日本国民への絶望 | ochiochiのブログ

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地球温暖化も仮想通貨も新型コロナもSDGsもウクライナロシアの問題も「善意なき資本」が方向づけている。

民族がどうのこうのと言う時点で国際社会人ではないなと自分自身思う。
しかしどの国でも、たとえばスポーツの祭典であれば、自国の選手に熱い思いを託す。
そういう意味では、多くの国の人は自国を愛しているのだろう。

日本人なら何だかんだと言いながら、日本の選手を応援する。
これがごく一般的な人のあり方なんでしょう。

このブログでは、mRNAコロナワクチンなど多くの日本の政策に対して詐欺だとケチをつけている。
論理的におかしく、何にも国民のためにならない、むしろ害と思うから指摘するのだ。

コロナワクチンについて、近くにいる人に説明しても、多くはたいがい無視される。
少なくとも接種後どうなるかは、その人の身体しだいだから、未来のことは指摘はしない。
あくまで現在の状況である。
ワクチン接種をした結果、現在、副反応や死亡者がどれくらいいるかという事実を説明するが、それでも馬耳東風の人が多い。

 

寄り道をすれば、コロナワクチンが出来た当初、厚労省のホームページには、そのワクチンの添付書面の要約が掲載されていました。そこに「予防効果は不明」とはっきり書かれていました。当たり前です。なんの治験もしていないのですから。つまり厚労省はこのことを知っていたのです。にもかかわらず、政府はっきり言えば、菅(すが)と河野は事実をちゃんと伝えず、予防効果があると断言していたのです。頭のいい役人からすれば甚だしい矛盾であるのに何の指摘もしないとはどういうことなんでしょう?

 

また悲しい事実として、コロナワクチンを国民が渇望して、そのワクチンができた頃の熱狂ぶりも大きく問題です。まるで大東亜戦争の頃のように。こんな状態のとき、まともな意見が無視されるのは歴史が証明するところ。悲しい人間の性です。論理的な思考ができる様な教育がない事も遠因としてあるのでしょう。

多くの人が「無料」「お上の指示」「ワクチンを打たないとコロナに罹る」または「重症化したくない」という。

「無料」と言うのはそもそも論外だ。接種する理由があまりにもお粗末過ぎる。
「安物買いの銭失い」ワクチンの場合は「無料の健康失い(こんな諺(ことわざ)はないけど)」。
そういう人が意外と多いのだ。
こういう人には何を言っても無駄。
そもそも銭勘定しか頭にないからだ。

「お上の指示」については政府を信じるのは自由。そしてそれを1ミリも疑わないとするなら、宗教に洗脳されているのと同じなので、これまたそんな人に何もを言っても無駄でありましょう。

さいごのワクチンに価値を感じている人は、その洗脳度によって違う。
多くの人は、ワクチンは免疫を高めるからウイルスを撃退出来ると頑なに思い込んでいる。
そもそも「免疫」というのがよくわかっていないし、また、難しい勉強を嫌がる人はこれ以上は、何を言っても無駄。
しかも学歴ある人ほど論理性に欠けているというのが日本人の特徴である。
これは受験勉強という暗記型の勉強こそ、頭の良し悪しの基準と考えるから、これまた建設的な意見交換なども出来ない。

いずれのパターンも自己の価値観、美学が固まってしまい、他人からの意見を受け入れ難いのだ。

こんなんでは、いくら説明しても誰も変わりやしないだろう。

要するにどこに帰着しているかといえば、「お金」なのだ。

このブログでは再三、お金の本質に気づかなければ、人類はそのうち滅びることを示唆している。
超巨大隕石や超巨大地震などの自然災害を除くなら、人類を滅ぼすのは人類自身なのだ。

未来に夢も希望もない。

そんな状況だから、自殺も後を絶たないのだろう。

警視庁のホームページによると、2024年(令和6年)1月自殺者数(暫定値)は・・・
1,558人(男1,054人、女504人)。

ちなみに2023年の合計は、21,818人(男14,854人、女6,964人)。

未来ある人たちが毎日幾人か自らの命を絶っているのだ。
その理由はさまざまでありましょう。
社会が複雑になれば、なるほど死にたくなる原因もさまざまありましょう。

多くは、人間関係あるいはお金に関係することである。

人間関係そしてお金がこんなに重要なのに、教育現場では何ひとつ教えることはない。
ここがそもそも教育の欠陥なのだ。
また、現在はこういうことを教えられる先生はほとんどいないというのも現実。
なぜなら教科書はないからだ。

生き方を教えるのは、AI(人口知能)ではない。
生身の人間の後ろ姿を見て、感じるそれしか今はないからだ。

 

よく親の後ろ姿を見て人は育つと言いますが、実際には親のマネをして子供は生きていくのです。あるいは親を反面教師とする人もいる。

ひとつ人間関係について『貞観政要』という唐の時代の本の中から、「十思九徳」というのをご紹介したい。
これは王様のために書かれた人間関係のマニュアルといってもよい。
王様でさえ人間関係に悩むのだ。

十思
1. 欲しいと思うものを見たら、足ることを知って自戒することを思う
2. 大事業をしようとするときは、止まることを知って民の安楽を思う
3. 高ころびしそうな危ないことを思うときには謙虚に自制することを思う
4. 満ちあふれるような状態になりたいという願望が起これば、満ちあふれる海は全ての川より低いことを思う
5. 遊びをしたいと思う時は、必ず限度をわきまえ、狩りの時、一方に逃げ道を用意してやるのを限度とすることを思う
6. 怠け心が起こりそうだと思えば、始めを慎重にして終わりをつつしむことを思う
7. 自分の耳目を塞がれているのではないかと心配ならば、虚心、部下の言葉を聞くこと思う
8. 中傷や讒言を恐れるなら、まず自ら身を正して悪をしりぞけることを思う
9. 恩恵を与えるときは喜びによって賞を誤ることがないように思う
10. 罰を加えようとするときは怒りによって重すぎる罰にならないように思う

九徳
1. 寛にして栗(寛大だが締まりがある→反対の意味は、こせこせとうるさいくせに、締まりがない)
2. 柔にして立(柔和だが事が処理できる→反対の意味は、刺々(とげとげ)しいくせに、事が処理できない)
3. 愿にして恭(真面目だが丁寧でつっけんどんでない→反対の意味は、不真面目なくせに尊大で、つっけんどんである)
4. 乱にして敬(事を収める能力があるが慎み深い→反対の意味は、事を収める能力がないくせに、態度だけは居丈高である)
5. 擾にして毅(おとなしいが内が強い→反対の意味は、粗暴なくせに気が弱い)
6. 直にして温(正直、率直だが温和→反対の意味は、率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である)
7. 簡にして廉(おおまかだがしっかりしている→反対の意味は、何もかも干渉するくせに、全体がつかめない)
8. 剛にして塞(剛健だが内も充実→反対の意味は、見たところ弱々しく、内も空っぽである)
9. 彊にして義(豪勇だが正しい→反対の意味は、気が小さいくせに、こそこそと悪事を働く)

人間関係に悩む人は一度これらの言葉を咀嚼(そしゃく:よく噛むこと。何度も読み返してみる)していただきたい。
中には時代とはマッチしないと思われる箇所もあるかもしれませんが、それは無視。

私も多くの人を見て来たが、だいたい一番トップにいる人は苦労した人なので、意外と低姿勢な人が多い。

もちろん平成以降の経営者は独善的な人も多く存在する。
一番厄介なのは、普段から上の人扱いされる部長職とか先生と呼ばれる人達である。こういう人がすべてとは言いませんが、地球は自分を中心に回っているような考えを持つ人が多い。笑

そんな部長職や先生と呼ばれる人も社会の中では、平等。
ただの「おっさん」「おばさん」に過ぎないのだ。

この世の中は、お互いに支え合いながら生きている。

その人の地位など関係ないのだ。
経済というのは、まさにそうではありませんか。

魚を獲る人、牛や豚を飼う人、農業に勤しむ人、物流に頑張る人などなど多くの人がいなければ、現代は成り立たない。
だからこそ、多くの恵みに感謝するような生き方をしないといけないのだ。

自分の力だけで生きているわけではない。むしろ「生かされている」というのが正解だろう。

だから自分のために生きるではなく、他人のために自分があるという気持ちでいる方がストレスも少なく済む。

お金というのは、その相互の関係の潤滑油であるべきなのだ。

ところがお金は腐らない。そして無機物のくせに利子という子供が生まれる。
よく考えれば、こんなフザケタ商品はない。

大昔は、宗教でさえ、利子を取ることを禁止している。

医学が100数十年前から迷路を彷徨っているのと同様に、我々はお金というものの取り扱いをずいぶん昔から間違って来たように思う。

お金の向こうには「人間」がいることをすっかり忘れてしまっている。
お金は人間が人間社会のために創造したものであることをすっかり忘れてしまっている。

この考えは昨今のインターネットの世界にも言える。
ネットの向こう側に答えがあるのではない。ただ「人間」がいるのである。
その人間がよい心の持ち主ばかりであればよいが、残念ながら人間は陰にいると自分自身のことしか考えなくなるようだ。

人間関係そしてお金。
今一度、見直してみることが、未来へつながる道でもある。

また、人間生活に大きく関係するのが、食である。
果たして現代の食というものを見る限り、美味しいものは多いが、健康に適したものかと言えば、疑問である。

正直、糖分の取り過ぎは、糖尿病という万病のもとのみならず、血液の流れを悪くするものともなる。
また、精製されたもの(味の素や白砂糖など)そして食品添加物(その種類は日本が世界でダントツで多い)は、科学的なものであり、決して人間が生きるための「他の命を食らう」というに値しないものだと私は思う。

栄養学とうのもその点、ビタミンだとか科学的記号だけみるのではなく、命を食らうという大事なことを忘れてしまっているように思う。


現代人に多くの病気に悩まされるのも食に原因があると常々思っている。

 

そして多種多様販売される「薬」にも原因があるかもしれない。私ははっきり「ある」と思っている。

また現代は、無菌室で子供たちは育てられているようにさえ思う。
ストレスも人間関係の中でもまれてもまれて生き方という免疫を学ぶと同じように、無菌室では人類が5億年かけて培った免疫を壊すだけである。
ウイルスと常に戦わないと免疫もその能力を失ってしまうに違いない。
そもそも生きること自体がリスクなのだ。ここをちゃんと認識し直す必要がある。

前にも書いたことだが、西洋医学一辺倒の考え方を改め、自然医学やその他の医学についても総合的に考えるべきではないだろうか。
そして西洋医学の限界を知り、科学の現在地をよく見定め、「いつか人は死ぬ」という死生観をちゃんと持てれば、世の中は変わるに違いない。