私の義父母は、数年前に亡くなりました。だから、今のドジャース大谷選手の活躍は知らないです。やがて、私の実父母も無くなるでしょう。彼らが亡くなってから、私が死ぬまでは、彼らが知らないことを、私は知ることになるでしょう。もっとも、私自身、事故や何かで死ななければの話です。私が、テレビやニュースに対して、憤ったり、笑ったりするたくさんの物事もやがて忘れ去られ、私が死ねば、私のこともやがて忘れ去られるのですね。もはや、べンゾ薬害、副作用による、心配性、不安性による、何か、絶対的に安心できる哲学や教条を求めても、絶対的に安心できる答えは、無いのです。世の中は、絶対ではなく、相対で、いいかえれば、相性や偶然で、関係し合っているのかもしれないですね。少し、表題から外れましたが、私は、早朝の起床時や電車のうたた寝の後、つまり、べンゾ&睡眠薬の濃度薄々時には、こんな事を考えつきます。それ以外のべンゾ濃度濃い濃い時は、もはや、脳内は、かなり、ベンゾジアゼピンの意のママなのかもしれないです。これが、ベンゾジアゼピン、私の場合は、デパスとセパゾンの、私の脳への乗っ取りやたる、詐欺まがいの薬害です。濃度薄々のときだけ、少し、真人間らしくして、また、べンゾ服薬すると、まるで、ベンゾジアゼピンが自分にとってどうってこと無いような、はっきり言って、催眠術の様な作用機序です。もはや、自分でない、なんとなく、安心し、なんとなく、人に勝てそうで、なんとなく、人よりできそうで、、、そんな事ないんですよ。これが、ベンゾジアゼピンの一番怖い副作用です。こんな事が、べンゾ濃度薄々では、思いつくんですね。