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こんにちはマダムサトコです。 本日は”ハゲとか 毛深いとか、もうちょい 名前 考えてつけろよ” というお話です。 

 

本日は 創世記 36章4節から読んでいきましょう。

 アダがエサウに エリファズを生み、バセマテ は レウエルを生み、

 

 

ここではエサウ の妻たちが次々と 子孫を生んでいった、子孫を増やしていった、という記述があります。 

 

子供の名前の意味をちょっと見てみましょう。

 

エリファズですが、エリとは一般的に ヘブライ語の神様という意味、ファズ 洗練された 金、 純金という意味を合わせて「 私は神の金である」とか「神は 精錬する、神は私を鍛え上げる」 こんな意味があるということです。

 

そして バセマテはレウエルを産み、のレウエルというのは「神様の友」という名前です。 現代的に言うと ローレルとか、女の子の名前でしたら ラウラとか、そういった形で現在にも残っている名前です。

 

昭和の皆さんで車好きな方だと、「確か 昭和の時代にそんな名前の車があったよね」 と思い出される方も多いかと思います。写真はネットから拝借しました。

 

 

もしかしたら その名前の由来 も聖書から、なのかもしれないですね。

 

私がここで 意外だなあと思ったのは、 ヤコブと比べて神に関心を示していない人物として聖書に書かれているエサウが、案外 子供の名前には神に関連した名前をつけている、という点です。

 

もちろん、エサウ が 祖父のアブラハム から伝えられている神を思ってつけたのか、異教徒である妻をめとってそれらに影響されて アブラハム が示した 神とは違う神を思いながらつけたのか 、この辺りは分かりません。

 

とりあえず この2人は 神に関する名前がついている、と見受けられます。

 

 5節 オホリバマは エウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらは カナンの地で生まれた エサウの子である。 

 

 

ここに他にも名前が出てきます。名前の意味を見ておきましょう。

 

エウシュというのはイエスとか イエズス とか、 非常に音が似てるので神様ってつけたんだなと分かります。

 

もう一つの説で、 父であるエサウ が自分に似た名前をつけたのではないか、というものがあります。エサウ というのは毛深いという意味なので、 この子が毛深い子だったんだろうな、ということもちょっと界間見えて面白いですね。

 

 赤ちゃんのうちから毛深いってすごいな、と日本人的には思いますけれども、私としては いきなり背中や腕がももうと毛が生えていたというよりは、 眉毛がガッツリ かもめ眉毛でつながっていた。そんなような意味なんじゃないかなと思います。

 

ヤラムというのは、 ヤハベは高きにおられるという意味だそうでして、 これもまた 神様に関する名前ですね。

 

ここまではあーなるほどな と思うんですけれども、問題は 最後のコラです。 

 

なんとこの コラ という名前は”ハゲ”という意味があるそうです。 いやちょっと待って、 いきなり赤ちゃんが生まれた時点でハゲって それはないだろうw、と思ういますね。

 

 現代的な栄養学で言うと、 栄養が母体からきちんと回っている赤ちゃんっていうのは、髪の毛がお腹の中で1回全部抜けて生まれてくるらしいですね。 私も中途半端な 伝聞で素人の発言 なんで違ってたら ご了承いただきたいと思うんですけれども、 そういう意味ではこの3番目の子は非常に栄養が良かった状態で生まれた。 何らかのエサウの家庭の経済事情が良かった 。もしかしたら そういうことも見受けられるかもしれません。

 

 そうすると 先ほど エウシュエサルと同じく 毛深かったのかもしれないという赤ちゃんというのは、私としては 眉毛だけがやたら濃かったのだろうと思ったんですけれども、栄養 事情が良くない中で生まれた子というエサウの家庭の財務 背景 なんかも微妙に見えたりする箇所なのかなと思ったりもします。

 

 そしてこのコラというハゲという名前なんですけれども、 聖書の中に 詩篇 と呼ばれる 世界最高の詩が集まっている箇所があり、 そこの中で”コラのリードに合わせて歌う”というような場面が何回か出てきます。

 

もちろんエサウの子のコラと詩編のコラは全くの 別人物なんですけれども、 コラとは詩篇の中では悔い改めの象徴となっているので、エサウ の心境としては エルシャ やらヤラムと神様の名前を付けて最後に 「悔い改めました」 という名前を( 後付けではありますけれども)つけているというのが、エサウ の人生もまたこの名前から推し量られるかな と思います。

 

このエサウ の子孫たちが現代で言う パレスチナ人の祖となり、ユダヤ人 /イスラエル人 と呼ばれるヤコブの子孫たちと ずっと争っていく、という系図がここに書かれているということになります。

 

本日は”ハゲとか 毛深いとか、もうちょい 名前 考えてつけろよ” というお話です。

 

ネコの名前でモサモサちゃんとかはつけたりはするけども、 ハゲはないだろうと思いますね。

 

 昭和の我々がイメージするハゲというのは、 サザエさんの父の波平さんハゲではありますが、 聖書の中のハゲというのは昭和で言う いわゆる ザビエルハゲです。画像はネットから拝借しました。

 

 

神様が自分の上にいる、 その場所をきれいにしておく、 清浄にしておく、という意味で 頭頂部を剃るということがあります。

 

今回の箇所の場合、生まれてきた子供にいきなりハゲですからね。 もうちょい なんかあるだろうwと思います。

 

当時は今と違ってハゲという言葉に敏感に反応するということがなかったのですかね。 もしくはハゲと言う とおいおいそんな名前!と思うんですけれども、 気持ちとしては

 

生まれた時から この子の上には神がおられる、

 

まあそういう意味でつけたのかな?という希望で 今回は締めてみたいと思います。

 

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こんにちは マダム サトコです。 本日は”男は女に影響されやすい” というお話です。

 

本日は 創世記 36章3節から読んでいきましょう。

 それに イシュマエルの娘でネバヨテの 妹バセマテである

 

 

イシュマエルって何だっけ?と 思う方も多いかもしれませんね。

 

ヤコブのおじいさん、 ユダヤ民族のそである アブラハムが、なんと 86歳の時に妻のサラから若い エジプト人の女性 ハガルを妾として与えられ 、アブラハムの長男として生まれてる子 ですね。

 

でもこの イシュマエルというのは、 アブラハムに神様が約束した「 生まれるべきもの、 神に祝福されたアブラハムの財産を受け継いで生きていく 民族の祖となるものとして 約束された子」じゃなかったんですね。

 

 イシュマエルはアブラハムが85歳 -86歳ぐらいの時に生まれたのですが、 その15年後なんと アブラハム 100歳サラ 85歳ぐらいの時に夫婦の契りがあり、 正妻 である サラ から イサク が生まれました。

 

 現代の人間としては「100歳で男性機能が まだあった? そして 85歳で女性の方も子供が生まれた??」なんて肉体的な面 ばかりに注目して うっかり見てしまう箇所ですけれども、 

 

聖書全体に流れる 「神に不可能はありません」 という言葉は、 このアブラハムの正式な 後継者であるイサクは父親が100歳母親が85歳の時に生まれた。 こんなところからも界間見ることができるかと思います。

 

そして15歳になって、 つまり 15年間はアブラハムの後継者は「もうこの子しかいない」ということで イシュマエル 本人も 蝶よ花よと育てられ、 イシュマエルを産んだ ハガル も 部族内ではそれなりの地位で大切にされてきたんでしょうが、

 

なんと15年経って正式な 後継者が生まれました。 聖書では イシュマエルが子供のイサクをからかったと書いてありますが、私はそこに 「もしかしたら イシュマエルが イサクの首に手をかけた、自分の地位を脅かそうとする イサクをこの世から消そうとしたんじゃないか?」と私は思います。

 

それに怒ったサラ、 「ハガル も イシュマエル もこの部族から追放してしまえ」とヒステリックに叫び、それに アブラハムが従って この2人を 野に放った。

 

 そして荒野で ハガルは自分 そして自分の可愛い子供 イシュマエル が命を落としかけた時、神がその声を聞いて 命を救い、イシュマエルはその後 野をかけるものとなった。 

 

つまり 定住して農耕 というよりは、 遊牧民として移動したり 時には 遊牧民同士で争って相手の財産を奪ったり、なんていうことがあったようです。

 

そのような、 言ってみれば アブラハムを始めとする 本家の筋の人間と様々な わだかまりがある 傍流の家の子がイシュマエル と言えるわけです。

 

 イサクの双子の息子の長男の方であるエサウ というのは、この傍流でそして自分たちの一族にあまり良い感情を持ってない親戚の筋から妻を得ていた、ということですね。

 

ということは、エサウという人物は 3人の妻がいたわけですけれども、 3人とも自分の一族に対して良くない感情を持ってた人たち( もしくは持ってしまった人たち)の中から妻をめとっていた、ということが ここからわかります。

 

 

 そして男性というのは、女性が言うこと 女性がやることに非常に簡単に影響を受けやすく、女性が行っている 習慣になじみやすい 巻き込まれやすい性質があります。

 

自分たちと信仰や文化の違うものたち、 また自分の身内を悪く言うもの、 もしくは悪感情があるものにたやすく 流されていった、たやすく 同調されていった。

 

特にエサウは ヤコブとの相続の話で自分の出身家庭には いまいちな感情があったと思われますので、 妻から影響を受けて何なら「俺が自分の出身部族を潰してやろう、 消滅させてやろう」 ぐらいに思っていたということもここから想像は固くないかと思います。

 

本日は”男は女に影響されやすい” というお話です。 

 

聖書の中で最初に女に影響された男と言うと、 もちろん アダムですね。 エヴァ(女_にそそのかされてうっかり 神様との約束を破って 知恵の実を食べてしまった。

 

 創世記の主人公の一人である アブラハム。 サラという奥さんがいたんですけれども これがどうやら 恐妻家だったようで、「妻の言うことには大人しく従っとけばワーワー言われなくて済むから そうしよう」と思っていたかのような行動も散見されます。

 

イサク。 リベカ が妊娠中に「生まれてくる双子のうちの弟がこの家を継ぐものだ」という言葉が神に与えられれ、その言葉にイサクも影響されて弟である ヤコブに財産を与えると宣言した。

 

ヤコブ。ヤコブ に対してはラケルが強権的に何か言ったという記述は見受けられませんが、 4人の奥さんを持って 奥さんとの人間関係、 奥さんとの間に生まれた息子たちの人間関係というものが様々あった、ということが記述してあるので やはり女性から 影響を受けたということも言えるかと思います。 

 

現代の私たちの生活として、昭和 は「お父さんの権威」ということで 「男が大事なことを決める」というのはありまして 男がリードしているように見えたんですけれども、

 

 本当は昭和の時代も 令和の現代も「女が家を取り仕切ってる、女の方が 影の将軍や 闇将軍として家庭を仕切ってる」ということも多いんじゃないかと思います。

 

そして「 夫婦は似ている、夫婦は似てくる」というのは 実は女が男に影響を与えて男が女の色に染められている、というのが人間の実情なのではないでしょうか。

 

 聖書の時代のアダムとエバ から人間の本質が変わらない。 その証の一つなのかなとも 思います。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”敵は身内に潜んでいる”というお話です。 

 

本日は 創世記 36章1節から読んでいきましょう。 

これはエサウすなわち エドムの歴史である。

 

 

1つ前の章 35章の最後で、双子であるエサウ と ヤコブの父 イサク が180歳で亡くなったという記述がありましたね。

 

 

 そしてこの36章は、 双子のうちのエサウ の方、 神に選ばれている方の息子ではないが、 遺産相続で争った後 20年またヤコブが帰ってきて イサクがなくなるまで60年、 ざっくり 換算で80年 、本来は神に選ばれた方の息子である ヤコブが治めるべき 土地を実効支配している。実効支配とは持ち主でないものがその土地に入り込んで 居座っちゃってる状態ですね。 その状態を80年間続けているということが ざっくり 計算からわかります。 

 

そのエサウについての記述が この 36章です。 この36章 というのは、「 神に選ばれていない土地に執着する、 居座る、 ここは全て俺のものだと言い張る。 そういった行為が最終的に人間をどのような道に導いていくか」を表すように思います。 

 

この1節ではエサウすなわち エドムの歴史とありますけれども、 もう少し深読みしてこの説を見てみましょう。

 

 神の言葉に従わないもの、 神を軽んじるもの、 神に目を向けようとしないもの、 このような人間 そしてその子孫というのは、どのような 顛末を迎えるのか。 

 

こういったことが この 短い 「エドムの歴史である」という言葉に隠されているんじゃないかと私は思います。 

 

2節 エサウ は カナンの女の中から妻をめとった。 すなわち ヘテ人 エロンの娘 アダと、ヒビ人 ツィブオン子アナの娘オホリバマ。

 

 

これは 創世記 28章1節

イサク は ヤコブを呼び寄せ 彼を祝福しそして彼に命じていった 。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。 

 

 

この言葉に思いっきり 反してるということが ここからわかります。 

 

カナンというのは 現在の地図で言う イスラエルがある あたりの地域のことです。 そしてカナン人というのは 、アブラハム イサク ヤコブと継がれてきた 生ける唯一の本物の神、 目に見えない神を信仰する人たちと違い、 

 

偶像礼拝 だったり 神殿娼婦だったり、 父親が誰かわからない子供が生まれたら 「神様への捧げ物だ」なんて言って生きているのに熱くねした鉄板の上に乗せて焼いて 捧げるなんてことをしていた人たちです。 

 

自分たちの文化 価値観とは非常に相容れない生活をしていた人たちでして、2026年 現代の言葉で言うといわゆる パレスチナ人のことです。 

 

つまり 宗教観の齟齬だったりとか自分たちの文化 背景の違いから の争い というのは、もう この聖書の時代 6000年前から始まっていたことです。 

 

ヘテ人 誰々の娘誰々ヒビ人 誰々の子 誰々と書いてありますけれども、 このヘテ人というのはこちらですね 創世記10章15節などに出てきます。

 

 

ヘテとは ノアの方舟のノア、息子にカナンというのがいまして、 ノアは自分の恥ずかしい姿を見られて 「カナン、 お前なんて 呪われろ」とすごいことを言うんですけども、 このノアの子孫がカナン人でありヘテ人です。 

 

昭和40年代生まれぐらいの女性には非常に懐かしい漫画、”王家の紋章” 、 その中に出てくる”ヒッタイト人のイズミル王子”、 もう 絵が浮かぶ人がたくさんいらっしゃると思いますが、 このヒッタイト人の元祖とも言われるのがヘテ人です。

 

ヒビ人、 これは ヤコブ が 今で言う ヨルダン川西岸地域にうっかり留まってしまった時に、自分の娘が地元の民族であるヒビ人 とよからの関係を持ったから、

 

 

と言って ヤコブの息子たちがヒビ人の町を襲って全滅させてしまった、という記述があります。

 

これらから、エサウ というのは「呪われよ」と言われた人物の子孫、 またヤコブに恨みを持つ民族の出身女性、という人たちと結婚していたということですね。 

 

呪われてる アンド 恨みを持つ 、もうなんかどうしようもない コンボ という感じですが、そういった人たちを嫁にとっていたエサウという人間像が ここに書かれているわけですね。 

 

本日は”敵は身内に潜んでいる” というお話です。 

 

この 人間関係を見ると、人間の争い というものが身内から起こっていることがほとんどである、というのが分かりますね。 

 

エサウ自身も 「自分がこの土地を実行支配はしているが、自分に与えられたものではない」というのはよくよく知っていたと思います。 

 

それでも霊的な語りかけのない状態での人間というのは、目に見える財産が最も大切なものだと思い込み、「 神様の言葉なんて聞いているよりも この土地が欲しい、 あの家畜が欲しい」といわゆる 物欲というものを発揮していくことが多いのではないでしょうか。 

 

昭和生まれの皆さんはもうどんどん 相続人となっている人が多いと思いますけれども、 精神的に未熟な人ほど物を欲しがる。 俺がこの財産を全部引き取るんだと言い張ったりする。 そんな場面に出くわしている人も多いと思います。 

 

この人物もこれから先 、精神の未熟さにより 結局神に目を向けない人生へと向いていき、その顛末 がどうなるか。 また明日以降 皆さんとともに見ていきたいと思います。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”180歳? 年金 不正受給?”というお話です。 

 

本日は 創世記35章28節から読んでいきましょう。 

イサクの一生は180年であった 。

 

 

前回の箇所で、 ヤコブがイサクの元に戻ってきた時に イサクの年齢はだいたい120歳から130歳ぐらいだろう、という試算をしました。計算上はヤコブが帰ってきてからまた50年か60年ぐらい生きたということになりますね。 

 

現代的な寿命で考えると、50年ぐらい生きた時点で (現在の私 。アラフィフで昭和40年代半ば 生まれ)もう十分 よろよろ。 なのに 120歳という さらによろよろの状態で、そこからさらに50年生きるなんて、 まあ よろよろ でヨボヨボ だったと思います。

 

とりあえず、180年生きたとありますので、 非常に長生きでした。

 

これは、 イサク は ヤコブが帰ってきて 改めて 

 

「この地を ヤコブ に 引き継ごう。

 

しかし ヤコブがいない 20年の間、神様に選ばれてない方の息子 エサウ が 多民族から嫁を取り、このヤコブに継がせるべき 土地を いわゆる 実効支配 のような形で納めちゃってる。

 

今更改めて ヤコブに継がせると宣言する、これはまた大きな喧嘩になる原因だというのはよくわかってる。」

 

イサクには様々な葛藤があったと思います。 これの解決法としては「そうだ!自分がシななければいいんじゃないか?!」と思ったのかもしれませんね。 

 

人間としては非常に面白いというか、 「そんなことありえんわw」というような解決策ですね。 しかしこの180年生きたという記述から見ると、 イサクは本気で自分がシななければ、 そして自分が生きている間に(もしかしたら、 ですよ) この地を実効支配してしまっている エサウがナくなったのであれば、 それはもう スムーズに ヤコブに この地を与えることができる」と真剣に思っていた、のかもしれませんね。

 

 それがこの「180歳まで生きた」の記述の理由、もしくはそこまで生きながらえたイサクの気力、「神に選ばれた息子の方に この土地を引き継がせるまで、俺はシねない」と思っていたことの表れかもしれませんね。 

 

29節 イサクは息が絶えてシんだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。彼の子 エサウ と ヤコブが彼を葬った。

 

 

この息が絶えてという記述ですけれども、 聖書的な解釈で言うと 「神様が人間に息を吹きかけて、人間は神の霊を自分の体に入れて、 人間としての人生を歩み始める」から考えてみましょう。

 

 創世記2章7節神が土から人を形 取りその花に命の息を吹き入れ 人間が生きるものとなった

 

 

ここから考えると、「息が絶えた」というのは、神が与えた魂が人間の肉体から抜けていった 、それが人間の本来のシである、ということも見受けられるかと思います。 

 

「ヤコブ に土地を継がせるまで俺はシねない」と180歳まで頑張ってたんですけれども、 

 

こちら 創世記2章17節 神はアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないと命じ、それを食べた日には「必ずシぬ」と警告した。

 

 

 

 

どんなに神に愛され そして神を信頼 し生きてきた イサク であっても、人間であり シを迎えなければならない。 このような記述がここに隠れているかと思います。 

 

彼は年老いて長寿を全うして自分のために加えられた、とあります。 この自分の民というのは自分の先祖のことですね。 先祖 自分の父 アブラハム 母 サライサクの妻 リベカと同じ、ヘブロンの墓に葬られたということですね。 

 

そしてこのイサクの葬儀を出したのが彼の子 エサウ と ヤコブです。 イサク は 「何としても自分は長生きして、何なら 長男 エサウ の方が この地から早く去って、何の争いもなくヤコブ にこの地を継がせたい」と本当に思ってたかどうかは分かりません けれども、そういう気力で生きていたかもしれません。 

 

でもここに エサウはヤコブ共に葬った、とありますのでその点は自分の思い通りにはならず、まだエサウはこの時 健在だったということが ここからわかりますね。 

 

そして ちょっと ネタバレになるんですけども、 ここで エサウとヤコブがイサクがなくなった時に 双方とも健在だったことが、 この後 大きな争いの種になっていきます。

 

 本日は”180歳? 年金 不正受給?”というお話です。 

 

現代的な 寿命 の感覚で「180歳まで生きた」 なんて聞くと、1番に疑うのは「...年金不正受給 かな? なくなったことを役所に届けにいた?」まあこのこれですよね。

 

今回は まるで 長男 エサウの不幸を望むかのような説明になってしまってるかもしれませんけども、誰かの不幸を望むんじゃなくて 「神様にこっちだと言われた方を優先している」、 そういうイメージで聞いていただけると良いかと思います。 

 

日本でも 近代、 多分 明治とか大正とかもそうだったと思うんですけれども、 家督は長男が全部受け取る いわゆる一子相伝が 日本でも 長らく行われてきました。

 

これは全員が平等に相続して財産が小さくなっていく 減っていく、 それによって他から侵食されやすくなる。 そういったことを避ける政策だったように思います。 

 

逆に言うと 現代のような「相続人は妻が1/2 子は 残りの何分の1かを平等に分ける」と細かく分けていくということは、それぞれの家の弱体化 につながる、ということも言えるかもしれませんね。 

 

それゆえに 節税対策という名前で法人を作り、あらゆる 資産を法人名義にする。命が絶えることない 法人が永久的に財産を管理していく。 もしかしたら このイサクが「180歳まで粘って生きた」というのは 現代的な法人の財産管理の根底にある考え方と似ているのかもしれませんね。 

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は ”聖書の中の 昭和 ド根性論”というお話です。

 

本日は 創世記35章27節から読んでいきましょう。 

ヤコブはキルヘヤ・アルバ、 今日の ヘブロンのマムレにいた父 イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時滞在したところである。

 

 

 まずこの ヘブロンという土地の場所をいま一度 地図で確認してみましょう。

 

 

現代的な地図の読み方や名称で言うと、いわゆる ”ヨルダン川西岸”であり、 エルサレムの南側、2026年現在で混乱が続いている ガザ地区と直線距離で50km ほどと、 

 

現代の私たちの感覚では「いかにも 戦乱 混乱の多い地域」という印象がありますけれども、この聖書の時代からの人間関係がこの地を混乱 戦乱の多い地域にさせてきたということで、 それらの理由もやはりこの聖書の中から見受けられるということが ここからもわかりますね。

 

 父 イサクのところに行ったと書いてありますが、

 

「あれ?イサクって何歳?」と思った方も多いと思いますので、数値的に計算してみましょう。 

 

年齢 40歳ぐらいの時に15歳ぐらいのリベカと結婚、リベカは不妊の女だったので結婚して20年後ぐらいに子供を産んでいる。

 

ということは この時点で イサク は60歳ぐらいだった。 それから 子供達が40歳になる頃、 この時点で イサク 100歳ですね。 「あーもう俺はダメかもしれない」ということで 遺産相続をする。 

 

そしてこれが原因で ヤコブが兄のエサウと仲違いし、 ヤコブが20年間 母親である リベカの実家の方へ逃げていった、 ラケルと出会い 20数年 そこで過ごして 今帰ってきた。

 

ということなんですけれども、そうすると計算上 イサクは今120歳から130歳ぐらいということが分かりますね。

 

「100歳ぐらいの時にシぬとか言ってたのはどうなったの? まだ元気に生きてるじゃん?」と思いますね。これが 聖書の不思議なところです。

 

私としてはこの父 イサクは、自分が神によって「この土地を子孫に継がせよ」 と言われた使命を果たすために、神が ヤコブがこの地に戻ってくるまで イサクの命を生きながらえさせていたのではないか、と思います。 

 

またこの「息子がこの地に帰ってくるまで、 いつかは分からないけども必ずその日は来ると信じて待っている」という姿は、現在 領土紛争という形で ニュースでは言われてしまう事象ではあるんですけども、 ユダヤ人がこのイスラエル ヨルダン川は西岸地域に帰ってくるのを待っている姿とも重なります。 

 

もう少し スピリチュアル的な解釈で言いますと、 人間は生まれてから 神様と離れてしまった。 人生のどこかで神を知り 神のもとに帰ってくる人間を待ち続けている 神の姿、 こういったものが この1箇所にいろいろ 込められて表現されているんじゃないかと思います。

 

もう1つ、 イサク が100歳の時点、ヤコブがヘブロンから 奔走した時に 、イサクがシにそうだったっていう記述。 あれは何だったの という気は しますので、考えてみました。 

 

1つは イサクの目が見えなくなっていたという記述がこの箇所の解釈に役立つと思います。 目が見えなくなると自由に外に行けなくなり、「 俺はここで もう 死を待つばかりの人生なんだ」とイサクが思ってしまっていた、のかもしれませんね。 

 

もう1つは、目が見えなくなることでもともと祈りや神との対話 というのを大切にしてきた人生である イサクとして、「神との対話が長く続くこの日々は、神が私を天に呼んでいる日々なのではないか」と思っていた。 

 

つまり 「目が見えない」という物理的な理由で家の中に閉じこもってしまう生活になってしまった。 そうすることで自分の持てる能力や 賜物を発揮できない生活になってしまった。 それはもう人間として 死んだとも同じではないか。 

 

人間というのは自分に与えられた賜物を用いて、他の人と多くの人と触れ合い 自分の賜物を発揮し、人に奉仕することで生きていると言えるのではないか。 それができない 今の自分の人生というのは死んでしまったも同様 かもしれない。 

 

このようなことを イサク が 思っていたかもしれませんね。 

 

本日は ”聖書の中の 昭和 ど根性論”というお話です。 

 

昭和のど根性論というと令和の現代では全てが否定されるような ”よくないもの” のように言われることが多いですが、 

 

本日の箇所のイサクが長生きをしたという話は昭和のど根性論的な解釈をしますと、「 どうしてもあの子供に土地を継がせるまでは、 私は死ねない」と思っていた。 

 

その気力がそのまま 肉体的な生命の維持となっていった、ということかな と 私は解釈しました。 

 

ヤコブが帰ってくるまでに自分が死んでしまったら、神様に言われていない方の子供がこの土地を継いでしまい、異教徒が住む街となって自分たちが信仰している神様というのが 侵食され 失われてしまう。 

 

このような信仰心も イサクの生命を長えた原因かもしれませんね。 

 

現代では長寿に対していろんな分析がされています。肉体的寿命とか健康寿命とか色々 分析 角度はあるんですけれども、信仰による 寿命、 神を見上げることによって寿命が延びている、 そんな角度からの分析もしてみたら面白い結果になるかもしれませんね。 

 

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こんにちは マダム サトコです。 

 

本日は2026年の第1回目 収録ですけれども、 

皆さんにも今年引き続き ご視聴いただけるように、 

聖書が堅苦しい 難しいものではなく 私たちの日々の生活 それぞれの人生に語りかける非常に面白い書物だ、

ということをお伝えできるようにお話ししていきたいと思います。 

 

本日は ”ネーミングの重要性”というお話です。 

 

本日は 創世記35章23節から読んでいきましょう。 

ヤコブの長子 ルベン、シメオン、 レヴィ、ユダ、イッサ カル、ゼブルン。 24節 ラケルの子は ヨセフとベニヤミン。 25節 ラケルの女奴隷ビル派の子はダンとナフタリ。 26節 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。 これらは パダン アダムで ヤコブに生まれた 彼の子たちである。

 

 

聖書と言うと多くの人が「最初に読んでみようかな、 触れてみようかな」と思ってページを開くのが 新約聖書のマタイの福音書1章1節 という方が多いかと思うんですけれども、 

 

そこには いきなりずらずらずらと人の名前が並んでるんですね 。これが面白くない。「 聖書って人の名前がずらずら書いてて、何の意味もないような気がする。 面白くないものなんじゃないか?」ということで ギブアップしてしまう人というのは非常に多いと思います。 

 

本日のこの箇所 35章23節から26節も、そこと 非常によく似てますね。 

 

ヤコブと4人の妻の間に生まれた子供の名前がずらずらずらっと書いてあり、「これを読んで 何が楽しいの?」 と思ってしまいますね。 

 

しかしこの各名前、 ルベンとか シメオンなど、それには一つ一つ意味があります。 12人の名前をここで解説するのもまたつまらない話になると思いますので そこは 省略しますけれども、 

 

この12人の息子たちの名前を並べるとどんなことになるか、ということをここでお話ししてみようかなと思います。 

 

実はこの12人の息子の名前をそれぞれ 調べて繋いでみますと、こんな面白い意味というか 言葉というか 祈りになっていました。

 

御子を見よ。神は私の苦労を聞かれた。 結びつき 褒め称えよ。彼は報酬を与え 増えるだろう。 神は増やし加える。 その権利のある息子。 

 

神はさばき 私の戦いは幸運であり 幸せ。 

 

 

何と、この一見 面白くない人の名前がダラダラ 書いてある箇所というのは、祈りの言葉になってたんですね。

 

御子を見よ、 これは神様を見上げよということですね。 

 

神は私の苦労を聞かれた、 これは現代社会に合わせるなら 「私は最善の努力をしている。私は困った時に神に祈って解決を求めた。 神は私の苦労を知っている」ということですね。 

 

そして 結びつき 褒め称えよ、 とは「私たちは神様から遠く離れるのでなく、神に祈り神に結びつき、 神を褒め称えよ」 という 神を信仰するもの 神を称える者への励ましや 慰めということですね。 

 

彼は報酬を与え 増えるであろう、とは「神を見上げ 神を信じながら自分の最善を行えば、神はあなたがしたことを必ず報いてくださる。 自分がしたこと以上にもっともっと 報酬を与えてくださる。」ということですね。 

神は増やし加える、これを前の説と合わせて2回言っています。日本語でもありますね、 「大事なことなので2回言いました」 というミームが SNS なんかでありますが、 それと同じで「大事なことなどで2回言いました。 神は増やし加える」 ですね。 

 

その権利のある息子、とは 今を生きている私たち、 「神を信じ 神をたたえ自分の最善を行っている人たち」のことです。息子とありますが 別に女性が差別ガーとかそういう話でなく、そういう言い方、ですね。もし気になるようでしたら 「その権利のある人」と言ってもいいと思います。 

 

そして次からが面白いんですけれども、 神はさばき 私の戦いは幸運であり 幸せ、 この神のさばきというのはきっと「頑張ってる人、 神を信じて最善を行っている人から掠め取ろうごまかそうとかそういう人達って必ずいる。そういう人たちに 神はさばきを与える」ということですね。

 

さばく と言うとなんとなく 裁判所のイメージがあって「神は悪いものをやっつけるのかな」となるかもしれませんけども、 私はこのさばきというのは 「人のものを掠め取ろうとするもの 良くない 魂胆を持って近づくものを入って来れないようにする、 ここからは入ってはいけないと守ってくれる」 このように 私は解釈しました。 

 

纏めると、「私の戦いというのは神を見上げ神と共に歩み、 最善を尽くしている自分。その工程における与えられる果実というものは神によって与えられるものであり、 それは私の幸せである」

 

12人の息子たちの名前の意味というのは 実はこんな意味があったわけですね。 

 

本日は ”ネーミングの重要性”というお話です。

 

今日解説した名前の意味というのは いろんな意味 いろんな解釈がありますので、 必ずしも これだよ 決まりだよ ということではないんですけれども、

 

私は「なぜ聖書にこのように人の名前がザラザラ書いてあって、 聖書に馴染んでない人には一見 面白くないように見えることも、 実は神への祈りになっていた。 実は 言葉遊び 風になっていた」という面白さを見出しますね。 

 

そしてこの一見何の意味なく面白くなさそうに見える箇所にも、このような神を称える意味があると言うのを見ると、

 

最近では キラキラネームとかどんな意味があるのかわからないような名前を子供につけるということが 日本では多くなってきてますけれども、 

 

本来的にはその子の名前を呼ぶたびに、神様を見上げるという意味、神様が私たちを良くしてくださる、神様は私たちを守ってくださる、

 

こんなような意味を持って相手を呼ぶ、子供を呼ぶ、人を呼ぶ、というのが名前というものの本来的な意義 意味 機能なのではないかと私は思いました。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”2人の息子で6000年続く家系を作る方法”というお話です。 

 

本日は 創世記35章18節から読んでいきましょう。 

彼女がタヒに臨み、その魂が離れ去ろうとする時、彼女は その子の名を ベン・オニと呼んだ。 しかしその子の父はベニヤミン と名付けた。

 

 

ヤコブの神の「約束の地に帰るのだ」という言葉に従い旅をする中で、 ヤコブのお母さんリベカの乳母である デボラ に続いて、 

 

ヤコブの最愛の妻である ラケルがタヒんでしまいました。 リベカの乳母である デボラ は ヤコブの信仰の礎となった者であり、 ラケルは「この女性こそが私の運命の妻である」として 他の3人の妻の誰よりも愛してきた人生の伴侶です。 

 

ヤコブはこの旅の中で大事な人を2人も続けてなくしてしまうんですね。 

 

この時の ヤコブというのは旅の途中であり、 いつどこで誰に襲われて 肉体的な損傷を受けたり 財産が奪われたりするかわからない、という不安の中で大きな心の支えを2つも失ったという試練中の試練な時期 なわけです。

 

「その魂が離れようとする時」というのは、 いわゆる 今際の際ということですね。 その際に呼んだその子の名前がベン ・オニ、私の苦しみ の 子 という意味だそうです。難産で生まれた子、みたいな意味ですね。 

 

いやいや、そんな名前 あかんやろう、ということで ヤコブはその子の名前を ベニヤミン と名付けました。 今でいうベンジャミンですね。名前は”右手の子” という意味だそうです。

 

「右手の子って何よ」ですが、これは右手というのが権力とか 権威とか 権利を表す言葉です。この場では神から与えられた特別な権利のある子、という意味で考えておいたら良いかと思います。 

 

19節こうしてラケルはタヒんだ。彼女は エフラテ、 今日のベツレヘムへの道に葬られた 。

 

 

ラケルは夫であるヤコブの「神様に与えられた約束の土地に行く」道中でなくなってしまうんですけれども、 その代わり ラケルに対するヤコブの愛を 引き継ぐものとして ラケルが残した2人の子供がいます。

 

一人はヨセフと言ってしばらく前に出てきています。 そして もう1人が この ベンヤミン ですね。 2人の息子に命を与えラケルはなくなったんだけれども、 息子たちによって ラケルの意志は後世に残されているというのが この 聖書から読める点でもありますね。

 

 エフ ラテ 今日のベツレヘム への道に葬られたとあります。 この ベツレヘムという後世にキリストが生まれた土地がここでも大いなる伏線が含まれているんですね。 

 

面白い点は ベツレヘムで葬られた ではなくて ベツレヘム への道に葬られた、とあります。神様に示された約束の土地に到着する前になくなったラケルは、キリスト イエスが生まれた ベツレヘムの到着の前に、その後の イエスに続いていく 子孫を残したわけですね。

 

 現代的な感覚で言うと 「ラケルとキリスト イエスでは4000年間も歴史の差があるのに、なんでそこがひっくり返っちゃうわけ?」 と思うかもしれません けれども、 

いわゆる スピ的な言い方とすれば 「神様の 空間に今日いつ 何時 という メモリや 単位はない」ですね。 もうちょっと日本語的に言えば「神様の空間では全てのことが一瞬で同時に行われる」まあこっちもよく分かりませんねw。「伏線回収するための 伏線の貼りどころ」というのが一番 納得いくでしょうか。 

 

本日は”2人の息子で6000年続く家計を作る方法”というお話です。 

 

ヤコブの最愛の妻である ラケルはなくなってしまったんですけれども、 その後 この ラケルの残した子供2人というのが大いなる活躍を 聖書の中でしていきます。 

 

ここから読み取れることは、 人間の肉体 また生命には必ず終わりが来る。 しかし ラケルが残した魂 というものは子に引き継がれ 孫に引き継がれ、 気がついたら 6000年 残っている。

 

人の死を悼むというのはもちろんですけれども、 その人が残したものは永遠に受け継がれていくものだと言うこともわかります。 

 

 現在 ラケルの墓として エルサレム 郊外にお墓参りができるようになっているんですけれども、 ここでは「神の国への旅路の途中で命は無くしたが、 子孫を残し その後の子孫を大いに反映させた」ということで キリスト教徒はもちろん ユダヤ教徒 や イスラム教徒 なども訪れる場になっているということです。 

 

神様の示したところに行く旅路というのは厳しいことが多い。 途中で様々な 悲しみにあったりもする。しかし その人がたどり着けなかったとしても、その人の意思を継いだ人が必ずその偉業を成し遂げる。

 

こんなようなことが ここから読み取れるのかもしれませんね。

 

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こんにちは マダムサトコです。 本日は”産みの苦しみという言葉も 聖書が起源 だった?!”というお話です。 

 

本日は 創世記35章17節から読んでいきましょう。

彼女がひどい 陣痛で苦しんでいる時、 助産婦 は彼女に「心配なさるな。 今度も男のお子さんです。」と告げた。 

 

 

このシーンも、今だったら「陣痛で苦しんでる時に余計なことを言うなー!」 とか「男のお子さんです とか 女性差別ダー」とか「男だから心配するな とか男女平等ガー」とかまあいろんな思惑でいろんなことを発言する人たちが わさわさと湧いてきそうな箇所ではありますけれども、 

 

この箇所にもいろんな比喩やメッセージが込められています。 

 

まず ひどい陣痛で苦しんでいる時というのは、いわゆる 「産み の苦しみにいる」ということですね。 

 

これは実際に陣痛で苦しんでいるという意味はもちろん、 

 

ヤコブが20年間外国で過ごし神によって示された土地に戻る その旅路。 少数であり いつどこで 他の部族に襲われるかわからない、 いつ 水や食料が尽きるかわからない、 20年前に相続で大喧嘩となった兄と会い 自分のことを恨んでいるんだろうか 自分のことを受け入れてくれるんだろうかという恐れの中で なんとか 和解にこぎつけた、

 

という物理的な苦しみはもちろん、 

 

腰を落ち着け かかった土地で家族のものが原住民とトラブルを起こし 逃げるようにしてそこを立ち去らなくてはいけなくなった、再び 神が自分の目の前に初めて現れてくださった場所に立ち返り、 20年前から今の今まで神がずっと自分と共にいてくださっていることを改めて知った。 そして 神の言葉に従い 神が与えてくださると約束してくださった土地を目指してさらに動いていく。 

 

このような 神の言葉がなされるまでの産みの苦しみ、 様々な困難があっても必ず成し遂げられると信じる。目の前の現実がどうであれ 必ず成し遂げられるのだと信じて歩いていく。 

 

これはまさに「まだですか、、、 まだですか、、、」 と 目の前の現実に苦しみながらも、必ず良い結果を期待して歩んでいく。人間の人生こういったものを 陣痛での苦しみ 産みの苦しみと表現し、 日本語での海の苦しみというのは まさに 聖書のこの箇所から取った言葉だと私は思っています。 

 

ここで出てくる 助産婦 という人は、そんな苦しみの中にいる私たちに対して「大丈夫だ、 未来は明るい。 大丈夫だ、子供は元気に生まれてくる」と励ましてくれるる人で物理的に子供の出産を助けてくれる人ですね 。

 

人間というのは一人で人生を生きていくことはできない。 必ず誰か 共にいる。例えば人生の伴侶だったり 例えばいつも良くしてくれる友達だったり。人間の場合ももちろんあれば、

 

私たちが どんな苦難にいようとも 、私たちが生まれた時から この世を去るまで ともにいてくださるのは私たちの内におられる 神である。 

 

苦しい時にも神は必ず私たちのそばにいて「心配するな、 大丈夫だ」といつも励ましてくれる。 このような比喩または 聖書的な解釈というのが ここで成り立つかと思います。 

 

現代的には女性差別ガーとか言われそうなこの 「今度も男のお子さんです」 という部分ですけれども、 

結婚して20年近く 不妊に悩んでいた ラケルはこちら創世記 30章22節 -24節で

 

 

 

 

身ごもって男の子を産み ヨセフと名付けた。 そして 「もう1人 私の子を加えてくださるよう」にと言ったとあります。 

 

この ラケルの祈りが神によって聞かれたということの 伏線回収の箇所ともなってるんですね。 

 

なぜゆえ ラケルがそんなに 男の子ばっかり欲しがったかと言うと、家の跡取りは男子が行っていくものだという文化 考え方があったからですね。 

 

いかに 現代的な価値で「女の子モー」といえども、 聖書はそういうことは聞かずにやはり「男のお子さん」です。 男の子を本人が望んだん だし、 そういう文化 背景のもとに そういう発言をしたということもここからわかりますね。 

 

本日は”産みの苦しみという言葉も 聖書が起源 だった?”というお話です。 

 

聖書って難しい読み物だと 皆さんに思われているかもしれません が、結構 いろんな日本語の慣用句 が聖書から取られているのではないか?ということはこの番組を聞いていただいてる方は実感してる方が多いかと思います。 

 

この記述はもう一つ、「どんな人にも神の記録として聖書に残る人生の大きな役目がある」ということが分かります。 

 

この助産婦 という記述、 そして ちょっと戻りますけれども 同じく 35章の8節のリベカの乳母 デボラの死とあります。

 

助産婦さんや乳母さんも立派な職業ではありますが、 神の記録として残すほど”偉業”ではないよね というような感覚を私たちが持ってしまう仕事をしている人たち、

 

いわゆる 名もなき人たちと言われる立場で生活している人たち、彼らにも人生の使命というものがあり、その使命を果たすことによって神は彼らの人生を覚え 祝福し 何千年も 讃えられる仕事をしたのだということも ここに残っていますね。

 

今皆さんがしておられる 仕事が 皆さんにとってどのようなものか 私には分かりません が、

 

つまらない どうでもいい仕事なんてこの世にはない、 

 

その仕事を一生懸命行い その仕事の中の使命を果たすことで神はその働きを必ず覚えてくださっている、と

 

いうようなことも この箇所から読める 大事なメッセージの一つじゃないかと思います。

 

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こんにちは マダム サトコです。 本日は ”臨月 の妊婦を ラクダに乗せる 暴挙” というお話です。 

 

本日は 創世記35章16節から読んでいきましょう。 

彼らがベテルを旅立って、エフラテまで行くには まだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、 ひどい 陣痛で苦しんだ 。

 

 

位置関係を確認しておきます と 

 

 

現在 ヤコブ たち が滞在しているベテルから このエフラテという土地まで、だいたい20キロプラス ぐらいです。 

 

そしてこのエフラでという土地は後にベツレヘム と呼ばれる場所になり、 これは新約聖書でイエスキリストが生まれた町としてその後 たくさん出てきます。 

 

ここに行くまでの間にラケルは産気づいて ひどい 陣痛で苦しんだとあります。これは 非常に大きな 伏線 となっている表現ですね。 

 

現代的な感覚で言うと、 子供が生まれそうなんて言う状況の時は 例えばお腹がすごく下がってきてて「あ、本当にもうすぐ出てくるんだな」 というのが目に見えてわかる状態になっているので、そういう時は安静にして移動や活動を控えてなんていうのが一般的ではありますけれども、 

 

このヤコブの一族というのはベテルから60キロほど離れたシェケムという町で原住民とのトラブルを持ってしまい、 とにかく急いで自分たちの故郷に帰らねば ということできっとすごく 焦ってたんでしょう。

 

もうすぐ生まれそうだなんていう時にも、 ラクダにまたがって移動を開始したということだと思います。 

 

エフ ラテ まで まだかなりの道のりがあると書いてありまして、 それが何キロかということはもちろん私には分かりません けれども、 現代的な地図を見ますと 

 

 

どうも 民家はもちろん、 例えば家畜を休ませる 簡単な小屋なども 全くなさそうなぽいところでして、 つまり 子供が産めるような状況ではなかった。 ひどい 陣痛で苦しんだとありますので そういうものに対するお医者さんもいない状況だ、ということが ここでわかりますね。 

 

もう1つの読み方として、 これは人間の人生を表している箇所なんじゃないかと思います。 

 

人間が神にであった場所、 すなわち 自分の使命や自分の人生の中でやるべきことをはっきりと理解したところから、その使命を果たすために目指す場所、 目指すところへ行くには まだかなりの道のりがある時に、 

 

人間というのは 産みの苦しみを感じるものだ。 もうすぐ生まれそうだ、 もうすぐ 何とかなりそうだ、 もうすぐ手が届く もうすぐ目標に到着するんだ、 こういった時に1つ 課題が出た。 それを解決したらまた一つ 課題が出た。

 

目標に達成するには 産みの苦しみがある、 そして苦しみながらも必ず得るものがある。こういった人間の人生を表す箇所でもあると思います。 

 

一方、ものすごく 聖書的なスピリチュアル的なお話でいうと、人間というのは2000年前にキリスト イエスがこの地球に降りてきてくださり、 神のもとに生きていくことを知った。

 

それでも人間が目指す 高みに到達するのはまだかなりの道のりがある。人間は その過程で「もうすぐだ、 もうすぐ神が来るのだ」と信じて前進しつつ、しかし 人生のあちこちで産みの苦しみというものを感じている。 

 

今自分の目の前にどれほど苦しいことがあろうとも、神を信じて前進すれば それは必ず益 となり 私たちに与えられるのだ。 

 

 書いてあること自体は 移動中 に 難産になったという 書き方 なんですけれども、 実は非常に多くの 角度 多くの視点で 私たちに語りかけている箇所なんじゃないかと思います。 

 

本日は ”臨月 の妊婦を ラクダに乗せる 暴挙”というお話です。 

 

2025年の 現代であれば、 このような ラクダに乗って 砂漠を時間をかけて歩くということ自体がありませんので、現代的な 炎上になることはないと思いますけれども、 

 

当時の ヤコブとしては自分の妻の体調というのはもちろん知っていた 一方で、 一刻も早く 自分の生まれ故郷に帰る ものも大事だった。 

 

それは自分たちが移動している小さな民族であり、もし万が一 他民族に攻撃されればひとたまりもない という装備だったということも考えられます。 

 

ヤコブとしては苦渋の選択だったと思いますけれども、 それがまた人間の人生の中に起きる「神と出会った後に自分が目指す 箇所、 そこに到達するには様々な産みの苦しみがあるんだ」ということを反映した箇所ですね。 

 

非常に記述的、あったことをそのまま 述べている箇所であり、 

 

非常に 比喩的な部分、 人間の人生というものを書いている箇所であり、 

 

また同時に非常に スピリチュアルな、神の恵みを知り 神を知った人間の自分の人生というものを歩んでいく姿にも見えますね。

 

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こんにちは マダム サトコです。 本日は”御柱祭の衝撃の事実が明らかに!”というお話です。 

 

本日は 創世記35章14節 から読んでいきましょう。 

ヤコブは、神が彼に語られたその場所に 柱、 すなわち、 石の柱を立てその上に注ぎ、の葡萄酒を注ぎ、またその上に油を注いだ。

 

 

この箇所は、ヤコブ 自身が神と会ったその場所を記念して 柱を立ててというシーンなんですが、 

 

ここの記述というのは 、世界中のいろんな宗教や文化に影響を与えている箇所だと私は思います。 

 

まずここの石の柱を立ててというところ、「 神様が自分にしてくださったことを永遠に忘れず後世に語ってゆく。 自分がこの世から死に絶えたとしても、 自分の子孫たちが自分たちは神によって守られているんだと固く 確信するような場所」、 そういったものを作ったということなんですね。 

 

日本で言うと 昭和の時代には 戦没者記念碑 というものが非常に多く建てられてました 。自分たちが今平和で心配なく生きていられるのは、先の戦争で自分たちのために命を落としてくださった先人を忘れない。 その人たちのおかげで今があるんだ、ということを忘れないための石柱ですね。 

 

私の田舎では 忠霊塔 がありました。 岐阜県 山間部の割と盆地のような地形をしていて、街全体が見える山の上にそびえ立っていました。 

 

それと同じですね、永遠に忘れないという誓いが石柱を立てたという意味になります。

 

話は戻り、このイスラエルから日本までの間の、いわゆる ユーラシア大陸、 ここら辺にももちろん 非常にたくさん この記念碑 というものを建てる文化があります。 

 

ただし この石を加工する技術の未熟なのか、そのあたりでは 素材として 樹木が多かったからなのか、木を使った記念碑 というものもたくさん残ってます。 

 

 残ってますと言っても、 切ってしまった木の寿命を考えると もちろん 6000年前から とは いきません。何年かごとに メンテナンスしていくということで、いわゆる トーテムポールという名前であちこちに残ってますね。 

 

そしてこの木で作った 記念碑のレギュラー メンテナンスの集大成というものが、 長野県の御柱祭 なんじゃないかと私は思ってます。 

 

画像は諏訪観光連盟さんのHPより拝借しました。ありがとうございました。

 

皆さんご存知の通り、 7年に一度山から木を切り出してそこにまたがって坂を降りていくという、 いわゆる 奇祭として有名なんですけれども、 

 

あの お祭りの根本というのは 、実は 聖書のこの部分が日本に伝播してくる間に 素材が変わり、レギュラー メンテが必要となってきたという事情で ああいうものができたんじゃないかと思います。 

 

次に 注ぎの葡萄酒を注ぎという点ですね。 この記述からわかることは、 

この当時すでにぶどうがあった。 

この地域にも 農耕民がいた。 

ぶどうから酒を作る技術があった。ということですね 。

 

ぶどうというのは 聖書の中ではこちらの箇所が有名です。

 ヨハネによる福音書15章4節

 私に繋がっていなさい そうすれば私はあなた方と繋がっていよう 枝がブドウの木につながっていなければ自分だけでは実を結ぶことができないように あなた方も私に繋がっていなければ実を結ぶことができない 

 

 

ぶどうの木というのは神様を表す言葉として用いられてるんですね 。ですから、ここで ぶどう酒を注ぎとあるのは、

 

ここで現れた神様を神様であると認めて、

自分自身が神様に繋がっているブドウの実であり、

そのぶどうの実から出たぶどう酒、 つまり 自分が神によって育てられ 、

神によって信仰心が磨かれ 熟成され ぶどう酒になった。 

それを神様に注いでいる。 

 

そういった 心境というか バックグラウンドも含めた言葉ですね。

 

このブドウという木は、環境を選ばずにどんなところにでも育つ植物です。 

 

私の認識では、ブドウと そば というのは どんな 荒れ地でも必ず実を結ぶ 植物で、皆さん も日本で 「そばが有名な土地」 と聞くと それぞれ住んでおられるところであそこ だなと思い浮かぶことがあると思うんですけれども、

 

 だいたいそばを育ててるところは ぶどうも 育てていますね。 そして ぶどう酒も地元の名産品として出していることが多いと思います。 

 

それはその土地が 他の植物にはなかなかの 厳しい 痩せた土地であるけども、 そばとぶどう だけは育つ土地だ、ということの表れでもありますね。 

 

それはつまり、 人間が神を知る前はいかに荒れた生活進んだ 心境にあったとしても、神につながるということは誰でもいつでもどこでもできる、ということも 表しているんじゃないかと思います。 

 

そしてここではぶどう酒を注ぎとなってますけれども、 日本ではブドウではなく お米でお酒を作って神様にお供えする。神社なんかでは お神酒と言いますね。 そういったところにも影響があると思います。 

 

そして最後 油を注いだとあります。 この油注ぎ というのは、 神によって 清くなりましたという証の聖別、ここで 聖別の油注ぎをして「神によって 清くなりました」と書かれてるわけですね。 

 

面白いことにこの油を注ぐという行為は、インドとかインドを 派生した仏教で今なおこの油を注ぐという行為 結構見られますね。 

 

私は今 タイに住んでるんですけれども、 この聖書を読んだり 教会に行ったりする前に もう今から15年ぐらい前 に、 タイのお寺に行ったことがあるんですよ。 1年のうちで3週間しか開門しないようなすごく 特別なお寺で、夜明けとともに みんなが 頂上に向かって歩いていく っていうようなものでした。

 

頂上に着いたら、給食センターの調理釜かと思うぐらいの大きなお釜で油を低温で炊いてました。それを匙で救って口にいれたりなんか頭に乗せたりとかねしてました。 私はさじで救って飲むっていうのは衛生的になぁと思って 私はやりませんでしたけどね。

 

この油注ぎ というのは現代でも受け継がれている。 もしかしたら 他の宗教にも影響を与えた行為がここに書いてある?ということかもしれませんね。 

 

本日は”御柱祭の衝撃の事実が明らかに!”というお話です。 

 

前半では 聖書の記述の部分と長野県の御柱祭の推測というのをしてみましたけれども、 スピリチュアルな面で言うと 柱というのは自分の人生の柱は神である。 こういうことも 表した言葉と思います。

 

 この部分は ヤコブが祭壇を作り、 神を認めた 非常に スピリチュアルな部分です。 そしてその神を認めた スピリチュアルなものは、イスラエルにとどまらず 世界中 多くに流布し 今でも残っている、ということがわかる部分ですね 。

 

そして 行為を行うことは、その分 自分の心を神に向けて チューニングしていく、いわゆる 宗教とか 拝み方とか、そういったものが始まった部分でもあるかと思います。

 

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