今日の「ニュースウォッチ9」で、認知症について特集していました。

ベルギー北部の町ブルージュは、認知症の人に優しい街なんだそうです。
ブルージュの商店街にある店には「認知症のお客様歓迎」のマークがついていて、店員の方が認知症の人と接するためのノウハウをちゃ~んと学んでいるそうなんです。
NPOが主導となって、認知症の人でも安心して暮らしていける街づくりを目指しているのだそう♪
徘徊して行方がわからなくなってしまっても、警察や病院、商店街が連携しているから、とても早く見つけることができるんだそうですよ。なんて素晴らしい街づくり♪なんだろう・・・と思いました。

もう2週間くらい前になりますが、ネットニュースで“若年性認知症”について書かれていた記事を目にして、とても胸が痛んだんです。

毎日新聞に掲載された「<若年性認知症>世界から名詞が剥がれていく…56歳が手記」という記事です。

★毎日新聞 <若年性認知症>世界から名詞が剥がれていく…56歳が手記
http://mainichi.jp/select/news/20140114k0000m040088000c.html

上記の記事から一部を抜粋して、転載させていただきます。

世界から名詞がどんどん剥がれていく…。
関西地方に住む若年性認知症の会社員の男性(56)が、記憶を失い始めた自身の姿を克明につづった手記を毎日新聞に寄せた。
症状が進む自らの感覚を冷静に見つめ、忘れることの痛みや苦しみを率直に描いている。
男性は「認知症になるとつらい気持ちも分からなくなると思われがちだが、記憶を失いもがき苦しんでいることを理解してほしい」と訴えている。

(中略)

◇男性が毎日新聞に寄せた文章の抜粋◇

 忘れるということは、ただ単に忘れるということではなく、大きく穴を開けた傷に塩をすりつけるほどの痛みがあります。

 いつも会っている人の名前が驟雨(しゅうう)の如く流れ消え去る。それは大事な世界を落としたことになり、自分自身が崖に滑落したような大きな痛みと悔しさにあふれる。

(中略)

 あなたがあなたであるということは、記憶の森に住んでいるからである。私はどんどん砂漠が広がり始めて自分すらも見失うのである。

 ひとつの名詞の大切さを今は思う。世界は名詞から創造されており、私はそこから剥がされようとしているのだ。それは恐怖なのである。認知症とは世界への大きな恐怖を伴っている。

 あなたが認知症の患者を見る。しかし認知症者にはあなたを区別ができない。名前がないからである。記憶も未来もまた忘却によって喪失してしまう。

 多分これから私は名前のない砂漠のような世界に暮らすのではないかと思う。いつか愛する妻も忘れるのだろうか。それだけはやめてほしい。



胸に迫る文章・・・“いつか愛する妻も忘れるのだろうか。それだけはやめてほしい。”最後の文を読んで涙が溢れてきました。
テレビや新聞の記事も見たり読んだりして、認知症について理解を深めていたつもりだったけれど、何もわかっていない自分に気がつかされました。

自分もいつか弱者になる時がくるのだろう・・・と思うと、決して他人事ではありません。
学生時代は、永遠に命があるような感覚で毎日を過ごしていたけれど、私も年を重ねてきて、引き算の人生・・・一生涯の人生から逆算して残りの人生は後どれくらいなんだろう・・・と考えることがあります。(母に話すと大笑いされるんですけどね・・・。(苦笑)私の場合、20代の前半に、お友達を事故で突然亡くすという哀しい経験をしたので、それから、残りの人生はどれくらいなんだろう?とよく考えるんです。)

引き算の人生について考えると、極力無駄な時間は過ごしたくないと思うし、やりたいと思ったことは可能な限りやれるうちにやっておきたい・・・と思います。
資格取得や勉強もそうだし、趣味の美術鑑賞や観劇も・・・興味や関心のあるものを選んで、自分にとって本当に大切と思えること・・・そういった事に対して、時間やお金をかけて、残りの人生を有意義なものにしていきたいと思います。

この記事を読んだ時に、ふっと頭をよぎった映画。
若年性認知症を扱った韓国映画『私の頭の中の消しゴム』

http://www.youtube.com/watch?v=m7BYLXmepmY

大切な思い出も、大好きな人の名前も、その顔も・・・すべて失ってしまうって、どれくらい辛くて切ないことなんだろう。涙が溢れてきます。