* SAH(発症前の様子) * | my life...

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2007年12月1日~2008年12月31日までのblog

※SAH=くも膜下出血の回となります。 真面目にSAHの話をするので、


興味のない方はごめんなさいm(_ _ )m



11月~5月までの半年間は、統計的に三大疾病の発生率が非常に高く


なる時期なので、年内最後のPCでの更新となるためSAHにしました。


忘年会も終わりたてでこれからお正月ですが、もしものために、日頃の


生活を考えてみたりしていただけたら幸いです。



SAHをテーマとして、まずは発症前の*myu*の様子をお話できたら


と思います。(発症前の様子なので、役には立たないと思います)



【*myu*のSAH発症前の様子


                     (2007年1月1日~2007年5月20日)】



父が亡くなってからは「神棚」や「仏壇」、しめ縄の付け替えは*myu*


のお仕事。(幼少期から、大掃除のこの作業は父と私、二人のお仕事


だったのです。)



いつも通りに年末の大掃除を終え、元旦へのカウントダウンをしている


時でした。 何だか胸焼けの症状がひどく、「食べすぎかなぁ…」と思い


ながらも、家族で檀家のお寺と近所のお寺に除夜の鐘を叩きに行きま


した。



戻ってきて就寝。 朝方…。 数え切れないほどの嘔吐を繰り返し、昼に


は脱水症状。 元旦から急患で病院へ行き、結果は「ノロウィルス」。


ビニール袋をいくつか手渡され、点滴で栄養補給。



2時間少々で終わるはずの点滴が全く入っていかず、点滴の落ちる


スピードを早めるとすぐに嘔吐。 


途中80代のご老人が同じ症状で点滴をするも、*myu*の点滴は終わ


らず、結局倍の5時間近くかかって点滴終了。



「とにかく水分を採って吐いて下さい。 ご存知だと思いますが、飛散


感染するので自己完結を…。 こちらにいられる間は点滴を打ちに来


て下さい。」


3日まで通い、4日にはUターン。 5日から仕事始めでした。



でも、年初めの朝礼ながら立っているのがやっと。 我慢し続けるも、


終わり間際にはトイレに駆け込んでおりました。



「今年は、何か嫌だなぁ…。」


「そう言えば、父が亡くなる年のお正月も同じこと言ってたな…。」


「そっかぁ、今年は4年目。またGWには実家のお祭りだ。 亡くなって


初めてのお祭りかぁ…今年のお祭りは特別だね…。」



この時までは、母や祖父母に何かあるのでは…と、ず~っと心配しな


がら毎日を過ごしておりました。 今思えば、父も自分ではなく、祖父


や自分の兄を心配していました。



その後も体調は戻らず、1月中は体調不良。 でも、入社以来風邪等


を含め、病気で休んだことはない私。 というか、安静と言われても休


む時間なんてなかった。



問題PJばかりさせられているのか、自分が悪いのかわからないほど


いつも問題が起こるPJばかりだった。 まぁ、どちらもYESだと思う。


しかし、問題が起こるPJは別部署の担当者がいつも一緒だった。



もちろん上司も問題が起こることを承知で私に任せていた。私は弊社


の風紀委員のようなポジションを築き始め、社内でも癖のありすぎる


方のPJは私担当になっていた。



交渉してみるも、「お前以外にできる人間がいるか?」の一言。


ある意味では、「人の振り見て我がふり直せ」で勉強にはなった。PJ


を進めて行く上で危機回避の勉強にはなった。人としてどうあるべきか


の勉強にもなった。



問題は予期せぬ事態として起こるものではなく、起こるべくして起こる


ものになっていた。私の役目は?起こらないようにPJを監視・管理す


ることというより、人間の監視をしながらPJを引っ張っていかなけれ


ばいけない…そんな仕事になっていた。 そんな癖のある方々は、


役員か役職有りの方々だった。



私がいた部署には女性社員は私だけ。業界としても男性社会。女性は


圧倒的に少ない。 若い私は怖さ知らず。というより、私は色々なことを


重んじる性格。 しかし、私が暴れまわれば上司は「うちの部下が…」の


謝罪で済み、私への指令は「そのまま暴れろ…」と。 色々な意味で、


女性としての特権を策士の上司によって利用されていた。



そんなことは承知していた。 指示の出し方に矛盾があった。 何度も


話し合った。 


「できないものはできない。」 「仕事の量が技量を超えている」


「個人的な感情で振り回してくれるな」と…。



全てにおいて上司本人は認めていた。 改善されるのは一瞬。


またすぐに戻る。それは私の性格もある。無責任なことはできない。


それをわかっての采配だった。



そして、その策士な上司自身も厄介になっていた。 直属ゆえ、扱うこ


とが厄介だった。 その上は?その下は?…頼りになる役職の方々


ならば、社内風潮ならば、とっくに問題は解決していたはずだし、問題


が起こるPJなんてなかったはずだ。



それだけ弊社は危機管理能力のない会社だった。 リスクマネジメント


できる人間がいなかった。 人を育てられない会社というより、人を引っ


張っていく見本になる方がいなかった。



仕事だけのストレスやプレッシャーならばいつも通りに1年を終えられ


ていたかもしれません。



しかし、前年から継続していた上司からの余計なストレス。それから逃


れようとすることで更に生まれるストレス…。ストレスにストレスの上塗


りを重ねていました。



仕事は年度末の多忙期。新年度のPJ作り。無理なスケジュールの中


でのPJ作り。週に1、2度UPしなければいけない依頼仕事数件…。



誰しもが多忙。多忙と思う量、抱えられる量は人それぞれ。 上司は部


下の仕事量の調整をするのが仕事。 でも、私の場合はそうにはなら


なかった。そうすることができなかったと言った方が適切かもしれない。



入社以来幾度となく話をしてきたことだった。でも、状況は回を増すごと


に悪化していく一方。話すことすら嫌になっていた。顔を見ることすら


嫌になっていた。存在を感じることすらいやになっていた。



幸い、資格試験を抱えていた。 日曜日には9時~14時まで講義。平日


もDVD等での勉強でスクールに通っていた。 でも、仕事も持ち帰って


いた。 1月後半から発症直前までの平均睡眠時間は4時間を切ってい


た。 法令の改正が途中で行われる2007年の試験。 初受験。 勝率は


非常に低い。 それでも勉強して1発合格を狙っていた。 実務経験を


要する資格試験。 


表で笑って、裏で泣いて…やっと手に入れた実務経験、受験資格。