文芸に於ける所謂批評――鑑賞――は、いつも鑑賞者の教養[#「教養」に傍点]によって制約されている。文学史の教養なくしては文学の正しい――客観的な――鑑賞・批評は出来ない。もし教養なくしても鑑賞し得ると云うならば、そういうものは鑑賞ではなくして単に完全に無力な場合の制作[#「制作」に傍点]を意味するに過ぎないだろう。尤も教養は一種の知識・科学にぞくするわけであるから、夫は文芸そのものの文化財と科学としての文化財との交叉点をなしており、従って文芸的文化財のための[#「のための」に傍点]科学的文化財であることを忘れて、単なる科学としての科学的文化財となろうとする自然的傾向を持つ危険が無くはない。それでなくてもアカデミックな科学財の通弊として、知識は恰も物神崇拝性を持つ金貨のように、拝物化され勝ちであるのに、それが文芸の場合であれば愈々耐え難いものとなるだろう。文芸は単なる所謂概念[#「概念」に傍点]に堕してしまいそうである。だが、この弊害を免れることを口実にして、教養抜きの鑑賞の権利を承認することは出来ない。
無論批評に、教養乃至知識が、即ち歴史的認識が、仮定されると云っても、批評に博識をひけらかすことではない。だが、それにも拘らず、批評に於ては、認識が表面に出て認識の資格に於て機能[#「表面に出て認識の資格に於て機能」に傍点]していなくてはならない。処が制作に於ては、認識は表面に出て認識として機能してはならない筈である。これは云うまでもないことである。なぜなら制作に於てもし認識が直接に認識の資格に於て機能するならば、その制作品は文芸財ではなくて科学財に過ぎなくなって了うから。
