川は西岸地区を「イスラエルの領土である」と主張する根拠の一つとなるわけですね。 

 

12節 私はアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、 あなたの後の子孫にもこの地を与えよう。 

 

 

ここでも神様は「アブラハムとイサクに与えた地をあなたに与え」とありますね。これが2025年の現在の地図で言う いわゆる ガザ地区周辺のガザ地区を取り囲んでいるイスラエルの領土の部分です。 

 

そしてもちろん イスラエル側も「ここは神様が私たちに与えると言ってくださった土地だから、私たちの領土である」という主張をこの箇所を元に行ってるわけですね。

 

そして これ以降、 人間の戦争や争い というのは土地の奪い合い というのが 基本になっていくんですけれども、 それもまた 背景の大きな一つとして 

 

「神がこの地を与えたんだ。 神がイスラエル人 にこの地を与えたんだ」という その言葉を背景にして土地を守っていくという戦乱の時代に入ます。 

 

そしてそれがこの2025年まで6000年間続くということですね 
 

13節 神は彼に語られたそのところで、彼を離れて 上がられた 。

 

 

つまり 神様は 「土地と人を与えてやる、国を作るんだ」ということを ヤコブ に言い残して天に登っていかれた、ということですね。 

 

本日は ”一国一城の主にならなければ 全額返金します”というお話です。 

 

ちょっとインターネットのオンラインショッピングのキャッチーな広告文言のようになってしまいましたけれどもw、 

 

自分の実家を離れて20年 外国で暮らしていた ヤコブが戻ってきたところに「お前は一国一城の主になるんだよ」 ということを神様が 宣言してくれて、もちろん 神様の約束なので必ず成し遂げられる。 

 

書いてはないですけれども、 この神様の言葉が「成し遂げられなかった時は全額返金 です」というのと同じ わけですね。 

 

ここでは ヤコブが民族の父となる という話をしておりますけれども、 

 

これはいわゆる 今までサラリーマンだった人が会社を辞めて自分で会社を立ち上げて自分の仕事を行っていく、 

 

もしくは 結婚して妻子供を持って自分の家庭を築いていく、

 

これらの行動も”一国一城の主となる”と言われますね。 

 

つまり 一国一城の主になるというのは、「自分本来の生き方を求めていく」という意味だとここでは解釈もできるかと思います。 

 

40歳まで引きこもり そこから20年間 外国に行っていた。 還暦を迎えてやっと自分の生きるべき場所 そこで人生を歩み始めた。

 

 ヤコブに向かっての神様のお約束なんですけれども、 こう聞きます と 65歳で日本では定年退職の年齢と言われているところから新たに国を作り上げていくわけですから、

 

ここで神様がおっしゃっておられる言葉というのは いわゆる氷河期世代 (私なんか 真っ只中 な年代ですけれども)の年齢ガー環境ガー という言い訳をやめて、

 

自分の人生を歩む。 それは何歳になっても始めることができる。 そして一国一城 自分の世界を作り上げていくことができる。 

 

なぜなら 神は全能の神である 神に不可能はない。 

 

神の言葉を聞いて生きて、 神がもともと 自分に与えてくださっている 人生を歩んでいく。 

 

逆に言うと 60歳ぐらいまでは人間の欲 や世間の目 といったものに右往左往しながら生きてきたんだけれども、そういったものから ようやく自由になって自分の人生を生きていけるのが60歳過ぎなのかな、という気もする箇所ですね。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”神と闘った結果” というお話です。 

 

本日は 創世記35章9節 から読んでいきましょう。

こうして ヤコブがパダン・ アラムから帰ってきた時 、神は再び 彼に現れ、 彼を祝福された 。

 

 

この 9節は、 ヤコブが20年 ++ぐらいの長い年月をかけて神様が示した土地、 ベテルに戻ってきた時、 神様は 再び ヤコブに現れて声をかけたというシーンですね。 

 

これは神様ヤコブに現れ「ベテルへ戻れ」という神様のお導きに従って行動をした後、再び 神様が現れてくださったという記録です。

 

そしてこの ヤコブに起きたこと というのは、 ヤコブの祖父である アブラハム、 そして ヤコブの父である イサク、 そして ヤコブ 本人、 また今後の ヤコブの子孫 全ての人が、

 

神の呼びかけに答えて行動すれば必ず神様は私たちの目の前に出てきてくださる、そして 祝福してくださる。

 

ということを表してる節でもあります。 

 

10節 神は彼に仰せられた。「 あなたの名は ヤコブ であるが、 あなたの名は もう、ヤコブと呼んではならない。 あなたの名はイスラエルでなければならない。」 それで 彼は自分の名を イスラエルと呼んだ。 

 

 

ヤコブという名前はこちら 創世記 25章の24節から26節のところで

 

 

 

 

お話ししておりますけれども、 双子として生まれてきた ヤコブが兄のエサウ のかかとをつかんで出てきたという 逸話から「かかとをつかむ者」という意味で 

 

こちら 創世記 27章31節から36節のところで 

 

 

 

 

ヤコブの兄エサウ が 「あいつを ヤコブとはよく 名付けたものだ これで私の足を引っ張り 欺いた」ということで、 このヤコブという名前は伝統的には他人の足を引っ張るものというような意味で捉えられていますけども、 

 

私としては この ヤコブという名前が他人の足を引っ張るというよりも、 こちら 創世記32章 32節

 

 

 

 

神様との格闘のシーンでもものつがい が外れて動けなくなったとしても、 はっていって神様の足元に絡みついて 「神様が私を祝福してくれるまで 絶対にあなたを離しません」 という神の足元にすがりつくもの 、という意味なんじゃないかなと思ってます。 

 

そう思うと、この ヤコブという名前が伝統的には 人の足を引っ張るものなんて言う言い方をされてますし 聖書には ヤコブの兄のエサウのコメントとして載ってるわけですけれども、 

 

本質的な意味としては神様の足元にすがりつき 絡みつき 「祝福されるのを絶対に諦めないもの」とすると、 そんな名前がついてるのもなんか納得いくなと私は思います。 

 

そして新しく与えられた 名前、 イスラエルというのは「神と戦うもの」 もしくは「神が勝った」という意味です。 

 

こう聞くと神様が 誰か、例えば ヤコブと戦って勝ったということを示してるように思われるかもしれませんけども、 ここで神様が戦って勝ったの相手は

 

 神が示した通りに行動すればその人は必ずいいように人生を生きていける神の導き 神の教えが何よりも勝っている、ということですね。 

 

そう思うと、 この2025年 現在の中東のいつも 扮装してる あの国の名前がイスラエルというのは 、「何よりも強い名前、 どんなに 誰が何をしようとも神様が勝つんだ」という名前はついているということですね。

 

 そして「神と戦うもの」 という方の意味では、「神様が 祝福してくれるまで私は絶対に諦めません。 何があっても、( 例えば ヤコブの人生で 言いますと40歳まで引きこもっていて 遺産相続という難しい案件で兄弟喧嘩になり逃亡 逃げた先では親戚のおじさんと20年間 確執 家に戻ろうと思って ちょっと滞留していた町で 息子たちが原住民との騒ぎを起こして そこも出ざるを得ない) どのような様々な困難がありながらも、神様が必ず 祝福してくれるんだから俺は前向きに生きていくんだ。

 

 今はまだ 自分の目に見える 祝福は現れてこないけど、必ず神様が与えてくれるんだ。 与えてください 与えてください、 必ず与えてください」こういう気持ちが神と争ったものとして書き留められ 表現されている名前 かと思います。 

 

本日は”神と闘った結果” というお話です。 

 

神と争い神と闘った結果、 神様は勝利したという名前がつけられた 「あれ?勝ったのは俺じゃね?」 ではありますけれども、 

 

これは自分の中にいる 神についての記述ですね。

 

人間というのは肉体的な存在だけでなく、 魂や霊 そして神様が内在する存在 なんですけれども、私の中にいる神が勝ったという風に理解しますと、

 

自分の中にいる神が導いてくださる言葉に従い、 その言葉に従った自分が勝った

 

つまり 神が勝ったという、聖書を読み 慣れてない人にはなかなか難しい解釈かもしれません けれども、 聖書をちょっと読んだことある方には「わかるわかる」ということかもしれませんね。 

 

そして このイスラエルという名前は「どんな困難の中にあっても神が戦ってくださる。そしてその困難を神が打ち負かし、 私たちを次のステージへ上げてくださる」

 

そんな意味も込めた名前ですので、 私たちがテレビのニュースなんかでイスラエルという名前を聞くと 「また戦争やってるな」という感じがしますけれども、 

 

その名前の本質というのは「誰にも打ち負かすことができない自分たちの国である」ということをがっつりと表明しているわけですね。

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は ”なぜ 樫の木が世界中で良木 とされているのか”というお話です。 

 

本日は 創世記35章 8節から読んでいきましょう。 

リベカのうばデボラはタヒに、ベテルの下 手 に ある 樫の木の下に葬られた。 それでその木の名はアロン バクテ と呼ばれた。 

 

 

唐突にリベカの乳母 デボラ っていうのが出てきましたね。 

 

まずは 人間関係をこの家系図で見ていただきたいと思います。 ちょっと 紙面の関係上ね ヤコブの位置がイマイチな感じになってて申し訳ないんですけれども

 

 

 ヤコブのお母さんなんですね 。

 

ヤコブが過去20年 お世話になっていたラバンというのはこのリベカのお兄さんだったということです。 

 

嫁いできた時 まあだいたい10代後半 15歳から18歳ぐらいだったと思われるんですけれども、 そのリベカに一緒についてきた 

 

 

 

乳母のデボラ というわけですね。 

 

すると このデボラって何歳よ?っていう感じになると思いますけれども、 ヤコブ が現在65歳ぐらいだとするとリベカ がプラス 40歳でだいたい 生きてたら105歳ぐらいっていうことですね。

 

105歳の乳母なんで、さらに15歳から20歳ぐらい年齢を出したとなると120歳近い年齢ということですね。

 

なんで また そんな人がここに出てきたか って言うと、リベカのタヒというのは 聖書には出てこないんですけれども、 ヤコブが故郷を後にして きっと その直後に ヤコブの父である イサク はなくなっただろうし、いつというのはわからないですけど やはりリベカもイサクの後この世を去っていた。

 

それまでは リベカの乳母として40年以上、 もしかしたら50年近く イサクの家族 つまり ヤコブの兄である の家族たちと一緒に住んでいた。 リベカ がなくなったことを機に リベカの故郷 ラパンの家に戻ってきていた 。

 

ヤコブとしては一瞬たりとも 気の抜けない ラバの身辺から来た人間よりも、リベカの乳母として自分が子供の頃から世話になっていた、 慣れ親しんでいた 乳母のデボラの方が信頼度は高かった、ということは想像にがたくありませんね。 

 

そして ヤコブがラバンの元から出てくる時ももちろん、この乳母のデボラ も一緒に連れてきていた。 ヤコブという人間は父の死に目にも母の死に目にも会えない 運命ではありましたけれども、 このリベカの乳母である デボラを大切にすることで自分の中では「親孝行をしている」という気持ちを昇華させていたのかもしれませんね。 

 

そしてそのデボラを大事にする気持ちというのが この 「ベテルの下 手 に ある 樫の木の下に葬られた」という箇所だと思います。 

 

樫の木というのはこちら 創世記35章4節で 

 

 

シェケムの樫の木の下に 異教の神々を捨てたという、 ヤコブの行動のところにも出てきます。ここ以外にも 樫の木という言葉が出てくる時は ゆるぎないとか 堅牢 とか いい意味で用いられる場合が多いんですね。 

 

ここでもデボラを 樫の木の下に葬ったとありますので、 尊敬を込めて 手厚く 自分の父母の代わりになっていた人物を弔った、 ヤコブの性格がよく見える箇所だと思います。 

 

またデボラはリベカの実家とイサクの家のある場所が 現在で言う 1000km ちょっとあるんですけれども、 この距離を

まず リベカ がお嫁に行く時に一度、 

そして リベカが死んで自分の故郷に戻ることで2度、 

そして 最後 そのリベカの故郷から ヤコブ が神に出会った場所まで ともにいることで、

 

デボラというのは ヤコブの信仰生活に非常に重要な人物だったと思います。

 

子供の頃から イサクとリベカ が出会った不思議な話、 神様の導きを ヤコブに言って聞かせ、 リベカ がなくなった後 故郷に戻ってきて ラバンとの確執 葛藤がある ヤコブ に対して「神を信じよ」 と きっと語っていたんじゃないかと思います。 

 

そして この命からがらの神が示した 地へ 戻る その際にも、やはりヤコブの信仰を下支え してきた 樫の木のように固い信仰を持つ、ヤコブ にとっての父母代わりの大きな人生の柱だった。こういうことがこの説の中には含まれていると思います。

 

 またその木をアロン バクテ と呼んだとありますが、 バクテ というのは嘆きの悲しみの という意味だそうです。

 

*余談: 東南アジアに住んでますと バクテ と言えば バクテー、 マレーシアの地元料理として有名なあのお料理をついつい 思い浮かべてしまいますけれどもww*

 

 親しんできた 乳母が亡くなった、 それは嘆きのことではあるんだけれども、 その乳母によって与えられた信仰は 樫の木のように固く大きなものになっていた。こういったことが表されているかと思います。 

 

本日は ”なぜ 樫の木が世界中で両国 とされているのか”というお話です。 

 

樫の木というのは 世界中で「良い木」という風に言われてますよね。 見た目がどっしりとしてますし、建材としても 堅牢で重厚感があってみたいな 評価のようです。

 

聖書の時代から続く 知恵の木 、信仰の硬さを表す、 その見た目 ゆえに神が宿る木、というような見た目もいいし 重厚感もあるし神様として見上げるに丁度 いいね 、という まあごくごく素人の単純な表現ではありますけれども、そういった点が世界中で好まれている理由 かと思います。

 

 皆さんもご近所にある、 もしくは 旅行なんか行った先に 樫の木があったら、きっとその樫の木というのは その地元で人間の様々な 崇高な思いを受けてきた木 なんだろうな、と思っていただけると ご旅行の思い出というものが一つまた 鮮明になるかもしれませんね。 

 

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こんにちはマダムサトコです。 本日は”失敗しない、神様が自分に現れてくれる方法”というお話です。 

 

本日は 創世記35章6節から読んでいきましょう。 

ヤコブは自分と共にいたすべての人々と一緒に、 カナンの地にあるルズ、 すなわち ベテルに来た。

 

 

地図で現在地を確認すると

 

 

今で言う いわゆる ヨルダン川西岸、 昭和が小学生の頃から紛争や戦闘が続いている地域ですね。 そして現在ではイスラエルではないとされている地域 ですね。 

 

以前にいた シェケムから南へ 60キロぐらい南下してきています。 現代的な地図の感覚で言うと 「南下」、南に下がるなんですけれども、 

 

このヤコブの時代には神様がいる場所が一番高い、 すなわち ヤコブ が神様と出会った ベテルが一番高いということで、 35章3節では

 

 

ベテルに登っていこう 上がっていこうという表記になってますね。 

 

ベテルとは ヘブライ語で「神様の家」 という意味です。 神様に会った場所なのでそのように呼んです。 現在ではこのベテル、神の家という名前を教会の名前として つけているところも結構ありますね。 

 

元々住民たちが呼んでいたが 地名がルズ なので、 ここから 見受けられることは先住民がルズと呼んでいた カナンの地の地名を「勝手に」 と言うとね ちょっと聖書的にはどっちが勝手なんだって話になるかもしれませんけども、 

 

ヤコブのセンス で「自分が神様がここで出会ったから」ということで 神の家という風に名前を変えてるわけですね。 

 

これはなかなか 原住民との争いが起こるようなことをしてるな、と私は思いますね。

 

例えば 日本の小さな町が栄(さかえ)とか富士とか呼んでいるような地域を、後から来た人たちが「ケートスック」とか「ケートプーカオフジ」とか(タイ語で言わせてもらいましたけれども) 

 

全然自分たちとは言語の違う人たちが、自分たちには意味のわからない言葉で自分たちの土地を呼んでるわけですから、 ここの 原住民 からしても結構な反発心があったんじゃないかな と私は思います。 

 

しかし、このベテルに来たというのを以って、ヤコブの時代から現在2025年まで約6000年間「だって神様がこのベテルをヤコブ=ユダヤ人にあげたんだから、ここはユダヤ人のもの=イスラエルだよね」という主張をする箇所にもなってるわけですね。

 

7節ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエルベテルと呼んだ。それはヤコブが兄から逃れてきた時、神がそこで彼に現れたからである。 

 

 

そうやって自分たちが後から入ってきたのに、 原住民がつけていた地名を尊重せず、またそこに 祭壇を築きとありますので、原住民側からしたら「自分たちの土地を買ったら変な名前で呼んでる。あそこ に よくわかんない 怪しいもの作ってる」 っていう感じになるんじゃないでしょうかね。 

 

2025年の日本でも、従来日本では見受けられなかった 宗教施設が町のど真ん中にできたりなんかして、元々住んでいた人たちが 脅威を感じるということがありますけれども、 まさにそういう感じ なんじゃないでしょうか。 

 

そして エルベテルと呼んだとありますけれども、 エルベテルとはベテルの神という意味です。 

 

私としては この記述「うーん?」と 思います。というのも、 聖書の神様というのは いわゆる 唯一神、 ただ一つの真の生ける神という風に表現するのですけど、

 

 ここでベテルの神ということは、 じゃあ シェケムの神とか、エルサレムの神とかもあるの? それっていわゆる 八百万の神 みたいな思想と近くない?という風に思うわけです。

 

ここは、

ベテルで神様と出会った=神様の家 、 

ベテルで出会った神様の家で神様にあった、

に考えるべきなのかなという風に思ったりもします。

 

けれども、 

 

もしかしたら 族長の ヤコブ でさえも、 多かれ少なかれ 原住民の多神教に影響をされていたのかもしれない、ということをちょっぴり 微妙に表現してみたのかもしれませんね。 

 

そしてこの説のもう一つの見所は、「 ヤコブが兄から逃れていた時神がそこで彼に現れた」ですね。 

 

神様というのは 人間が絶対絶命の時に現れる、必死で助けを求めている時に現れる、とよく言いますね。

 

 逆に言うと 「まだ大丈夫だよね」って思ってる時は神様というのはなかなか 私たちの目の前に現れない。

 

さらに 逆に言うと、自分がしたいことを常に必死で求めている状態、(ヤコブの場合ですと兄から逃れている)という現実的な行動をしており、また神を求めていたからこそ神がそこで彼に現れた、ということ なんじゃないかと思います。 

 

本日は”失敗しない神様が自分に現れてくれる方法”というお話です。 

 

いろんな願い事を叶えたいと思いながらなかなか叶わない、という のが人間の世の常ですけれども、 

 

この神に会ったという話は逆説的に、「常に全力で目の前のことに対処しながら 神様を求めていれば、神様って現れてくれるよね」 ということでもあるんじゃないかと思います。 

 

私は聖書の神を信じている者なのでこの「目の前のことに全力で対処すれば神様が必ず助けてくれる」というのは何度も自分で体験してます。

 

そして、「 私は神様なんて信じない」っていう人は、もしかしたら これまでの人生に目の前のことに全力で尽くすということがなかった人なのかなとも 思ったりします。

 

もちろん 口では「神様なんて信じない」って言ってるだけかもしれませんし、 いろんな家庭環境で神様という言葉に 疑念を抱いてしまっている人なんかもいるとは思いますけれども、 

 

そういうことなく「いると思ったことがない」という人は、 もしかしたら これまでの人生で 目の前のことに必死になって取り組んできた、もう危ないと思って どうにか 守られたいと思って取り組んできた、という過去がもしかしたらないのかな とも思ったりします。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”こうやって 私は無罪 方面で逃亡できました” というお話です。 

 

本日は 創世記35章5節から読んでいきましょう。

 彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、 彼らは ヤコブの子らの後を追わなかった。

 

 

34章の30節で

 

 

 

 

「原住民と 争いごとになってしまって困ったなぁ」 なんて言ってた ヤコブですけれども、 神様に「今いる場所から60キロほど 南下した場所に行け」と言われて

 

 

 ヒビ人の村を一つ潰すほどサツ戮や 略奪を行った後、旅立つと神からの恐怖が周りのまちまちに下ったとありますね。 

 

これはいろんな解釈があるんじゃないかな と私は思っています。 

 

まず1つは この時代の神からの恐怖というのは、 雷雨、 雷を伴った 嵐ですね。 

 

日本と違いまして 砂漠 で乾燥した気候 なので、 雨とか 雷というのは非常に珍しい現象だったと思います。 ヤコブ たちが街を出る時にその珍しい現象が起こり、 人々が「おお、 これは神からの奴らを追いかけるなという 俺たちに対する 牽制だ」と思った。

 

 つまり 天候が理由で追いかけなかった、ということもあるでしょうね。

 

もう一つは ヤコブ 自身は「いやー 困ったな、 原住民との争いが起きてしまった」と ヒビ人の村 以上に略奪をする意思は全然なかったんですけれども、 周りの町の人は その1回の行為を見て「あいつらは危ない、 あいつらは怖い」ということで 

 

ヤコブの一族を追いかけていって 殲滅 しなければならない、という勇敢な そして未来を考えた行為をするよりも「 あーもうとにかくあいつらがいなくなるまで、 町の門をしっかりと閉じて 絶対に受け入れないようにしよう。 もちろん だが追いかけたりなんて絶対しない」という

 

彼ら自身の恐怖心 、彼ら自身が自分たちの心の中から生み出した 恐怖、 こういったものが この 35章5節の後半部分 の「彼らは ヤコブの子らの後を追わなかった」 につながっていくんじゃないかと思います。

 

結果として ヤコブの一族というのは 周辺住民とのトラブルもなくその地を後にできたということで、 この創世記12章2節 3節に

 

 

 

 

書かれている「アブラハム を祝福するものを神様は祝福してくださるし、 アブラハム を呪うものを神様は 呪う」という状況が形成され、 ヤコブ たちは無事に この村を後にしたということですね。 

 

そしてこの辺りの対処法、 地元民が「あの人たちとは仲良くしない」というのが 現在のいわゆる 中東問題 ヨルダン川は西岸における様々な 紛争という点に脈々と受け継がれているのかなという気がします。

 

そして原住民たちが自分の心の中から作り出した 恐怖、 例えば 雷雨は神の怒り が現れているとか、たとえ ヤコブが困ったなあと頭を抱えていて これ以上 現地の人たちに何かする意志は毛頭なかったとしても「 あいつらは絶対してくる、 あいつらは怖いという」思い込みによる恐怖。 

 

こういった人間の作る 自分勝手な 恐怖というものを恐れてはならない、という 私たちに対するメッセージの一つなのかなということも思ったりします。 

 

 

 

本日は”こうやって 私は無罪 方面で逃亡できました” というお話です。 

 

この箇所はいろいろ書いてはあるんですけれども、 結果的には人間の恐怖心が行動を起こすことをやめさせたという話なわけですね。 

 

そして「あいつらはやっつけなきゃいけない」と強く思いながらも、「 いやいや あいつら怖いからやっぱりやめよう」というまあ 葛藤状態と言うんですかね、 

 

憎たらしいんだけど 自分たちの手で復讐できない、という状態が6000年間続いちゃって 今までも続いちゃって という感じですね。

 

この辺の民族紛争というのが絶え間なく続いているのは、「何とかの境界線が」とか表面的にはそして ニュース的にはそういう話で「またそこで紛争してるよ」 っていうことになるんですけれども、 

 

根本的には「あいつらは信用できない、あいつらは何とか 叩き潰さなければいけない」と思いながら「 でも怖いしなぁ」と思っている 消極的な考え方が解消されずに続いてきたことなのかなとも 思ったりします。 

 

そして面白いことに、事を起こした ヤコブとしては「原住民と やっちまったよ、 頭痛い なあ」 ということで、

 

そういう状況だったからこそ、神様の「ベテルに行け」という言葉がここでの生活を止めるいいきっかけになった、

 

ということだったかもしれませんし 

 

「うわぁ ここでの生活 今後厳しいよな どうしたらいいんだろう」と思ったからこそ ベテルに行けという言葉が与えられた、のかもしれませんね。 

 

とても短い 一説ではありますけれども、 人間の深層心理 や神の言葉というのは人間を動かす最適な時に与えられるということがよくわかる箇所だと思います。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は 昨日の機材不調による収録できなかった部分、創世記35章4節の解説 部分としてお届けしたいと思います。 

 

彼らはこの樫の木に隠していったというものは、

 

 

異教の神々 、つまり 人間が 石や木で作った神様と呼んでいる何の力も実態もない 置物と、それに対する自分の心の中の迷信 。「この置物が神様だ」と信じてる 心ですね。

 

 つまり ここでは人間の信じる心というものを、外部から見てわかるもの いわゆる 偶像置物、そして自分の心の中にある それが神様だと信じる心、 人間の外部からも 内部からも本当の神様でないものを自分の中から切り落としていったということです。 

 

そして耳につけていた 耳輪 というのは、人間が作り出した流行やその土地の風習というものを自分に取り入れることによって、人間が神様を見上げる 心よりも時流に流され 外国の文化 (その中にはもちろん 宗教的な意味合いのある文化)を知らず知らず身にまとってしまう、 

 

そして知らず知らず それらに巻き込まれ 取り込まれ、 生ける真の唯一の神を見上げることを忘れてしまう。 こういったものをここで切り捨てていったということですね。 

 

現在世界にはいわゆる正統派ユダヤ教徒 と呼ばれる人たちがいますよね。

 

画像はJ-CASTNewsさんより拝借しました。ありがとうございました。

 

 いわゆる 独特の服装や 独特の身のこなしをしている人達、 そして 独自の宗教を持っている人たち、という風に 日本のメディアなんかでは紹介されています。

 

あの人たちの考えというのは、もしかしたらこの聖書の創世記35章4節にある「他の神を内外共に受け入れない。 他の文化も受け入れず自分たち 独自の道を歩んでいく」 という思想はこの箇所から派生した考え方かもしれませんね。

 

正統派ユダヤ教徒なんて聞くと謎多き人たちのように思えますけれども、もしかしたらこの聖書の記述に忠実に生きている人たちなのかもしれませんね。

 

私としてはこの35章4節のすべての異国の神々を手放す=自分の中の思い込みや迷信も捨てていったというところが、人間にとって大きなヒントになるのではないかなと思います 。

 

21世紀になって25年 四半世紀経ちましたけれども、 どんなに AI が発展しようと どんなに 情報社会 が といえども、

 

 人間の心の中にある迷信というのはなかなか排除できませんね。 

 

私は聖書を読んで 聖書の神を信じるものですけれども、 例えば ”茶柱が立つと縁起がいいね”という迷信があるじゃないですか。 (この頃は茎が残るような製法とか急須に直接 茶葉をダ バッと入れて お茶を淹れるって言うこともないと思いますが)そういうものを見たらきっと「縁起がいいですね」 って言うだろうし、

 

うちでは昔お雛様を3月3日を過ぎても(あれは6月ぐらいまでなんだかんだで片付けられなかったことがあって)「そういうことをすると娘の婚期が遅れる」とか言われてましたけども、

 

 今の世の中となったら結婚するもしないも自由だし、 昔のように 10代後半 20代前半で結婚しないと 「もう行く先がない」みたいな まるで 最終処分場に粗大ごみを出すような言われ方もしなくなりましたよね。 

 

これは聖書の言う 迷信を断ち切りなさい というものとあんまり関係のない話で恐縮ですが、時代が進むにつれて迷信というものが自分の心の中から剥がれていった例ですね。

 

 聖書の時代では現代のように世の中の移り変わりがとても早いということはなかったでしょうから、やはり ここで ヤコブの一族全員が迷信を断ち切ったというのは非常に大きな成果だったと思います。

 

ということで 本日は35章4節の解説 部分をお送りいたしました。 今後とも引き続き 皆さん ご愛顧よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。 

 

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