宗教学 | ochiochiのブログ

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地球温暖化も仮想通貨も新型コロナもSDGsもウクライナロシアの問題も「善意なき資本」が方向づけている。

世界宗教のうち、もっとも有名なのが「キリスト教」である。
しかし数の上からすると「イスラーム教」が今では一番多いといわれている。
 
もともとキリスト教もイスラーム教もユダヤ教から派生する宗教であり、旧約聖書を踏襲する。

イエス・キリストによる新たな神との契約更改ということで「新約聖書:福音書」を最高経典としたのが「キリスト教」である。
 
最高経典を「福音書」におく限り、それは「キリスト教」なのである。

カトリックしかり、プロテスタントしかり、異端ともされるプロテスタントの一派「モルモン教」だって最高経典は「福音書」だ。
 
ユダヤ教もイスラーム教もそしてキリスト教も「唯一神教」であることにひとつの特徴がある。
「ゴッド」とか「アッラー」とか名称は違っても同じ神様。
 
キリスト教を見ていく前に少し「イスラーム教」を解説しておきたい。宗教的に一番わかりやすい宗教だといわれるからだ。

イスラーム教がイスラーム教たる所以は福音書を第一の啓典と考えないから。勿論「コーラン」が最重要な啓典であります。
啓典が、法源(啓典がそのまま法律として機能する)となるのはユダヤ教とイスラーム教の特徴である。というかそういうものがないキリスト教の方が異例といってよいかもしれない。

キリスト教における福音書は、規範めいた、あるいは命令めいたものはなく、「心がけ」のようなものだと解釈されています。
 
イスラーム教は第一法源として「コーラン(発音的にはクールアン)」があり、以下、「スンナ」「イマージュ」「キャース」と法源となるものの順序が決まっている。ここまでをイスラーム教における「四大法源」といいます。このように「守るべきこと」をきちんと決めているのだ。これにない行いは解釈によるが、基本的には「やっても問題ない」こととされる。
 
四大法源で制御できないことは「イスティフサーン」「無記の福利」「慣習」「イスティーブ」「イスラム以前の法」「教友の意見」・・・ときちっと適用する法源の順番が決まっているそうだ。
 
イスラーム教は勤行(ごんぎょう:修行のこと)を明確に規定する。「信仰告白」「礼拝」「断食」「喜捨」「巡礼」これらを五行という。喜捨とは税金を納めること。ただ我々が税金を納める感覚とは違うらしい。

勿論、日本人がよく「節税」などというわけのわからないことをやっているが、そんなことは認められない。節税なんて考え方がおこるのは、税制が非常にわかりづらいからである。
本来、税金というのは、広くわかりやすいものでなければいけない。
このように複雑にしているのは、別の目的があるのかと疑いたくなるくらいだ。というか疑っている。笑
 
それはさて措き、イスラーム教にあるこの勤行こそが日本人に馴染まなかった原因であろう。
日本人は、戒律というものを非常に嫌う。これは後でも述べる。
 
また、イスラーム教の信仰は「神(アッラー)」「天使(大天使をガブリエルとする)」「啓典」「預言者」「来世」「天命(万物の生滅は神の意思による)」を信じることである。これを「六信」という。
 
「五行六信」はイスラーム教徒は、絶対に守らねばならぬことである。それをもってイスラーム教徒とみなされるのだ。
そして信仰においては、「偶像崇拝」を禁ずる。像を作ったりしない。マホメットの肖像画を拝んだりしない。マホメットは人間であるとしている。同じくキリストもただの人間と考えるのもイスラーム教徒の特徴です。キリスト教徒が何世紀にも亘って議論してきた「三位一体説」を否定する。モスクは集会所と訳された方が真意に近い。寺院と訳すと誤訳。
 
啓典である「コーラン」は訳してはならない。アラビア語でなければならないとされている。訳したものは「コーラン」ではないとされている。

預言者は、特に重要とするのが、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、マホメットの6人としている。とくにマホメットは「最終の預言者」である。とザッと見ただけでもイスラーム教は明確にいろいろなものを規定していることがわかると思う。
 
イスラーム教はマホメットを最終予言者にするため「契約更改」という考え方がない。
このような「契約更改」がなくなったところに「革命」という考えが希薄となり保守的にならざるを得ない背景がイスラーム教にはあります。 
 
ここで仏教とキリスト教の違いを。

仏教では、宇宙は法である。仏は法までは支配できない。
この考え方をこれを「法前仏後」という。

唯一神は、宇宙を作り、法則も作った。
神は万能であるということだ。
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教の考えを「神前法後」という。
 
人間は仏への道はあるが、神様には絶対になれない。
 
神様は絶対だ。
 
神と人間の関係は、陶(すえ)作りと作られた器にたとえられる。陶作りが神であり、器が人間である。陶作りは、当然に器をどう扱おうと勝手。 
旧約聖書には「ヨブ記」という敬虔な信者ヨブを神がいじめる物語がある。
これは神様が絶対であることを表現するものと解釈されている。

また「ヨショア記」にいたっては、ジェノサイド(皆殺し)の物語である。
神を信じないものは、人間ではないので、殺して構わないというのが、神の命令である。
その殺す際、容赦してはならないということを謳っているのだ。
 
ヨーロッパから海を渡ったキリスト教徒は、アメリカ大陸を発見した際、インディアン(大陸発見当時、印度だと思っていたため、原住民をそう呼んだ)を殺すのに何のためらいもなかったのは、インディアンがクリスチャンではなかったからだ。
 
ただキリスト教が、ユダヤ教やイスラーム教と決定的に違うのは、「トーラー」も「コーラン」つまり『戒律』めいたもの、つまりそれは信者として守らなければならない外面的行為があるのに対し、福音書にはそれがない。
 
キリスト教は、いきなり現在のようなキリスト教の形があったわけではない。

パウロが奮闘していた頃は、その勢力は知れていた。
 
原始キリスト教は、その発展段階において「修道院制度」と結びつき、それが今日のカトリックに受け継がれるのだ。
原始キリスト教が「修道院制度」を組み入れるようになり、多少キリスト教の地位が高まったことは見逃せない。
 
やはり、宗教はわかりやすいことが庶民にとってはありがたい。その点、なに言ってるかわからないことに有難がるのは日本人の気質であろう。

否、難解なことこそ、人の興味をひきつけるのかもしれない。これは個人の趣味の領域だろう。
 
しかし、修道院制度と合体したキリスト教(以下カトリックと呼ぶ)は、本来キリスト教になかったサクラメント(宗教的儀式)を取り入れ、世俗の罪を洗い流す方法を導入した。
 
理論的には「原罪」主義をとるキリスト教の趣旨から、罪を消すなんてことできないはずなんですが・・・。
多少悪いことをしても懺悔すれば、許してもらえるのだ。庶民にとって有難い宗教となった。
 
やがて時を経て、教会もだんだん腐敗が目立つようになってくる。
組織とはそういうものだ。
自浄作用などと都合のことをいいことをいうが、内部にいる人間にとってはなかなかダメなところというもは見えない。見えたとしても自分の居場所などを気にして問題化というところまで行きつかない。
これが人間の本性ではないか?

ところで、金銭欲にくらんだ一部のキリスト教を牛耳る僧たちは、ついに「免罪符」なるものまで発売した。
読んで字のごとく罪を免じてくれる札のことだ。
お金で贖罪できるシステムにしたのだ。
ここまで来るともはや信仰する努力など何の関係もなくなる。
せっせと金儲けすることが、一番よいことと考えるようになるだろう。
 
余談だが、この考えでは、近代資本主義へとは導かれない。
このことについては、またいずれ論じよう。

原始キリスト教の望んだ「内面的信仰」はどこへ行ったんだ!?
 
そこで1300年ころから原始キリスト教の趣旨に還るべきだと「宗教改革」の走りがあったが、実際に大きな勢いとなるのは、200年後のマルチン・ルターやカルヴァンが登場してからを待つことになる。
 
彼ら宗教改革者たちは、教会(修道院制度)は、本来のキリスト教の趣旨に反する。もっと聖書を重視せよ!と主張する。ここにプロテスタント(抗議することをプロテストという)が生まれることとなった。

それまでのキリスト教徒といっても聖書なんてほとんど読まなかったといわれている。
 
実は、キリスト教が世界宗教として大ブレイクするのは、この宗教改革からなのだ。

このプロスタントの流れは、後に特にアメリカにおいて「ファンダメンタリスト」と呼ばれる「聖書に書いてある一字一句を信じる」輩を登場さることとなる。
ファンダメンタリストは「人間はサルから進化したんてとんでもない」と考えている。進化論を講義したということで州が訴えられることがあるのがアメリカ。
 
ファンダメンタリストの一派、メアリー・ベーカー・エディ率いる「クリスチャン・サイエンス」なるものは1900年の初頭の出来事である。
聖書を信じれば、老・病・死などありえないと教祖エディのこのなんともいえない発想が一大ブームを起すのである。エディの死とともに廃れこそすれ、未だに信仰するものも多い。
この考えの発展形が「ニューエイジ・サイエンス」であり、やがて「癒し(ヒーリング)」という形に変わる。
 
アメリカは、清教徒(ピューリタン)によって作られてた。
本質的にもコチコチの宗教国家なのだ。
ついでに言えば、アメリカは「社会契約論」の発想に生まれた人造国家でもある。
 
「契約」にポイントがあり、これこそは唯一神教から出てくる発想である。
 
契約ということを学びたければ、ゴルゴ13を読め!
依頼者が死んでしまっても、ゴルゴは忠実に契約を履行しようとする。
これこそ、「契約絶対の原則」である。
 
この考えは、神様との契約という考えがないと生まれてこない。

神様との契約をタテの契約とすれば、人間同士の契約をヨコの契約という。タテの契約なくして、ヨコの契約は生まれないとするのが社会学の見方である。
 
ちなみに日本人も契約をするが、契約書をいちいち細かくチェックすることは稀であろう。しかも問題が起きたときには、両者で話合いましょうなんていう「円満条項」がつけられているものが、ほとんどではないか?これを発見したのが法社会学の泰斗、川島武宣教授である。
 
ところで、キリスト教の本質は『予定説』にある。
これは仏教の『因果律』と対比するといいかもしれない。

因果律は悪いことをしたら、悪い結果が起こるということ。
これに対して、予定説とは、良いことをしようと、悪いことをしようと「永遠の命」が与えられるか、つまり魂が救われるかどうかは、すでに天地開闢(かいびゃく)のときに神様が決めているということだ。
 
ここにキリスト教の難解な部分が存在する。「救い」と「現世での行い」は関係ない!
まことに日本人の発想にない考え方ではないか。
なのに日本人に人気があるのは、マリア信仰が心情的に合うこと、イスラーム教のように面倒な「戒律」がないことがあるのだろう。
 
仏教を信仰する僧侶たちに「戒律」は適用され、一般のただの仏教信仰者は戒律は要求されない。
 
しかし、日本の僧侶たちは、仏教にとって大事な「戒律」を理解出来なかった。
 
しまいには「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と唱えれば救われるというオリジナル仏教にはないものを取り入れてしまっている。 これを広く一般の仏教徒のやるべきこととした。
 
本家本元の仏教徒からしてみれば、異端も異端、超異端仏教である。
天台本覚論によって「戒律」が骨抜きにされ、このようなことになった。
 
仏教にもその思想上難解無比な部分がある。
「空(くう)の思想」というものがなかなか理解に苦しむ。
 
仏教は、バラモン教から派生したものだ。
もうひとつヒンドゥー教もバラモン教から派生した。
インドに住む人の80%がヒンドゥー教徒だといわれている。
 
我々日本人には、インドはお釈迦様の国であり、どうしても仏教を連想しがちだが、そうではない。
 
バラモンとは「司祭階級」のことである。
この源流ゆえに「カースト制度」が厳然と存在するのである。

カースト制度とは、バラモン、クシャトリア(王侯、武士階級)、バイシャ(平民、農工商階級)、シュードラ(奴隷階級)これにアウト・カースト(不可触民)とに分けられている。アウト・カーストを除く四階級を「ヴァルナ制度」という。これがバラモン教にあり、これをモデルとしてカースト制度が組まれている。

ヒンドゥー教の聖典「マヌ法典」によってこの差別的階級制度が正当化されている。
 
ヒンドゥー教は多神教である。

この点、唯一神教とするユダヤ、イスラーム、キリスト教とは違う。

日本の神道(しんとう)も多神教である。

日本では儒教の思想も取り込んでいるが、儒教は個人を救済するというより国の治安を目的としたものである。
神道や儒教そして仏教、キリスト教がごちゃまぜで共存する日本という国はまことに世界的には珍しい国なのであろう。
クリスマスとお盆が両立しても何の不思議も感じない国民性は、他の宗教観を持った人々からは大変面白く映るに違いない。
 
ヒンドゥー教に話を戻すが、ヒンドゥー教は多神教であるが、人気のある神様がふたりいる。
ヴィシュヌ神とシヴァ神である。
ヴィシュヌ神は、宇宙の維持を司り、この宇宙が危機に陥ったときに「化身」になって救済してくれる神様である。ウルトラマンの原型ではないか。レインボーマンもここにヒントを得ているのであろう。

シヴァ神は化身とはならないが、世界の創造、生殖、家畜の神、破壊と降伏(ごうぶく)の神を担っている。特に生殖の神であることがクローズアップされている。
多くの宗教が性に関して消極的であるの対して、ヒンドゥー教はかなり積極的に性を取り扱う。
ヒンドゥー教は、男根(リンガ)や女陰(ヨーニ)を崇め、男女の交歓を神聖視している。 
 
カースト制度存在は「輪廻転生」の考えと結びついている。
輪廻転生とは、人間は生まれついての「業(ごう:カルマ、カルマン)」があり、善行を多く積めば「善因楽果」、逆に悪行が重なると「悪因苦果」で「自業自得」となり、現在の不幸は前生(ぜんしょう)で重ねた悪行の報いである、とする因果応報説の、その背景を成す「人間は死んでは何かに生まれ変わり、また死んでは何かに生まれ変わることを、車輪が回るように永遠に繰り返す存在である」と規定する思想である。

こうした「宿命」からの離脱(解脱)のために「三大債務(リナ)」と「三大目標」がある。
 
三大債務とは「神々へのリナ」「聖仙(リシ)へのリナ」「祖霊へのリナ」を人間は生まれながらにして背負っているとしている。

これをもとにヒンドゥー教徒の義務である「三大目標の成就」に務めなければならない。
三大目標とは「「カーマ(性愛)」「アルタ(実利)」「ダルマ(社会的宗教義務)」である。

カーマとは『カーマ・スートラ』を指南書に、充実した家庭生活の営み、子孫繁栄させることを目標としている。
アルタは『アルタ・シャーストラ』を指南書としたカーマやダルマのために生活に必要な実利的な面での増大を目標としたものである。
そしてダルマとは、信者の守るべき「法」のことで、『マヌ法典』をベースにする。

参考までに、奇術を使うサイババもヒンドゥー教の一派である。
 
仏教の世界観(輪廻の思想)は、完全なる階層社会を構成してる。

十界という。
地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅(しゅら)、人、天、ここまでを「迷いの世界」という。
このあとを「悟りの世界」として、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩(ぼさつ)、仏となる。
迷いの世界がいわゆる「輪廻(りんね)」の世界。六道輪廻ともいう。
「悟り」を開くか開かないか。これが仏教のすべて。

しかもやっかいなlことは、どうしたら悟りが開けるか誰も教えてくれないということです。
「空(くう)の思想」というのを理解しなければなりません。

難解な思想と言われます。
 
"空"というのは、現象世界における"有"でも"無"でもない概念を指し、たとえてみれば"怒る"という性分をあらわしてみてくれ・・・と言われても、すぐにあらわすことはできない。しかも形がない。だから、無である。
しかし、ある縁に触れた時怒るという性分が現出することは誰もが知っている。よって、有である。この例の場合の"怒るという性分"が空の概念にあたる。

これを踏まえた上で、円融の三諦論について次に述べる。
この三諦論は空諦・化諦・中諦からなり、仏とは何か?・・・を探求する際の重要なプロセスであるとされる。
ここに水があるとする。水は冷やせば氷となり、熱を加えれば、お湯になり、やがて水蒸気となる。この場合、ある時は氷となり、水蒸気となるそれぞれの姿は化諦である。
また、冷やしたり、温めたりするという縁により、形を変える性分(見えない力)これが、空諦。
そして、氷から水蒸気まではすべてH20と表すことができるのは、周知の通り。このH2Oが中諦である。
別の例を取れば、鏡に写る様々な"像"これは化諦。様々なものを写し出すという鏡の性分・・・これが空諦。鏡そのものが中諦である。
このように三諦合わせたものがこの世の実相であると、仏教では見る。
 
また、空の思想理解のためによく使われる文章を挙げておこう。後は読者に任せたい。
 
以下「ミリンダ王の問い」(平凡社東洋文庫 中村元、早島鏡正・訳) より抜粋。
 
ミリンダ王はギリシャ論理学で迫り、それに対してナーガセーナ長老が仏教論理学・空の論理学で受け応える物語です。

ミリンダ王はナーガセーナに「尊者、あなたは何という名なのですか」と問いかける。
 
「大王よ、私はナーガセーナと呼ばれています。しかしながら、大王よ、ナーガセーナというのはじつは名まえのみにすぎないのです。そこに人格的固体は認められないのであります」
 
これを聞きとがめたミリンダ王は「人格的固体はないというあなたが、ナーガセーナと呼ばれているところのものは、いったい何ものなのか」と問いかける。 
髪か、爪か、皮膚か、肉か。骨か、心臓か、涙か、尿か。物質的な形か、形成作用か。しかして、それらの合体したものか。いずれの質問にもナーガセーナは「そうではない」と答えた。
 
ミリンダ王はいう。
「尊者よ、わたしくしはあなたに幾度も問うてみたのに、ナーガセーナを見出しえない。尊者よ、ナーガセーナとはじつはことばのことにすぎないのですか?しからば、そこに存するナーガセーナとは何ものなのですか?尊者よ、あなたは、『ナーガセーナは存在しない』といって、真実ならざる虚言を語ったのです」
 
「大王よ。もしもあなたが車でやって来たのであるなら、何が車であるかを告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車ですか」ナーガセーナが問うと、王は「そうではない」と答える。
 
では、軸か、車輪か、車体か。それらの合体したものか。それら以外に車があるのか。
 
王はナーガセーナの問いにすべて否と答えた。ではそこに車はないのか。そこに存在する車何ものか。名前だけのものか。
 
ミリンダ王はここに来て、空を悟る。
 
「轅に縁(よ)って、軸に縁って、<車>という名前が起こるのです」
 
「そうです。大王よ、あなたは車を正しく理解されました。それと同様に、私にとっても、形に縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、<ナーガセーナ>という名まえがおこるのであります。そこに人格的固体は存在しないのです」
 
 
国際社会となっても人の心に眠る宗教観は知っていて損のないものです。
人は内面からの圧力によって動きます。
人の考えに方向付けするものが幼いときからの周囲の環境であることは事実。
特に人は生きることに大変な不安をいつも抱えているもの。
それに完全な回答でないにしても、生きる勇気を与えるものが宗教であろうかと思う。
とするなら、宗教は人の正義感や考え方に大変大きな影響を及ぼすと言ってもよいだろう。
 
有名な宗教について書いてきたが、人間を内側から動かす動機としては、〇〇イズムなど広く言えば宗教だけとは限らない。