無量山 聞徳寺(真宗大谷派)

 山形県河北町溝延地内 かつて城があった小路の一角にある寺、無量山 聞徳寺(真宗大谷派)。

もともとは現在とは別の場所にありました。

 

溝延の南方、寺川をはさむ旧寒河江川の流路沿いで、黒木渕や稲荷原の字名と接している地(現在の11区)にありました。現在も「寺屋敷」の字名は健在で、ここから聞徳寺は発展していったようです。

 聞徳寺は、寒河江城主大江一族の大江広重が、15世紀末に玄開庵という草堂を作り念仏生活を送ったのが始まりで、無量山聞徳寺の寺号は、17世紀初期に与えられたようです。かつてこの地には聞徳寺と阿弥陀寺が境を接して存在し、少し西に離れて吉祥院(真言宗、慈恩寺宝蔵院末寺)があり、言わば聖地だったようです。近くを流れる川、寺川の名称にもその名残があります。

 聞徳寺は文化2年(1805年)、寒河江川の氾濫と川欠によって現在地へ移建し今に至っています。

 

無量山 聞徳寺  山門 (山形県西村山郡河北町溝延154)

 

 

阿弥陀堂(安中坊 大江氏宗廟)と溝延

 嘉永元年(1225年)鎌倉幕府創設に関わった政所初代別当 大江広元の嫡男 京都守護 民部少輔大江親広は、承久の乱で後鳥羽上皇方へ組し敗れ、大江領寒河江荘を治める外祖父多田仁綱を頼って逃れてきました。

親広は山形県西川町吉川に入り、鎌倉にいる嫡子左近将監佐房に命じて阿弥陀如来像を造らせ、その胎内に父 大江広元の遺骨を納め、多田仁綱の祖 源満仲の念持仏とともに吉川館内に建立した阿弥陀堂に安置したとされます。

阿弥陀堂は仁治2年(1241年)に吉川館の鬼門とされる北東縁に移築され、親広以後、溝延大江氏を含む歴代大江名士の御霊はこの阿弥陀如来が鎮座する阿弥陀堂の地を宗廟(代々の墓所 安中坊 )として、代々祀られています。。

 

応安元年/正平23年(1368年)年 7代時茂の嫡男溝延(大江)茂信を総大将に斯波兼頼と戦った漆川合戦後、敗北により大江氏は危機に瀕し、四男時氏が寒河江に拠点を移して後を継ぎました。吉川には茂信の嫡子家広が残り、代々阿弥陀堂(安中坊 大江氏宗廟)の別当をつとめたようです。
天正12年(1584年)には山形城主 最上義光の台頭により寒河江大江氏が滅亡しましたが、義光は阿弥陀堂(安中坊 大江氏宗廟)に百八十万石の御朱印を発給して保護したようです。

寛永元年(1624年)、天海僧正の命により「金仲山 無量寿院」として真言宗寺院となった後も江戸幕末まで栄え、明治元年の廃仏毀釈による解体まで長く続いたようです。

 

長い歴史を刻んできた安中坊(無量寿院)ですが、現在はその姿はなく、阿弥陀堂跡阿弥陀屋敷とずらりと並ぶ歴代大江名士の墓のみが残り、当時の面影を伝えています。

 

阿弥陀堂跡阿弥陀屋敷( 大江氏宗廟 安中坊  )

西川町吉川地内 ※ぶらり西川ガイド参照

 

 

 

今に伝わる 大江氏宗廟 安中坊 の遺構とつながり

明治の廃仏毀釈の際、安中坊(無量寿院)は解体されましたが、その遺構は今も残っているようです。

 

本堂は山形県山形市の常念寺に移され、客殿(元吉川学校)としてその姿を今に残しています。

また、山門は、明治5年に山形県河北町溝延にある 無量山 聞徳寺に移築され、当時の姿を今に伝えています。

 

ここ溝延の地で生き続ける明主 大江氏 と古き寒河江荘(寒河江西村山地域) 繁栄の歴史。

山門の上部には鬼の面が彫られていました。

長きにわたり 大江氏宗廟 安中坊 を守り抜いた鬼が、今もこの地に鎮座し邪を祓い、この世の変遷を静かに見守り続けています。。

 

安中坊 西川町 大江親広公入部八百年記念誌 参照

 

 

 【溝延散策に役立つカモビックリマークmachi歩きMAP(参考)』爆弾

 

道の駅寒河江チェリーランド レンタルサイクル⇒レンタサイクル:寒河江市観光物産協会 (sagae-kanko.com)
 ※溝延へは寒河江川沿い下流へ片道10分程度の道のりです。サイクリングロードをご使用ください。

 

 

≪交通アクセス≫

河北町路線バス 南部線 ※「溝延南口」バス停下車