今年もパルシステムで届いた青梅で梅酒仕込んだ。
梅酒3年生の今年はブランデーでやってみた。
飲み頃は半年後みたい。気長に待とう。
iPhoneからの投稿
あの大地震からもうすぐ3週間。
原発の心配と一部の品不足をのぞけば東京はだいぶ落ち着きを取り戻してきてる感じ。ここで私なりの記録と考えをまとめておこうと思う。
地震のときは会社のそばのパスタ屋で遅めのランチをとっていて、まさに食後のコーヒーを飲もうとしてた。店員に促されてテーブルの下に入り、揺れがおさまったらいったん外に避難。外はまわりのオフィスビルから大勢の人が出てきてて靖国通りが渋谷のスクランブル交差点のようになってた。いったんお店に戻り、コーヒーが半分こぼれたので淹れなおしてもらって、ゆっくりコーヒー飲んでから会社に戻った。戻ったらすぐ大きめの余震がきて、全員で外に避難。30分くらい外にいてからぞろぞろ戻り、業務再開。TVのニュースが気になったのでU-STREAMで流れるTV映像をPCの画面で見て、津波の映像を見て絶句。それまではのん気な気分が残ってたけど映像みたら怖くて仕事が手につかなくなった。
電車が全部ストップしてたから家が遠い人から歩いて帰る人が出始める。でも私は都内なので、地下鉄が復旧してくれたらと期待して、半分は会社に泊まる覚悟で残ってた。夜、会社の仲間は帰宅をあきらめてみんなで飲みに行き、そのあとカラオケBOXにも行ったけど満室で諦めて戻ってきてた。私は食欲なくて気分も悪くてずっと席で仕事してた。ツイッターでずっと情報収集してて、夜10時ごろ都営地下鉄が運転再開のニュースが流れてきたから電車で帰った。目黒線との接続がなかったから浅草線の中延で降りて40分歩く。あとできいたら5時間以上歩いて帰った人たちが大勢いたみたいだから私は恵まれてたほうだと思う。帰ったら部屋では食器がたくさん割れてて棚の上の本とかも落ちて散乱してた。
地震の日、携帯メールと電話はなかなかつながらなくて実家の親とずっと連絡できなかった。でもツイッターを使ってる下の弟とはDMですぐ連絡できた。TVが観られない会社ではみんなでずっとツイッターとU-STREAMで情報収集してて、ソーシャルメディアの力を改めて感じた。実家のある浦安が液状化でひどいことになっているという情報があったので実家と連絡ができないことがもどかしかったけど、下の弟経由で家族の無事はまず確認できた。私から親への携帯メールが通じたのは翌日の昼。この時点でまだiPhoneからの電話は繋がらなかったけど弟によれば公衆電話からかければ繋がったらしい。
私の住まいは品川区なので計画停電からははずれていて、停電に耐える友達の話をきいて申し訳ない気持ちになった。でも会社から帰って夜一人で寒い部屋で余震に怯える日々。お風呂あがりに緊急地震速報をきいて慌てたり。余震で眠れず余震で目覚める。一人暮らしを初めて心細いと思った。広島にいる彼氏と電話で話せるのが一応救いだったかな。
この時期、役に立った情報収集はツイッターをはじめネットからが圧倒的で、TVは家で心細さを紛らす役割だけだった。ヤシマ作戦も空母ロナルドレーガンも海外ニュースも、TVで流れるのは知ってから2日後くらい。デマもたくさん飛び交ってたけどタイムラインをきちんと見てるといい加減な情報を見分ける目は養われると思う。
実家は両親と弟家族が住んでいて、2月に2人目の姪が生まれたばかり。断水が続いていた実家で、さらに水の汚染の問題まで出てくる中で、小さい子供達のことが心配。週末実家に行ったときはまだ東京で水が売り切れてなかったので2Lの水を半ダース買って電車で持っていったりしてた。その後は徳島の親戚や被災地だった岩手の親戚からも水がどんどん送られてくるから一応水は大丈夫らしい。
実家は建て替えたばかりの一軒屋だけど液状化で塀がかたむいて門が閉まらなくなってた。あと庭が泥だらけ。でも被害はそれだけだった。
東北の被害規模、惨状はとてつもなく、被災者にとってはこれからどう立ち直っていくかということ、東京にいる私たちにとっては電気不足と放射能の恐怖と経済の打撃や停滞といったさまざまな不安要素を抱えて、震災はまだ現在進行形。自分に何ができるか。きっと誰でも考えてる。ネットの仕事をしてるので災害支援情報コンテンツ制作という臨時の仕事に携わり、個人としてはすぐできるのは節電と寄付くらい。今は、震災の記憶が生々しいからみんなが寄付や支援をしてて、それらがすぐ有効に生かされる仕組みがあるかが心配だけど、さらに今後中長期的にも被災地・被災者の支援が必要なわけで、直接的なボランティアでなくともいろんな形の貢献があるかなと思ってる。経済をまわすことも大事。みんなでできる範囲で、できることを。
しかし都知事選。こんな時期にほんとに選挙やっちゃうんだなーもう。
原発の心配と一部の品不足をのぞけば東京はだいぶ落ち着きを取り戻してきてる感じ。ここで私なりの記録と考えをまとめておこうと思う。
地震のときは会社のそばのパスタ屋で遅めのランチをとっていて、まさに食後のコーヒーを飲もうとしてた。店員に促されてテーブルの下に入り、揺れがおさまったらいったん外に避難。外はまわりのオフィスビルから大勢の人が出てきてて靖国通りが渋谷のスクランブル交差点のようになってた。いったんお店に戻り、コーヒーが半分こぼれたので淹れなおしてもらって、ゆっくりコーヒー飲んでから会社に戻った。戻ったらすぐ大きめの余震がきて、全員で外に避難。30分くらい外にいてからぞろぞろ戻り、業務再開。TVのニュースが気になったのでU-STREAMで流れるTV映像をPCの画面で見て、津波の映像を見て絶句。それまではのん気な気分が残ってたけど映像みたら怖くて仕事が手につかなくなった。
電車が全部ストップしてたから家が遠い人から歩いて帰る人が出始める。でも私は都内なので、地下鉄が復旧してくれたらと期待して、半分は会社に泊まる覚悟で残ってた。夜、会社の仲間は帰宅をあきらめてみんなで飲みに行き、そのあとカラオケBOXにも行ったけど満室で諦めて戻ってきてた。私は食欲なくて気分も悪くてずっと席で仕事してた。ツイッターでずっと情報収集してて、夜10時ごろ都営地下鉄が運転再開のニュースが流れてきたから電車で帰った。目黒線との接続がなかったから浅草線の中延で降りて40分歩く。あとできいたら5時間以上歩いて帰った人たちが大勢いたみたいだから私は恵まれてたほうだと思う。帰ったら部屋では食器がたくさん割れてて棚の上の本とかも落ちて散乱してた。
地震の日、携帯メールと電話はなかなかつながらなくて実家の親とずっと連絡できなかった。でもツイッターを使ってる下の弟とはDMですぐ連絡できた。TVが観られない会社ではみんなでずっとツイッターとU-STREAMで情報収集してて、ソーシャルメディアの力を改めて感じた。実家のある浦安が液状化でひどいことになっているという情報があったので実家と連絡ができないことがもどかしかったけど、下の弟経由で家族の無事はまず確認できた。私から親への携帯メールが通じたのは翌日の昼。この時点でまだiPhoneからの電話は繋がらなかったけど弟によれば公衆電話からかければ繋がったらしい。
私の住まいは品川区なので計画停電からははずれていて、停電に耐える友達の話をきいて申し訳ない気持ちになった。でも会社から帰って夜一人で寒い部屋で余震に怯える日々。お風呂あがりに緊急地震速報をきいて慌てたり。余震で眠れず余震で目覚める。一人暮らしを初めて心細いと思った。広島にいる彼氏と電話で話せるのが一応救いだったかな。
この時期、役に立った情報収集はツイッターをはじめネットからが圧倒的で、TVは家で心細さを紛らす役割だけだった。ヤシマ作戦も空母ロナルドレーガンも海外ニュースも、TVで流れるのは知ってから2日後くらい。デマもたくさん飛び交ってたけどタイムラインをきちんと見てるといい加減な情報を見分ける目は養われると思う。
実家は両親と弟家族が住んでいて、2月に2人目の姪が生まれたばかり。断水が続いていた実家で、さらに水の汚染の問題まで出てくる中で、小さい子供達のことが心配。週末実家に行ったときはまだ東京で水が売り切れてなかったので2Lの水を半ダース買って電車で持っていったりしてた。その後は徳島の親戚や被災地だった岩手の親戚からも水がどんどん送られてくるから一応水は大丈夫らしい。
実家は建て替えたばかりの一軒屋だけど液状化で塀がかたむいて門が閉まらなくなってた。あと庭が泥だらけ。でも被害はそれだけだった。
東北の被害規模、惨状はとてつもなく、被災者にとってはこれからどう立ち直っていくかということ、東京にいる私たちにとっては電気不足と放射能の恐怖と経済の打撃や停滞といったさまざまな不安要素を抱えて、震災はまだ現在進行形。自分に何ができるか。きっと誰でも考えてる。ネットの仕事をしてるので災害支援情報コンテンツ制作という臨時の仕事に携わり、個人としてはすぐできるのは節電と寄付くらい。今は、震災の記憶が生々しいからみんなが寄付や支援をしてて、それらがすぐ有効に生かされる仕組みがあるかが心配だけど、さらに今後中長期的にも被災地・被災者の支援が必要なわけで、直接的なボランティアでなくともいろんな形の貢献があるかなと思ってる。経済をまわすことも大事。みんなでできる範囲で、できることを。
しかし都知事選。こんな時期にほんとに選挙やっちゃうんだなーもう。

