あの、オカンが死によった…。 | 明日天気になぁ~れ!ミウラはり灸漢方院のブログ

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こんにちは。
尼崎市武庫之荘のミウラはり灸漢方院のブログです。
ヤフーブログからの引っ越しです。
健康情報はもちろんの事、日常の色々なことを書いていきますね。
よろしくお願いいたします

みなさん
こんにちは。
ミウラはり灸漢方院です
ご無沙汰しておりました

6月は、毎年少し調子悪いのでブログの方もお休みさせて頂いておりました。
それに加え、表題にあるように、かねてから病気療養中の母 淳子が7月9日 亡くなりました。
享年80歳 憎まれっ子世にはばかるというから、もっと長生きして欲しかったのですが…。

この1年はずっと入院中のような感じでした
次入院したら、もう最期だろうとおもっていました。
それでも、今年いっぱいくらいまでは元気でいてくれるかなとも思っていたのですが…。

死因は
・細菌性肺炎
・慢性腎不全の急性憎悪
・顕微性血管炎

5月1日 市民病院から退院して、世間はコロナで介護業界も全く動いていない状態だったので、そのまま近隣の病院に
リハビリ目的で再入院してもらった
市民病院を退院する4~5日前から市民病院も、リハビリ目的の病院も入院中は全く面会も許されない状態

5月28日に退院してそのまま、在宅療養へ
退院する直前に今後のことを話しするために面会を許された
その際に、コロナの影響で訪問介護が全く回っていないので、ディにも行ってもらうことを言うと
ふてくされて話をそらす
以前からディみたいな、ジジババの幼稚園みたいなところは大っきらいな人
でも、ここはしっかりと話をしとかないと…。
最後には、「行きたくないというても行かなアカンねやろ!!」って


そして、28日に自宅に。
6月の初めからディの体験に行かした
お遊戯系は嫌がると思って、リハビリ系に行ってもらったが、気に入らん様子
ここは、いややって
(ははぁ~ん、このまま一応体験だけ行って行かんつもりやな)
そう思ったけど、自宅で入浴もできないので、次は親父の行ってるところへ行かすとすごく気に入ったようで…。


今回退院した時から既にまた下肢の浮腫がひどくなってきていた
6月4日に市民病院の主治医の診察
主治医は「数値的には再入院が必要だけど…。」
本人も次入院したら最期と言うのがわかっていたと思う
【入院したらみんなと会えなくなるからいやや】
いっしょについて行ってくれた、りつぎさんが「状態がいいので、在宅でこのまま様子を見ます」とそのまま自宅に帰ることになった

ディに行った日はほんとにうれしそうだった
「みんながよーきてくれたね。」って迎えてくれるねん
「でも、あと何回行けるかな…。」って泣いてた
ディから帰ったら、「あれだけ何でもできよったのになぁ・・。」とりつぎさんに甲の折り方を教えてもらって練習してた


とても氣が強く氣丈で負けん氣の強い人だった
人にひどいことを言っても、ケロッと忘れる典型的なB型人間
それにどれだけ、周りの人間は傷つけられたか・・・。その一番の被害者は間違いなく長男の俺(笑)

前回入院していてまだ、しっかりしていた頃、病院側にちょっとした不手際があった
それに激高したおかんは、ナースステーションに怒鳴りこみ
対応した師長に「何度言っても、看護師を管理できないあんたに、師長の資格はない。とっとと辞めてまえ!」と…。
ほんま、すんませんって感じ。

そんなおかんが、前回の市民病院の入院あたりから、
「ありがとうな。迷惑かけてごめん」
やたらそんな言葉を口にするようになった

おれを見て手まで合わすようになる
「おれは、仏さんとちゃうど。そんなええ人になってどないすんねん」って言うても
「ありがとう、迷惑かけてごめん」って手を合わす
大好きな珈琲を持って行くとほんまに美味しそうに
「おにいちゃん淹れたやつか?ほんま美味しいわ…。わたしはほんまに幸せやな」

(おかん、ほんまにそんなええひとになってどないすんねん)

リハ目的の病院を退院して在宅療養になってからも、事あるごとに

「迷惑かけてごめん、ありがとう」と手を合わせよる
ご飯を食べる時も「頂きます」と手を合わせて深く一礼をしてから食べる
おかんが仏さまのように見えるがな…。

ディに行き出したら、りつぎさんに
「ディでジャージで来てる男の人なんかおらんから、りっちゃんお父さんの服買うてきたって」
親父は
「男はカッコやないで。顔や!」って答えていた
ふたりで、親父の服を買いに行って、親父に着せて見せると
「おとうさん、男前や!」ってよろこんどった
親父何年もディ行ってるのに、今までそんなこと全く氣にもせんかったくせに。

自分がディに行くようになってもう一つ変わったことが…。
薬の副作用などで難聴になってた
ディのみんなとコミュニケーションをしっかり取りたかったのだろう
何度勧めてもしなかった補聴器を自分からしたいと・・。

どうせならいいものをと、合わせて作ってもらった
自分が考えていた値段よりかなり高かったのでちょっとショックを受けてたみたい(笑)

腎障害からかこの頃より少しぼっーとした感じの軽度の意識障害がみられる

【7月2日】
1週間後の主治医の診察を前倒しして診てもらう予定だったが、朝に親父から少しおかしいと電話があった
すぐに駆けつけてすぐに救急搬送をお願いした
もう、ダメだと思った
その時の日記には、もう帰れないかもしれないが、もう一度だけ1週間だけでいいから帰してやりたいと書いていた
そのまま入院になり、午後に主治医から電話があった
「先生、今回かなり厳しいですね」
「はい、腎臓がほとんど機能しておらず、かなり厳しいです」
「正直あとどれくらいですか?」
「このまま、利尿剤が反応せず尿が出なければ、数日かと・・・。」
コロナも一段落し、個室に入ると面会が可能だと聞いたので個室をお願いした

もう一人の主治医からも電話があり
「延命治療はどうされますか?」
「本人も家族も望んでいません」
「苦しいときの医療用麻薬はどうしますか?」
「苦しくないようにしたいので、その時はモルヒネは使ってください、ただし、あの状態ですから打ったらすぐに逝くと思いますので、必ず打つ前に連絡をしてください、だれか家族のいるときにしてください」

おかんは、その後少し尿が出てくれて、2・3日かと思われていたのですが、1週間がんばってくれました

死んだ自分の母親に
「おかあちゃん、はよ、向かいに来て…。」

「おかあちゃん、なんで迎えに来てくれへんの」
そして
「おかあさん、大好き」
っていうとった
そういえば、おばぁーも死ぬ前に「怒られても怒られてもおかあさん(うちのおかん)がええわ」って言うとったな
母娘やな

その間、駆けつけて来てくれた人とも話をし礼を述べ感謝の言葉でお別れをしていました

親父には
「お父さん、カッコよかったな」

僕には
「おかん、おれやで。わかるか?何か言いたいことあるか?」
「おにいちゃんには迷惑かけたな。ごめんな、ありがとう・」
「何言うてんねん、もっと迷惑かけんかいや…。

うちのこどもには
「お父ちゃんの言うこと聞いてがんばるんやで」

僕と弟には
「兄弟仲良く、ケンカしたらアカンで」
何度も同じことを繰り返していた

りつぎさんには
「ほんまに世話になってありがとう。迷惑かけたな。りっちゃんにはなにもあげるもんが無い。ごめんな」

「ううん、おかあさんには、いっぱいもらったよ。いっぱい教えてもらった」

「おにいちゃんから、いっぱい買うてもろて」
【なんで、おれやねん!!】

【7月8日・夜】

もうほとんど話すこともできない状態
「おかんおれやで。わかるか?」
顔を覗き込むように話すと、僕の腕を挟むようにして手を合わす

その後子どもが来ると、今度はしっかりと氣力を振絞って
「お父ちゃんの言うことを聞いてがんばるんやで」と

【7月9日・午前3時ごろ】
ソファーに横になっていたところ、いっしょについていてくれていたりつぎさんに起こされる
おかんの最期の言葉は
「連れて行って」

たぶん、おばぁーがいよいよ迎えに来てくれたのかもしれない


4時前には、血圧が測れなくなり、瞳孔も散大しいわゆる「死」というものを迎えたと思うが、ペースメーカーが入っている関係で
心電図には微細な波形が残っている
先生が、「あと、誰か来ますか?」
と聞かれたので「弟が後2~30分で来ますと」答えると「じゃ、少し待ちます」とのこと
弟の到着を待って、改めて脈・聴診器・瞳孔確認をして「午前4時30分を死亡確認とします」

事前に相談していた葬儀屋さんに連絡して迎えに来てもらった

この葬儀屋さんには、本当に家族のように送ってもらったと思う
このことはまた、次の機会に書きたいと思う

遺族は悲しんでばかりいられない
故人を見送る準備をしなければならないですよね
おかんは終活をしっかりしていた

書き溜めた日記は読み返し全て処分し、写真も自分のものは全て処分し他の人のものはその人に渡していた
葬式にはこの写真を使ってとそれは、僕も聞いていた
夏に死んだらこちらの衣装
冬に死んだらこちらの衣装でと箱に分けてりつぎさんに託していた



(さらしにお経が書いてあった、親父の分と自分の分と)

しっかりと会いに来てくれた人に感謝の言葉とお礼を述べ
言いたいことは全て話し
まぁ、最後の最期まで、おかんらしい亡くなり方だと思った
また、このおかんは、ある意味「持ってる人」かと思う
これが少し時期がずれていたら、前でも後ろでも・・・。
少し前なら、個室でも面会できなかったし付いてやることもできなかった
少し遅れても、コロナの再燃で、今また個室でも面会が出来ないらしい
人間らしく、会いたいであろう人に会え、言いたいこと伝えたいことを残して死んでいった
また、反対に時期が悪く寂しい思いの中亡くなられた方も多いと思うと胸が痛む

おかんとケンカして家を出たのが24歳くらいらしい。よく覚えていなけど
それから実家に泊まったのは震災で借りていたアパートが全壊したので仮設に移るまでの間だけやったな
その後また大ケンカして数年絶縁状態もあったしな
なんか、その時に僕に宛てた手紙が出てきたけどまだ、読めていない

その後実家に泊まったのは
おかんの介護の時やったな
そういえばあの時も、退院してきて転倒などの心配があるから泊まって
利尿剤の関係で30分おきにポータブルの移乗と排尿介助をして、朝方6時ごろやっと寝れるかなと思ったら
「仏さんのことするからジャマやから帰れ」っていいよったな
それでもしばらくは横で寝泊まりしてた

9日に帰って来た時が最期の添い寝やったな

大好きだった、宗次郎さんの童謡をかけた
死んだらお経いらんからこれ掛けてくれって言うとったもんな

 

 


【7月10日 通夜式】
綺麗にしてもらって、寝てる見たいやったな

【7月11日 告別式】
朝、大雨やったのに出棺の時は雨止んでたな
姫路も、神戸のおばちゃんも来てくれたで

7月11日は、ももたんが虹の橋を渡った日やねん
ももが、家出した時に、僕に怒られるおもたんか、おかんの家に行ったよな

ももたん、おばぁーと一緒におかん迎えに行ったってくれな

たのんだで

最後に。
りつぎさん、本当にいろいろありがとうございました
嫌な思いも散々したのに、長年に渡り、最後の最期まで本当にありがとう

森井さん
いつもおかんに、美味しいもん届けてくれてありがとう
よろこんでたよ
小野さんも綺麗な供花をありがとうございます

深田のおばちゃん
いつもありがとうございます
おかんのというか、うちの唯一血のつながった身内です
富美恵さん・恵子さん・奈々緒さん、そして優しい旦那さんたち
いつも来てくれるのを楽しみにしていました
1年分笑っていました

神戸のおばちゃん
血はつながってないけど、おかんもずっと姉さんと慕ってました
僕もずっと赤んぼの時に、お風呂とか入れてもらってたねんな
恵子さんとのビデオメッセージ 喜んで見てたで
おかん、おばちゃんの目心配してた
氣をつけて長生きしてや

俊成先生・黒坂母さん、百合子さん
お久しぶりがこのようなことで・・。
お世話になりました

はっしゃん
ありがとうね
おかんもはっしゃん、どないしてるって氣にかけとったで

れいなちゃんママ
おかんの黒豆受け継いでくれてありがとうございます
また、作ってね

ご近所のみなさんも、ゴミ出しや見守り本当にお世話になりました

その他、みなさん、本当にありがとうございました
この場を借りてお礼申しげます

24の時に家を出てから、とっくに親離れなんかしてるつもりだったのにね


でもね、こんなことを書いたら不謹慎かもしれないけど
ももが虹の橋を渡っと時の方が悲しかったように思う

これって、なんでやろって考えたんやけど
ペット・動物って亡くなった後、魂とのコンタクトが取りにくいんやと思う

その点、肉親は姿が見えるわけでもなく、声が聞けるわけでもないけど
死んだ氣がしないというか、まだおるような感じがする
まだ、四十九日経って無いかも知れんけど

武田鉄也さんが、お母さんが亡くなられて10年経った時にこんなことを話されていました
「人は良く死んでしまったと言うけれど、あれは間違いですね」
「死んでいるんです」

「死んで、居るんです」
 

 

 


おかん、
おばぁーは、わてが死んだら化けて出たるって言うとったけど、結局出てこんかった
今度、おばぁーといっしょに、化けてでてこいや
まってんで。

                             =合掌=